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第三部 不浄

41 キトンブルーには戻れない

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   * * *

 親友が消息を絶って数日が過ぎた。
 彼女の行方に手がかりはなかった。
 だから、娘はその可能性を受け入れざるを得なくなった。
 りんご様の祟りの可能性を。
 娘は巫女ではなかった。ただ、たまたまその伝承を知る機会があっただけ。
 親友はりんご様に召された。
 ならば、もうどうしようもない。
 親友とはもう会えないだろう。わたしも、彼も――
 わたしたちは結婚する。
 そして彼女の分まで幸せになるのだ――
 そう、自分に言い聞かせたそうよ。
 憔悴して自暴自棄になる彼を見ていると、胸が張り裂けそうになるけれど、それは一時的なことなんだって。
 だけど――
 彼女にはただ一つ、親友を取り戻すあてがあった。
 それはあくまで可能性でしかない。まだ誰も試したことがない、というだけ。思いついても誰もやらなかったというだけの、割りに合わない賭けだった。

   * * *

 蒼衣の部屋はモノトーンの調度品で統一されていた。パソコンデスクに、背の高い本棚。カーテンを閉め切っている。集合恐怖症なら卒倒しそうな水玉模様だ。

「やっぱり口溶けがけっこう変わるものね」蒼衣はチョコをつまみながら言った。
「そうだね。手作りって感じ」知佳は言った。「温度調整テンパリングってコツがいるから」

 良くも悪くも、「友チョコ」という感じの味だ。女子高生がやり取りするなら、こんなものだろう。後は形やラッピングで工夫するか、別のチョコ菓子にするか、だ。
 とはいえ、蒼衣にどこまでできるかはわからない。場合によっては本番も自分が手伝うことになるかもしれない。

 ――岬さん、その持ち方だと危ないよ。

 板チョコを刻んでいるときのことだ。蒼衣は見たことがない包丁の掴み方をしていた。リレーのバトンでも握るような持ち方だ。手を添えて、握り方を教える。

 ――ごめんなさい。不器用で。本の虫だからかしら、言葉できちんと説明できないことって再現するのが苦手で。

 ――でもいつも凝った髪型してるでしょ。自分でやってるんじゃないの。
 ――ああ、あれはね。その……

 蒼衣は答えにくそうにした。少しはにかむように笑う。

 ――父が毎朝やってくれるの。

 それ以上は恥ずかしかったのかもしれない。話題を戻す。

 ――子供の頃は苦労したわ。リコーダーもなぜか音が鳴らないし、自転車も練習したのにどうしてもバランスが取れなくてけっきょくいまも乗れないままなの。

 そんなことを言いながら、刻んだチョコをボウルに移し、湯煎で溶かしていく。
 知佳は蒼衣が手元を滑らせてボウルをひっくり返すのではないかとひやひやしながら見守った。

「母は、とても器用な人だった」蒼衣は言った。「横浜のお嬢様だったらしくてね、父とは駆け落ちで結ばれたの。ドラマチックよね。だから、母方の親戚ってわたしは会ったことがないの。母も実家のことはあんまり話したがらなかったし」

 蒼衣は机上の写真立てを示した。写真を見て少し混乱する。そこに写っていたのは、言わば、過去と未来の蒼衣だった。

「これが母なの」蒼衣は大人の方の《蒼衣》を指差した。「そしてこっちがわたし」

 蒼衣は四歳から五歳くらいに見える。母に抱かれ、少し不安げな表情でこちらを見つめていた。髪と目の色がいまよりも明るく、いっそう日本人離れして見える。

「キトンブルーって言うでしょう? 猫も赤ちゃんのときはみんな青い目をしている。それが徐々に変わっていく」

 白人の子供もそうだと聞く。生まれたときは青い目の子供が多いが、成長するにつれ、空が暮れていくように暗い色に変わっていくというのだ。

「きっと母やわたしには北国――あるいは海外の血が流れてるんでしょうね。それがどこの国のものかはわからないけど」

 蒼衣の母はなんでもできたという。料理に植物の世話、手芸、ピアノ。なんでも。たくさんお稽古をしてきたから、とのことだった。

「わたしとはまるで違うでしょう? 似てるのは見た目だけね」蒼衣は自嘲した。「母が遺してくれた庭もダメにしてしまった。ハーブや花が枯れていくのをなす術なく見てるしかなかった」

 蒼衣の母が亡くなったのは、蒼衣が中学一年生のときだったという。

「病気だった。元々、体が強い人じゃなかったの。わたしを生むときも難産で母子ともに命がけの出産だったそうだし――」蒼衣はそこで言葉を区切った。「わたし、実はお姉ちゃんと妹がいるの。藍生あきお姉ちゃんと瑠璃るりちゃんっていう、ね。でも二人とも死んじゃった。お姉ちゃんは流産で。妹は保育機の中で」

 そして蒼衣と父だけが残った。広い家に二人。父親と次女だけが。

「母が息を引き取ったとき、少しだけ夢路さんのことを信じたくなった。亡くなった人たちとはもう会えないと思ってたけど、母やお姉ちゃん、妹も夢路さんのような形で存在し続けてるんじゃないかって」

 ――お姉ちゃんはわたしのこと、覚えててくれる?

「でも、信じきれなかった。ゆーさんのことを不謹慎だとまで思った」蒼衣は俯いた。もう一度顔を上げると笑顔になっている。「ゆーさんはよくうちにも来てたの。作家志望だから、身近にいる小説家に興味があったのね」

 蒼衣の父は専業の作家で、最近は新作の取材で家を留守にしていることが多いらしい。

「父は紙の上で人を切り刻んで転がすのが仕事。大学時代からずっと死体をもののように扱ってトリックを考案してきた」

 しかし、妻のことがあってスランプに陥ったらしい。死生観を問い直されたのだろう。

「ゆーさんはいつも言ってた。不謹慎で何が悪いんだって。ミステリなんてそんなものじゃないか。不謹慎な話も書けないなんて戦中と同じだ。あの時代に不自由を強いられた先人たちがいたのを忘れたのかって。彼らに顔向けできるのかって」蒼衣は苦笑した。「ある意味、ひどい話よね。あの人はあくまで父のファンとして新作が読みたかったんだと思う。だから焚き付けに来た。ゆーさんなりに言葉を選んで父を励ましていたのね」

 ほどなくして蒼衣の父は立ち直ったという。新作に取りかかりはじめたのだ。蒼衣はその本を本棚から抜き出す。分厚いハードカバーを開くと、巻頭の扉ページに献辞が置かれていた。

『若き友人Yに捧ぐ』

「ゆーさんはね、エゴイストだった。魔女ウィッカとも自称していたわね。『汝、自分の欲することをなせ』というのを地で行く人。決して善人ではないってね。だけど、周りをいたずらに傷つけ、不幸にすることも望んでなかったというだけ。みんな笑顔の方が自分も楽しいんだっていう人だった」

 新作が刊行されたのは、蒼衣が高校に入学してからのことだった。六花が失踪した後だ。三咲碧留の新作を読むことは叶わなかったらしい。

「死んだ人にはたぶんもう会えない。夢路さんは特殊なケースだしね。でも――」

 蒼衣は言い淀んだ。

「何?」
「前に話したでしょ。りんご様に消された人がどこへ行くのかはわからないって。二度と戻ってこれない場所なのか、それともまだ帰ってくる余地がある場所なのか」

 何もわからない。それは裏を返せば、六花が戻ってこれる可能性がないわけではないということだ。

「《D文書》。ゆーさんがそう呼んでいた文書があるの。ゆーさんが歴代のOGを訪ね歩いて得た証言を集成したレポートが、ね。いまOGとして支援してくれてる人たちは、歴代の巫女でもごく一部の人たちなの。それもある世代以降の。黎明期の巫女はそもそも記録が残ってなかったりする。ゆーさんはそういう人たちも探して話を聞きに行ったそうよ」

 それは実際にどういう媒体なのかもわからないという。ノートやレポート用紙の束なのか、電子ファイルの類なのか、それとも六花の頭の中にだけ存在したものなのか。

「どこにあるかはわからないし、実在するのかもわからない。ゆーさんがそういうレポートを書いていると言ったのを聞いただけだから。その内容だけは、ゆーさんも進んで語ろうとしなかった。それはそもそもそんなレポートが存在しないからかもしれないし、伏せることで興味を引こうとしたのかもしれない。あるいは――語ろうにも語れなかったことなのかも」

「それって――」

「りんご様にはまだ秘密があるのかもしれない。巫女にさえ知らされていない秘密が」蒼衣は続ける。「ゆーさんは自分が消えたときのための保険を残したかったんだと思うの。文書を通じてわたしたちに真実を伝えようとした。だけど――もしかしたら夢路さんが処分しちゃったのかもね。何か夢路さんにとって都合の悪いことが書かれていたら、そういうこともあり得るでしょ」

 たしかに、夢路が六花の体を共有していたというなら、人格が切り替わったときに文書を処分してもおかしくない。

「都合の悪いことって?」
「さあ、歴代の巫女で何か矛盾した証言があるのかもしれない。それを照らし合わせると、何か夢路さんが隠そうとしてることにつながるのかも」

 要領を得ない話だ。蒼衣にも何か確信があるわけではないらしい。

「だけど、ゆーさんがその気になればいくらでも文書を守る方法を用意できたはずだし――いまでもどこかにその文書が眠っているのかもしれない。わたしたちがその在処に気づくのを待っているのかもしれない」

   *** ***

「よくもまあぬけぬけと言ったものね。あの子たちはすでに手に入れているっていうのに。その《D文書》とやらをね」
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