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幕間

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 知佳と実理は、神社の背後の竹林を歩いていた。竹林は坂になっている。道は狭く、やや湾曲しており、頂上はまだ見えない。どこまでも竹が続くばかり。

 三島由紀夫って作家がいるでしょ。自衛隊基地で切腹自殺した人。実理は言った。あの人はね、グイド・レーニって人の宗教画を見て、性に目覚めたんだって。セバスティアヌスっていう、キリスト教の聖人が矢で穿たれ苦悶する様を見て。

 性欲は、脳幹という部位が司っている。頭蓋骨の最も奥深くにあり、「爬虫類の脳」とも呼ばれる原始的な脳だ。性欲をはじめ、生き物として不可欠な欲求や機能を司るとされる。たとえば呼吸や心拍、たとえば食欲、たとえば攻撃衝動。

 性の目覚めは何が引き金になるかわからない。これも別の作家だけど、特撮ヒーローが怪獣に攻撃されるのを見て――って例もあるみたい。
 実理はそこでぎこちなく笑った。
 いろいろとね、調べたんだ。恋の力ってすごいよね。こんなに一生懸命、勉強したのはじめてだよ。

 実理は操緒もだと思っているのだ。何かの弾みで脳幹がエラーを起こし、性欲と攻撃衝動が結びついてしまったのだと。

 はじまりはだいたい猫なんだって、と実理は言った。どこにでもいるし、手懐けやすいから。人間と同じ哺乳類だしね。だから、彼らは猫を捕まえて解体する。首を切り落としたり、内蔵を引きずり出すことに興奮を覚える。人間を殺す前にまず、そうやって飢えを癒そうとする。

 そして、それは続く。猫で終わらなかった場合、次の標的は――

 操緒は本当はすごく優しくて真面目な人なんだと思う。
 実理は続けた。
 だから、自分が邪悪な存在であることを知ったとき耐えられなかった。善悪という価値観を捨て去らないと自我が保てなかった。自分の中にある良心も、優しさも、全部動物的な反応にすぎない。邪悪な欲望と何ら変わることがないんだって。

 実理は坂の上を眺めながら続ける。

 彼の辞書に『すべき』なんて言葉はない。『善悪』もない。正しいことでも、悪いことでも、したければする。したくなければしない。でも、それは彼がそう思い込んでるだけ。本当は彼なりの倫理がある。それはきっとすべての価値を否定すること。ニヒリズムって言うのかな。彼はものに値段があることは理解してるけど、価値があるとは信じない。信じることを自分に許さない。それは彼にとって欺瞞そのものだから。そこは妙に潔癖なんだよね。

 風が吹く度、竹林がざわざわと音を立てる。

 きっと珍しい考えでもないんだろうね。だけど、彼にとっては切実なんだと思う。

 実理はそこで足を止めた。

 このままだと彼は壊れちゃうかもしれない。どうにかしたいよ。でも、どうすればいいんだろう。お姉ちゃんはどう思う?

 知佳は何も答えられない。

 強い風が背後から突き抜け、竹林を通り抜けていった。髪が風で乱れ、顔を覆う。俯き気味になりながら髪を整え直すと、坂の上の人影があることに気づいた。

 黒いダッフルコートにスキニージーンズ、茶褐色のブーツ。細長いシルエットの少年――

 操緒だ。

 仲がいいじゃないか、と操緒は言う。まるで双子みたいだ。
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