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第二部 巫女
34 雨の午後の降霊会
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知佳は奥の席に案内された。瑞月を待ちながら、壁のタペストリーに目をやる。
《Lemuria》
かつて存在したとされ、後に存在しないことがわかった場所。
どうしてそんな店名をつけたのだろう。
この店は天羽夫婦が立ち上げたものではないらしい。彼らはあくまで二代目の店主であり、この店は引退した設立者から引き継いだものだそうだ。屋号や内装、それに常連客も。
スマートフォンで調べると、この店を紹介する記事がいくつか見つかった。個人のブログもあれば、地元のメディアが取材したものもある。
地元で愛されるむかしながらの純喫茶。
それがレムリアを評するテンプレートらしい。
「コーヒーの味ももちろんですが、お客様の求める『喫茶店』の雰囲気を守ること。それが先代から変わらない方針です」
現店主は地元メディアの取材にそう答えている。続きを読もうとしたところで、瑞月がトレイを手にやって来た。
「少し時間をもらってきたわよ」
知佳は思わず瑞月の顔を凝視した。アップにした黒髪。凛とした目付き。目が合っても視線を逸らさないことで確信を持った。
「……えっと、夢路さん?」
「ええ、瑞月ったら、ほとんど初対面の相手とまともに話せるわけがないってごねてね」カップと皿を並べながら言う。二人分のタルトタタンとコーヒーだ。「あの子にも困ったものね。夢路を専属の弁護士か何かみたいに思ってるんじゃないかしら」
夢路は向かいに腰を下ろした。髪を払うような動作をしかけて、手を止める。まるで、髪をアップにしていることを忘れていたかのように。
「それで?」夢路は自分のタルトタタンにフォークを突きたてながら言った。「だいたい見当はつくけけど――蒼衣たちの遣いなんでしょう?」
「えっと……」
「ああ、そういうことね」夢路はつまらなさそうにタルトタタンを口へと運ぶ。「あの子たちの考えはわかったわ。あなたが自主的に来たって体なのね。きっと瑞月のことは諦めることにしたっていう設定なんでしょう? それを聞いたあなたが瑞月を哀れに思い、こっそり知らせに来た。そんなところかしら」
「そこまでわかるの?」
「夢路を誰だと思ってるの? この子たちとはほんの数年の付き合いだけどね、それだけ一緒にいればおおよそのことがわかるわ」
なんといって言いかわからず、知佳はタルトタタンを切り崩しにかかった。
どうしたものだろう。夢路が出てくるなんて思いもしなかった。
煮詰めたりんごが口の中でほどけ、焦げたりんごとバターの香気が鼻を抜けていくのを感じながら、考えをまとめる。
「それじゃあ」知佳は嚥下とともに切り出した。「夢路さんはわかるの? 小太刀さんがなんで巫女をやめようとしてるのか」
夢路はカップを傾けた。マンデリンだかキリマンジャロだかの風味を堪能するようにして、ゆっくりと。やがて音もなくカップを置き、口を開く。
「なんで……なんで、ね。ねえ、そんな問いかけにどれだけ意味があるかしら」
*** ***
蒼衣たちからどこまで聞いたかしら。
そう、この子と蒼衣は夢路のこと信じていなかった。あるいは、六花を――と言うべきかしら。
しょうがないわね。
六花は普段から狼が来るって触れ回ってたような子だもの。いざっていうときに信じてもらえなくても、文句は言えないでしょう。
なんでそんな子を依代に選んだのかって言いたそうね。それもしょうがないのよ。たまたま、あの子と魂の波長が合ったみたいでね。うまいことするっと中に入っていけたの。
夢路の話はいいのよ。問題はこの子の話。
繰り返しになるけれど、この子は夢路の存在を信じていなかった。ねえ、それがどういうことだかわかる?
この子にとって、《迎夢路》という存在は六花の演じるキャラクターにすぎなかったってこと。
言い換えると、六花の一部だったのよ。自分が慕う親戚のお姉さんの一部。それが夢路というキャラクターだった。
まさか、そのキャラクターが独立した人格として存在するなんて、ましてや、その演者を消し去ってしまうなんて思いもしなかったはずよ。
挙句、その人格が自分の中に宿ることになるなんて、ね。
そう簡単に受け入れられるものでもないでしょう? 恨んだり畏れたりする以前の問題よ。
ええ。たぶん、この子はまだ実感がないんだと思う。自分の中に夢路が宿ってるって実感がね。
おかしな話に聞こえるかもしれないけど、巫女の歴史ではけっこうあることなのよ。周りはみんな信じてるのに、他ならぬ当の依代が夢路の存在に確信を持てないってことは、ね。それこそ、家族や友人の悪戯なんじゃないかって疑心暗鬼になって心を病んだ子も一人や二人じゃない。
依代の資質っていうのは言ってしまえば霊媒のそれだから、繊細な子も多いの。瑞月もそういう子だってことはなんとなくわかるでしょ?
その点、蒼衣はまだましだったんでしょうね。夢路と直接話せるんだから。瑞月と比べたら、気持ちの整理は付けやすかったはずよ。
実際、あの子はすぐに夢路のことを受け入れた。恨みも憎みもせず、神様はそういうものなんでしょうねって、逆にこっちが白けるくらい簡単に。何かしら思うところはあるのでしょうけれど、それはきっとあの子の中で然るべき場所に収まっているんでしょう。
カナ? そうね、あの子はあの子で最初から夢路の存在を信じてた。余計な情報がないだけ、純粋に受け止められたのかもね。
もちろん、にわかには信じがたい話ではあるわよ。それは認める。でもね、夢路が存在するのは紛れもない事実なんだから、初対面でもわかる子にはわかるものなのよ。それは何もそこまで特別な才能を要することでもないわ。
瑞月もじきに夢路のことを本当の意味で受け入れる日が来るでしょう。いまはまだ、六花のことも含めて消化しきれてないんじゃないかしら。
だからこそ、おとなしく依代の役目を受け入れたのかもね。あるいは、六花を信じてやれなかった償いのつもりなのかもしれないけれど。
それがどうしていまになって、と訊きたそうな顔ね。
言ったでしょ。理由なんてわからないって。
先週末――あなたが休んでる間に巫女同士でちょっとした意見の食い違いがあってね。その流れでやめるって言い出したのよ。
そうね。自分は男かもしれないって。今回はそういう口実にすることにしたみたいね。
おかしいわよね。こんな長い髪して。外に出るときはパンツルックだけど家では楽だからってワンピースで寝転がってたりもするのよ。初恋の相手だって男の子だしね。まあ、ゲームのキャラクターだし、ほとんど女みたいな顔だったけれど。
いいのよ。何を話したって、どうせこの子にはわかんないんだから。そう、夢路が一方的に覗き見れるだけ。
けっきょくのところ、この子も自分の肉体に違和感があるわけじゃないのよ。ただ、社会的な性規範――ジェンダーってやつね。それとちょっと折り合いが悪いだけ。
それはそれで同情に値するけれど、巫女をやめる理由にはならないわ。この子にも書き置きでそう伝えたのだけれどね。
きっと意固地になっているんでしょう。言い出した手前、すぐに復帰したんじゃ格好もつかないしね。
すっきりしない顔ね。論理的な理由がないと納得できないかしら?
ええ、確かに前々からやめることを考えてないと咄嗟にそんな理由は出てこないかもしれない。元からアイディアくらいはあったのかもね。それを実行に移す機会が訪れたから、思わず便乗した。そういうことにしましょうか。
この子は確固たる動機を持って巫女をやめようとしている。では、それはなぜか。
たとえば――そうね、こういうのはどう?
瑞月は自分の気持ちに整理をつけたかった。
どういうことも何もないわ。考えたらわかるでしょう。この子が依代をやめたらどうなると思う?
そう、夢路は別の子に移ることになる。たとえば蒼衣やカナに。
つまり、それが狙いなのよ。
瑞月はただ、夢路と直接話したかった。それだけのことなんじゃない? そうすれば、もやもやした気持ちにも整理がつけられるかもしれないでしょう? 蒼衣やカナみたいに、ね。
二人に相談なんてできないわよ。夢路は一方的にこの子の行動を見張れるんだもの。わかる? カナや蒼衣たちに話せば、そのまま夢路にも筒抜けになるってこと。
夢路と話したいから巫女をやめたいだなんて、そんなこと口にしようものなら、夢路は以後この子がどんな口実を設けても信用しないわ。この子もそれがわかってたから一人で抱え込むしかなかったんでしょう。
《Lemuria》
かつて存在したとされ、後に存在しないことがわかった場所。
どうしてそんな店名をつけたのだろう。
この店は天羽夫婦が立ち上げたものではないらしい。彼らはあくまで二代目の店主であり、この店は引退した設立者から引き継いだものだそうだ。屋号や内装、それに常連客も。
スマートフォンで調べると、この店を紹介する記事がいくつか見つかった。個人のブログもあれば、地元のメディアが取材したものもある。
地元で愛されるむかしながらの純喫茶。
それがレムリアを評するテンプレートらしい。
「コーヒーの味ももちろんですが、お客様の求める『喫茶店』の雰囲気を守ること。それが先代から変わらない方針です」
現店主は地元メディアの取材にそう答えている。続きを読もうとしたところで、瑞月がトレイを手にやって来た。
「少し時間をもらってきたわよ」
知佳は思わず瑞月の顔を凝視した。アップにした黒髪。凛とした目付き。目が合っても視線を逸らさないことで確信を持った。
「……えっと、夢路さん?」
「ええ、瑞月ったら、ほとんど初対面の相手とまともに話せるわけがないってごねてね」カップと皿を並べながら言う。二人分のタルトタタンとコーヒーだ。「あの子にも困ったものね。夢路を専属の弁護士か何かみたいに思ってるんじゃないかしら」
夢路は向かいに腰を下ろした。髪を払うような動作をしかけて、手を止める。まるで、髪をアップにしていることを忘れていたかのように。
「それで?」夢路は自分のタルトタタンにフォークを突きたてながら言った。「だいたい見当はつくけけど――蒼衣たちの遣いなんでしょう?」
「えっと……」
「ああ、そういうことね」夢路はつまらなさそうにタルトタタンを口へと運ぶ。「あの子たちの考えはわかったわ。あなたが自主的に来たって体なのね。きっと瑞月のことは諦めることにしたっていう設定なんでしょう? それを聞いたあなたが瑞月を哀れに思い、こっそり知らせに来た。そんなところかしら」
「そこまでわかるの?」
「夢路を誰だと思ってるの? この子たちとはほんの数年の付き合いだけどね、それだけ一緒にいればおおよそのことがわかるわ」
なんといって言いかわからず、知佳はタルトタタンを切り崩しにかかった。
どうしたものだろう。夢路が出てくるなんて思いもしなかった。
煮詰めたりんごが口の中でほどけ、焦げたりんごとバターの香気が鼻を抜けていくのを感じながら、考えをまとめる。
「それじゃあ」知佳は嚥下とともに切り出した。「夢路さんはわかるの? 小太刀さんがなんで巫女をやめようとしてるのか」
夢路はカップを傾けた。マンデリンだかキリマンジャロだかの風味を堪能するようにして、ゆっくりと。やがて音もなくカップを置き、口を開く。
「なんで……なんで、ね。ねえ、そんな問いかけにどれだけ意味があるかしら」
*** ***
蒼衣たちからどこまで聞いたかしら。
そう、この子と蒼衣は夢路のこと信じていなかった。あるいは、六花を――と言うべきかしら。
しょうがないわね。
六花は普段から狼が来るって触れ回ってたような子だもの。いざっていうときに信じてもらえなくても、文句は言えないでしょう。
なんでそんな子を依代に選んだのかって言いたそうね。それもしょうがないのよ。たまたま、あの子と魂の波長が合ったみたいでね。うまいことするっと中に入っていけたの。
夢路の話はいいのよ。問題はこの子の話。
繰り返しになるけれど、この子は夢路の存在を信じていなかった。ねえ、それがどういうことだかわかる?
この子にとって、《迎夢路》という存在は六花の演じるキャラクターにすぎなかったってこと。
言い換えると、六花の一部だったのよ。自分が慕う親戚のお姉さんの一部。それが夢路というキャラクターだった。
まさか、そのキャラクターが独立した人格として存在するなんて、ましてや、その演者を消し去ってしまうなんて思いもしなかったはずよ。
挙句、その人格が自分の中に宿ることになるなんて、ね。
そう簡単に受け入れられるものでもないでしょう? 恨んだり畏れたりする以前の問題よ。
ええ。たぶん、この子はまだ実感がないんだと思う。自分の中に夢路が宿ってるって実感がね。
おかしな話に聞こえるかもしれないけど、巫女の歴史ではけっこうあることなのよ。周りはみんな信じてるのに、他ならぬ当の依代が夢路の存在に確信を持てないってことは、ね。それこそ、家族や友人の悪戯なんじゃないかって疑心暗鬼になって心を病んだ子も一人や二人じゃない。
依代の資質っていうのは言ってしまえば霊媒のそれだから、繊細な子も多いの。瑞月もそういう子だってことはなんとなくわかるでしょ?
その点、蒼衣はまだましだったんでしょうね。夢路と直接話せるんだから。瑞月と比べたら、気持ちの整理は付けやすかったはずよ。
実際、あの子はすぐに夢路のことを受け入れた。恨みも憎みもせず、神様はそういうものなんでしょうねって、逆にこっちが白けるくらい簡単に。何かしら思うところはあるのでしょうけれど、それはきっとあの子の中で然るべき場所に収まっているんでしょう。
カナ? そうね、あの子はあの子で最初から夢路の存在を信じてた。余計な情報がないだけ、純粋に受け止められたのかもね。
もちろん、にわかには信じがたい話ではあるわよ。それは認める。でもね、夢路が存在するのは紛れもない事実なんだから、初対面でもわかる子にはわかるものなのよ。それは何もそこまで特別な才能を要することでもないわ。
瑞月もじきに夢路のことを本当の意味で受け入れる日が来るでしょう。いまはまだ、六花のことも含めて消化しきれてないんじゃないかしら。
だからこそ、おとなしく依代の役目を受け入れたのかもね。あるいは、六花を信じてやれなかった償いのつもりなのかもしれないけれど。
それがどうしていまになって、と訊きたそうな顔ね。
言ったでしょ。理由なんてわからないって。
先週末――あなたが休んでる間に巫女同士でちょっとした意見の食い違いがあってね。その流れでやめるって言い出したのよ。
そうね。自分は男かもしれないって。今回はそういう口実にすることにしたみたいね。
おかしいわよね。こんな長い髪して。外に出るときはパンツルックだけど家では楽だからってワンピースで寝転がってたりもするのよ。初恋の相手だって男の子だしね。まあ、ゲームのキャラクターだし、ほとんど女みたいな顔だったけれど。
いいのよ。何を話したって、どうせこの子にはわかんないんだから。そう、夢路が一方的に覗き見れるだけ。
けっきょくのところ、この子も自分の肉体に違和感があるわけじゃないのよ。ただ、社会的な性規範――ジェンダーってやつね。それとちょっと折り合いが悪いだけ。
それはそれで同情に値するけれど、巫女をやめる理由にはならないわ。この子にも書き置きでそう伝えたのだけれどね。
きっと意固地になっているんでしょう。言い出した手前、すぐに復帰したんじゃ格好もつかないしね。
すっきりしない顔ね。論理的な理由がないと納得できないかしら?
ええ、確かに前々からやめることを考えてないと咄嗟にそんな理由は出てこないかもしれない。元からアイディアくらいはあったのかもね。それを実行に移す機会が訪れたから、思わず便乗した。そういうことにしましょうか。
この子は確固たる動機を持って巫女をやめようとしている。では、それはなぜか。
たとえば――そうね、こういうのはどう?
瑞月は自分の気持ちに整理をつけたかった。
どういうことも何もないわ。考えたらわかるでしょう。この子が依代をやめたらどうなると思う?
そう、夢路は別の子に移ることになる。たとえば蒼衣やカナに。
つまり、それが狙いなのよ。
瑞月はただ、夢路と直接話したかった。それだけのことなんじゃない? そうすれば、もやもやした気持ちにも整理がつけられるかもしれないでしょう? 蒼衣やカナみたいに、ね。
二人に相談なんてできないわよ。夢路は一方的にこの子の行動を見張れるんだもの。わかる? カナや蒼衣たちに話せば、そのまま夢路にも筒抜けになるってこと。
夢路と話したいから巫女をやめたいだなんて、そんなこと口にしようものなら、夢路は以後この子がどんな口実を設けても信用しないわ。この子もそれがわかってたから一人で抱え込むしかなかったんでしょう。
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