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第三部 不浄

38 秘密のレッスン

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   * * * * * *

 懐かしいわね。もうあの頃を誰かに話すことなんてないと思ってたわ。
 《彩高さいこう》――当時は《彩女さいじょ》と呼ばれていたけれど――はどう? 校舎は変わったけど、桜並木は健在なんでしょう?
 ええ、わたしは巫女だった。一つ上の先輩に依代がいて、夢路さんともよく話したわ。
 そう、あの話が聞きたいのね。
 はあるとき、夢路さんが語ってくれた話。
 口伝を重ねるうちに、どこかで捻じ曲げられてしまった話かもしれないし、そもそもはじまりからして出鱈目かもしれない。わたしの記憶だってどこまで正確かわからない。なにせ、半世紀以上も前の話だもの。
 別に話したくない、というわけではないの。
 ただ、あまり真に受けないでほしいというだけ。
 それでもいいなら話すわ。
 りんご様に拐われた親友を取り戻そうとした少女の話を。

   * * * * * *

 アヤと話す機会を得たのは廃部騒動から少し経ってからのことだった。



 その日、知佳たちは作法室で蒼衣が持ち込んだボードゲームに興じた後、帰路に着いた。

 少し降ったらしい。地面が濡れていた。夕日が眩しいほどに照りつけている。ねぐらに帰るのだろう、スズメたちがチュンチュンと合唱するのが聞こえた。

「一月ももう終わりだな」カナが呟いた。「日はまだ短いけど、節分を過ぎたらもう春なんだろ」
「そうね。節分の翌日が立春だから」蒼衣は言った。
「早いよね。一年なんてあっという間なんだろうなあ」瑞月はため息を吐いた。「やだなあ、ホント。この前まで受験生だったのに、またあっという間に三年生だよ」
「そうね。夢路さんに年を取ったなって言われちゃう」蒼衣は苦笑した。そしてしみじみ言う。「でもきっとそれが恵まれたことでもあるんでしょうね」
「……それはそうなんだろうけど」瑞月は言った。「蒼衣は大人だよなあ。いろいろと」

 そんなやりとりをよそに、知佳は桜並木を見上げていた。寒々しい姿だが、よく見ればすでに蕾をつけていることがわかる。春を待っているのだ。

「何見てるんだ?」
「桜」知佳は答えた。「花の蜜ってきっと甘いんだろうなって」
「なんだもう腹減ったのか」
「そうじゃなくて」知佳は弁解した。「えっと、鳥目線の話。ヒヨドリとかメジロがよく吸ってるから」
「スズメも吸ってないか。なんか乱暴な感じで」
「ああ、あれはヒヨドリとかの真似。嘴が蜜を吸うのに向いてないんだよ」
「たしかに花の奥まで突っ込めそうな感じじゃないよな。太くてペンチみたいな感じで」

 そんなことを話していると、校門前の広場に出た。噴水をぐるりと回り校門を潜ったところで、聞き覚えのある声がかかる。

「遅い」カナによく似たメゾソプラノだった。しかし、短い言葉ながら抑揚がある。「罰として洗濯当番一回追加」

 アヤだ。雨に打たれたらしく、髪や服が湿っている。カナそっくりの顔に不機嫌そうな表情を張りつかせていた。

「そうか、承った」カナはあっさりと受け入れた。「何なら二回追加でもいいぞ」
「その代わり、遅くなっても文句を言うなって?」
「そんなこと言ったか?」
「お姉ちゃんは、自分の気持ちなんて何ひとつ言葉にしてくれないじゃない」アヤは声を震わせた。「あたしだって好きで読解問題を解いてるわけじゃない」
「そうか」カナは少し考えこむようにして間を置いた。「でも、先輩として一つ忠告しとくとだな、読解問題は思い込みを捨てて挑んだ方がいいぞ。書かれてもいないことを読み取っちまうからな。もっと言うと、受験生なら姉なんてかまってないで家で練習問題を一問でも多く解いた方がいい。心配しなくても罰は受けるから」
「やだ」アヤは短く言った。「お姉ちゃんは家にいないとダメなの」
「うちのルールにそんなのあったか?」
「いまできたの!」

 これでは会話にならない。そう判断したのか、カナは知佳たちに向き直って言った。

「悪い。じゃあな」

 帰り道で別れるときの挨拶だ。カナの意図を察したのか、蒼衣と瑞月がほぼ同時に別れの言葉を投げかける。
 次の瞬間、カナは走りはじめていた。長いコートをはためかせ、リュックを揺らしながら。
 まるでネコ科の猛獣だ。普段のけだるげな雰囲気からは想像もつかない瞬発力であっという間に遠ざかっていく。小さい背中がますます小さくなっていく。

「またそうやって……!」アヤがそう漏らすのが聞こえた。それとほぼ同時に、彼女の影がすぐ脇を駆け抜けていく。地面の水溜まりを踏み抜いたらしく、ペチャッとした音を立てながら。

 いつかの逃走劇を思い出す。あのときは追われる側だった。しかし、いまは彼女の背中を見送っている。カナより少し短い茶髪。学校指定の紺のリュック。浅葱色のスカートがめくれ上がり、体育用のハーフパンツが覗いた。

「またね」って言えなかったな。そんなことを思いながら、知佳は二匹の俊敏な獣を見送った。



 蒼衣と瑞月の家はいずれも学校の西側にあった。知佳とは稲荷坂の交差点で別れることになる。
 二人とも徒歩圏内に住んでいるらしい。知佳と同じく徒歩で通学していた。カナの家はもうちょっと離れたところにあるらしいが、やはり徒歩だ。だから、校門から交差点までの道のりをゆっくりと進むことになる。

「あの二人、そっくりでしょ」蒼衣は言った。「年子なのよ。アヤちゃんはいま中学三年生でね。二月だし受験勉強も佳境ってところかしら」
「なら、あんなことやってる場合じゃないんじゃない?」知佳は問うた。
「アヤちゃんが言うには、勉強に専念するためだそうだよ」瑞月が答えた。「家にカナがいないと家事が回らなくなって、自分が尻拭いをするはめになるって」
「カナちゃんはそういうところでサボる子じゃないんだけどね」蒼衣は言った。「この時間はまだ下の子たちも遊んでる時間だし、夕飯までにも時間があるでしょう?」
「じゃあ、なんで迎えに来るの?」
「さあ、それは本人にしかわからないけど――」

 蒼衣が言い淀むと、瑞月が後を引き継いだ。

「カナが言うには現実逃避らしい。アヤちゃんは勉強が得意じゃないみたいだから――やらないですむ口実が欲しいんだって。それにもし失敗したときの口実も」

 それが本当なら、なんとも後ろ向きな話だ。やらないこと、できないことが前提なんて。

「森野さんは勉強教えてあげないの? 成績悪くないんでしょ」

 悪くないどころか、この前の実力テストでは学年十一位だった。

「家にいるときはそういうこともしてるらしいけど――」瑞月は苦笑した。「カナが教えるの上手いと思う?」
「ああ……」思わず納得してしまう。「でも森野さんも、なんで逃げたの?」

 前回はまだわかる。喫茶レムリアに向かうところだったからだ。しかし、今日は特に寄り道の予定はない。

「さあ。なんとなくだろうね」瑞月は答えた。「毎回逃げてるわけじゃないんだけど、こういう日もあるんだ」
「勉強しろって言われると勉強したくなくなるのと同じかもしれないわね」蒼衣は言った。「たぶん、アヤちゃんが来なければ、まっすぐ帰ってたんじゃないかしら」

 カナにもそんな天の邪鬼なところがあるのだろうか。

 出会って三週間になるが、彼女のことはいまだによくわからない。
 アヤの言葉ではないが、こちらで勝手に気持ちを読み解くしかないのだ。しかし、カナはそれらの解釈をまるで寄せ付けず、淡々と流してしまう。
 肯定もしなければ、感情的になって反論してくることもない。まるで他人事だ。
 ただ、知佳には彼女が他人に本心を晒すのを恐れているように見えることがあった。他人と深く接して傷つかないよう、バリアを張っているように。
 それが「誤読」ではない保証はどこにもないけれど。



 蒼衣たちとはいつもの交差点で別れた。西日を背に手を振る二つの影を見送り、知佳は稲荷坂に向き直った。高台から街を見下ろす格好になる。

 なんということのない住宅街だ。ランドマークと呼べるものもなく、新幹線が通る他は日本全国どこの地方都市にもありそうな凡庸な街並み。それがかえってほっとする。
 街は夕暮れに沈みつつある。帰りの時間はいつもそうだ。それが少しだけ知佳を感傷的な気持ちにさせる。決して不快な感覚ではない。家が恋しくなる。それだけだ。
 坂を下りながら思う。もしも自転車に乗れたら、こんな坂道はぴゅーっと下っていけるのだろうか。ペダルも漕がず、ただ重力と慣性に引っ張られるまま一直線に家までたどり着けるのだろうか。これだけ勾配があると危険かもしれないけど、思わず想像してしまう。

 坂を下り終えると、低層住宅地に入った。ほどなくして、小さな公園の前を通りかかる。
 子供用の自転車が何台か止まっていた。持ち主の姿はない。ブランコを漕ぐ影がひとつあるばかりだ。
 小柄な体躯に、癖毛の少女だ。見覚えのあるセーラー服を着ている。向こうも知佳に気づいたのだろう、こちらを凝視している。

 カナは南側に逃げて行った。だから、こうして出くわしてもおかしくはない。

 知佳は公園に足を踏み入れた。進路上の鳩がいっせいに飛び立つ。少しぬかるむ地面を踏みしめ、ブランコに近づいていった。

「また会っちゃいましたね」アヤは知佳を見上げ言った。「市川先輩」
「森――お姉ちゃんは?」
「さあ。どこでしょう」アヤは捨て鉢に言った。「五里霧中って言うんですか。わかんないです。なんにも」

 受験生だからか、日常会話ではあまり使わないような四字熟語を使う。

「お姉ちゃん、すぐには帰って来ないことがあるんです」アヤはブランコを漕ぎながら言った。「何してるのか訊いても教えてくれないし、待ち伏せれば逃げられる」
「そうなの?」蒼衣たちの話とは少し違う。彼女たちも知らないのかもしれない。「家事はちゃんとしてるって聞いたけど」
「そうですね。でもやっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんなんです」
「どういう意味?」と訊こうとしたところで、アヤは続ける。
「うち、お金ないから塾とか家庭教師とかそういうの無理なんです。行ける高校も限られてる」

 脈絡が読めず戸惑う。「え、うん」と答えるのが精一杯だった。

 ブランコは慣性で揺れ続けている。ぎーこぎーこと軋みながら。アヤはブランコの鎖を握りしめている。小さな手だ。それに白い。爪は几帳面なまでに短く切り揃えられている。

「学校も自転車で通えるところじゃないとって。でも、その条件だと彩高さいこう西高にしこうの二択なんです。西高は偏差値高いし、そうなると彩高を目指すしかなくて」

 アヤは俯きがちになりながら、話した。カナと同じく、つむじが二つある。こうして見下ろしていても、生き写しの姉妹なのだとわかる。

「お姉ちゃんは頭いいから、勉強なんてしなくても平気だったんです。いつも通り家事を回してたのに、余裕で合格しました」

 ブランコの揺れが徐々に小さくなっていく。しかし、アヤの手は震えていた。声は震えていた。

「でも、あたしは無理だと思います。きっと。頭悪いし堪え性もないから」

 その瞬間、アヤの頬を水滴が滑り落ちていくのが見えた。堰を切ったように止めどなく涙が溢れはじめた。
 唐突なことで戸惑う。いつの間にかやって来た子供たちの視線が痛い。知佳は慌ててハンカチを取り出した。

「ほら、これ」

 ハンカチを渡そうとすると、アヤは首を振った。

「いりません。泣いてませんし」
「でも、雨で濡れてるでしょ」知佳は言った。「せめて顔だけでも拭いて」
「……そう、ですね」アヤはハンカチを受け取った。一瞬、手と手が触れてひんやりとした感触がした。「ありがとうございます。優しいんですね、せんぱ――」

 次の瞬間だった。アヤは鼻をぴくぴくさせたかと思えば、ハンカチで口許を覆い、大きなくしゃみをした。

「あ、ごめんなさい。つい」
「……いいよ」

 雨に濡れればくしゃみの一つも出るだろう。

「でも、菌とか移るかもしれないし」アヤは急にあわあわしはじめた。そしてますます目に涙を溜め、「ご、ごめんなさい。あたし、たぶん弁償とかできないです。でも、その、言うことなんでも聞くので」
「いいってば」知佳は笑みを作った。「それに、女の子はそういうこと簡単に言わない方がいいと思うよ」
「でも、嫌なんです。あたしが一方的に迷惑かけたままなんて」

 アヤは上目遣いに言った。涙に濡れた瞳がビー玉のように輝いている。

 危なっかしい子だ。一時の感情でどこへでもころころと転がっていきそうだし、思ったより些細な衝撃で壊れてしまいそうな脆さがある。

「じゃあ提案するけど――」知佳は言った。「ねえ、アヤちゃん。わたしでよければ勉強、見させてくれない?」
「え」アヤは涙目のままきょとんとした。
「うちの学校、来たいんでしょ」
「でも――」
「わたしがそうしたいの」知佳は遮った。「言うことなんでも聞いてくれるんでしょ?」
「いいんですか」アヤは鼻をすすった。「あたし本当に頭悪いですよ」

   *** ***

「おかげでこうして話す機会を得たわけね」夢路は言った。「こうして二人きり。カナたちの横槍が入らない状況で」

 そう、いま思えばあれがきっかけだったのだ。アヤに勉強を教えることにしたあの日、歯車が噛み合い、動きはじめた。そうして、知佳はここまで誘導されたのだ。

「もうわかってるでしょう?」夢路は尋ねた。「あの子たちが嘘をついていることは」
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