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第三部 不浄
39 百合とチョコレート
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その娘には婚約者がいた。両家の親が決めたことだったけれど――その娘は相手の男を幼い頃から慕っていた。結婚は本望だった。
だけど、その相手には別に想い人がいた。娘もあるとき、そのことに気づいてね。その日は、泣き暮れたそうよ。
男の想い人は、娘の親友でもあった。同級生だったの。その親友も男のことを愛していた。叶わぬ恋と知りながら。
娘は思い悩んだ。このまま大人になれば自分は彼と結婚する。
だけどそれは、彼も親友も不幸にする結婚だって。
結婚して、子供ができればいつか彼も同じように自分を愛してくれるかもしれない。
妻として、子供たちの母として――
だけど、それは彼にとっても自分にとっても、本当に幸せなことだと言えるのかって。
* * * * *
巫女は何も毎日集まらなければならないわけでもないらしい。瑞月がレムリアの手伝いで休むこともあったし、カナが家事の分担があるとかで先に帰ったこともある。皆勤賞は蒼衣くらいのものだ。
冨士野は週に二度ほど顔を出し、寛ぐだけ寛いで帰っていく。巫女時代のことはあまり語りたがらない。訊いても、はぐらかされてしまう。顧問を受けたがらなかった理由と関係があるのかもしれない。《楓の乙女》時代の思い出は五條が夢見るほど輝かしいものでもなかったのだろう。
作法室での過ごし方は各々の自由だった。
蒼衣はいつもにこにことしながら紅茶を淹れ、それが終わると、炬燵で静かに本を読む。嵐の孤島で起こる連続殺人は元より、実際に起こった殺人事件の数々や解剖学、中世の拷問器具、ゴヤやカラヴァッジョの絵画、西洋史――特にイギリス史にも興味を引かれるらしい。「父の書斎で借りてきたの」を決まり文句に掲げられるタイトルはいずれもおどろおどろしいものばかりで、「貸しましょうか」と言われても知佳は首を横に振るしかできない。「残念」とは言うが、他人のそうした反応が見たくて本を選んでいるのではないかと思うことがある。
瑞月《夢路》は炬燵に頬杖をつき、無表情でスマートフォンをいじっていることが多い。夢路専用のアカウントでアプリゲームをしているらしい。近代以降の文豪を現代に転生させてアイドルとして雇う、というよくわからないジャンルのゲームで、夢路は何かにつけて「全然わかってない」「解釈違いよこれは」「浅ましい商業主義」と毒づいている。彼女も生前は「悪趣味な蒼衣と違って本物の文学少女」だったらしいから、現代的に解釈された文豪像に対して思うところがあるのだろう。毎日コツコツとデイリーミッションをこなし文豪の「スカウト」に必要な石を蓄えているのも、あくまでお気に入りの文豪が実装されたときその造形に対して「文句を言ってやるため」らしい。
カナはというと漫画雑誌を読むか、横になっていることが多い。夜は目が冴えてあまり眠れないのだという。「別にな、チビたちがうるさいわけじゃないんだ」カナはあくび混じりに言った。「どうも父方の体質らしい」カナの父は大学の講師だという話だ。当然、日中でも授業や研究を受け持っている。それなら自分も同じように眠気を克服できるはずだ、とカナは言う。「でも、なんでだろうな。どうにも眠いんだ。気合いが足りないのかな」そんなことを言いながらまたあくびを漏らし横になってしまうのだ。
共通の話題で盛り上がることはある。しかし、盛り上がるだけ盛り上がって、次の瞬間には各々の世界に帰ってしまうことも多い。
突如訪れる沈黙に最初は戸惑ったものだが、すぐに慣れた。
ここでは沈黙が忌むべきものではない。各々がしたいことをする。そしてときおり、それが重なり合う。それだけのことだった。
これまで、知佳にそんな友達はいなかった。友達で集まれば絶えず誰かが話をしていて、それについていけなければ、ふるい落とされてしまう。そんな緊張感を伴う関係だった。
この場所は違う。皆ほどよく無関心で、自立している。相手が自分と違うことをしていても気にはしないし、かといって話しかけられるのを厭うわけでもない。本当に一人になりたければ無理に来る必要もなかった。
これはきっと彼女たちの付き合いが長いからだ。お互いに気心が知れているからこそ、多くの言葉を必要としないのだろう。自分はその輪の中に招かれ、受け入れられた。
ときおり、自分が部外者であることを自覚させられるときもある。しかし、夢路というイレギュラーが存在することで、知佳だけが浮きすぎるということもなかった。
この場所はあったかい、と知佳は思う。だからこうしていついてしまった。家までは遠い。学校から帰るまでの間に一息つける場所があってもいいだろう。
そうしてだらだらと過ごしていたある日、バレンタインの話題が持ち上がった。
「バレンタイン?」知佳は訊き返した。「巫女って恋愛禁止なんじゃあ……」
二月に入ってすぐのことだった。作法室でカナと動物モノマネを競っていると、不意にその話題になった。
巫女には、バレンタインを祝う風習があると聞いたのだ。
「もちろん、巫女同士で交換するのよ」蒼衣は言った。「ちなみに手作り推奨です。絆をよりいっそう深めるためにね」
「半分くらいは、夢路がチョコ食いたいだけなんだけどな」カナは言った。「それより、知佳。さっきのゴリラもう一回見せてくれないか。家でやったら受けると思うんだ」
「あなたたち本当に子供よね……」夢路は呆れたように言った。「変に擦れてるよりはいいけど、少しは淑女としての嗜みを身につけなさい」
「夢路みたいに?」カナは問うた。
「そう、夢路みたいに」夢路はご満悦といった様子で言った。意味もなく髪を払って見せる。「意外とわかってるじゃない」
「そういえばクリスマスもパーティーしてたんだっけ」知佳は尋ねた。
いま思えば融通無碍なものだ。いずれもキリスト教に由来する行事なのに。この調子だと、ハロウィンやイースターを祝っていてもおかしくない。
「ああ、終業式の放課後に軽くな。半分は忘年会みたいなもんだ。瑞月は途中で帰ったけど」
「しょうがないわよ。ご両親がゲリラ的に帰国して家族水入らずでパーティーをするっていうんだから」
「……あなたたち、そのこと妙に根に持ってるわよね」夢路が複雑そうな表情で言った。
「まあ、そんな感じでな」カナは欠伸を漏らした。「これは別に掟とかじゃないから、適当にやればいいんだ。まあ、茶楽部的にはこれを活動実績とすることになるんだろうけどな」
こういった行事ごとは、あくまで「夢路のご機嫌取り」の一環らしい。あんまり疎かにするとどうなるかわからないが、少なくとも一回や二回やらなかった程度では祟りの対象にはなることもないらしい。
「いちおう、バレンタインはその中では重要な行事なんだけどね」
「バレンタインなのに?」
そもそもは女子が男子に告白するイベントだ。巫女とは最も縁遠い行事に思える。
「だからだよ。周りが浮かれるわけだからな。それに流されないよう、巫女の使命を思い出させるって意味合いもあるし――まあ、せめてもの慰めでもあるな。せめて巫女同士楽しくやろうってことだ」
バレンタインが日本に定着したのは七〇年代半ばごろと言われている。製菓業界によって作られたキャンペーンが発端だ。諸外国では見られない、女子が男子にチョコを送るという風習はこのとき生まれた。
「ちょうど、学校側に黙認されるようになった時期ね」蒼衣は言った。「その頃にはもうあった風習らしいから、けっこう伝統があるのよ」
「そうよ。いまでは当たり前になってるけどいわゆる友チョコだって元はといえば夢路が考えた文化なんだから」夢路は威張った。「これを機にいっそう絆を深めることね」
「まあ、見方を変えればあれなんだけどな」
「そうね。いわゆる相互監視」蒼衣は苦笑した。「こっそり男の子にあげたりしないか互いに圧力をかけ合う行事でもあるらしいわ」
「それは巫女同士が勝手にやってるだけよ」夢路は弁解した。「夢路が望むのは、あくまであなたたちが男とどうこうならないこと。まあ、あなたたちは一蓮托生だし? わかるわよ。そうやってみみっちく、監視し合うのも。だけどね、あんまりぎすぎすされるとこっちとしても困るの。素直に、同性同士の友情を謳歌しなさい。それがいわゆる《尊いもの》なんだから」
始業式の日、カナが使ったフレーズだ。
「尊いもの、か」カナは寝転がりながら言う。「まあ、それも慰めみたいなもんなんだけどな。夢路が神隠しみたいな不思議パワーで何か特別な絆をこさえてくれるわけでもないんだから」
「そうなんだ」知佳は少し驚いた。てっきりそういう「設定」が存在するものと思っていたのだ。
「もちろん、卒業後も関係が続くことはあるわよ」蒼衣がフォローするように言う。「言ってしまえば、部活仲間みたいなものだしね。建前は建前だけど、本当のことにもできるってこと」
「そう思いでもしないとやってられないってことでもあるけどな」カナは言った。「好きな人ができたってどうこうできないんだから。あれだな。酸っぱい葡萄ってやつだ。色恋なんて酸っぱいだけ。女同士の友情の方が甘く尊いもんだと思いたくもなるだろ」
「たしかにゆーさんはよくそんなことを言ってたわね」蒼衣が苦笑するように言う。「でも、ほら、実際いいこともあるって言ってたじゃない」
「あったか、そんなの。好きな人ができても、自分から行動しない言い訳が立つからかえって楽だとは言ってたけど」
「でも、男の子の方から告白して来ても断らないといけないんでしょ?」知佳は言った。
「ユキは付き合って幻滅することもあるとも言ってたな」カナはあっけらかんと答えた。「なら付き合う前の幻想を守った方が幸せかもしれないって。それでたとえ後悔することになっても、な。そういう意味で巫女は幸福っちゃ幸福なんだと」
「天羽先輩は森野さんに何の話をしてるの……」
「まあ、ゆーさんは物書きだしそういうひねくれた見方もしたくなるんでしょう」
「それ作家の娘が言うことか」
「作家の娘だからわかるのよ」蒼衣はわざとらしくため息を吐いた。
「とにかく、十四日は各自手作りチョコを用意すること」夢路は手をパンと叩いて言った。「瑞月にも伝えておいてちょうだい。別に出来は期待してないわ。大切なのは気持ちだもの。これはね、陳腐な精神論とは違うわよ。気持ちっていうのは機械でも再現できないくらい複雑で繊細なものだもの。渡す相手のことを考えながら作れば、工業生産品にはない唯一無二の何かが宿るはずよ。夢路が味わいたいのは、その微妙で繊細なニュアンスなの」
その日はほどなくして解散となった。といっても、稲荷坂の交差点までは並んで歩くことになる。
「しかし、バレンタインか」カナが昇降口でふと呟いた。「夢路もポジティブだよな。チョコにはいい思い出ばかりでもないだろうに」
そういえばそうだった。戦時中はチョコも高級品だったろうが、夢路にとっては同時に戦争の象徴でもあったはずだ。チョコがどれだけ甘くても、その苦みは打ち消せないだろう。
「……本当、何もなきゃいいけどな」
「どういう意味?」
不穏なことを言う。「適当」でよかったのではなかったのか。
「だって、なあ」カナは瑞月に視線を送った。
「そうだね、カナとボクはいいんだけど……」瑞月が言った。「市川さん、料理はできる?」
「え、普通だと思うけど」
母子家庭だったから、それなりのことはできる。
「まあ、三つまともなのがあれば大丈夫だろ」カナは言った。
「あら、四人いるのに三つだなんて変な話ね」蒼衣がにこにこと言った。
まさかと思い、カナと瑞月を見やる。二人とも無言で頷きを返した。
なるほど、そういうことらしい。
*** ***
なんてことのない日常の一幕だった。
でも、それは罠の入り口だったのかもしれない。
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