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第二部 巫女
31 青空密室
しおりを挟む――空に開かれてるのに密室なの?
――何も鍵がかかった部屋だけが密室になるわけじゃないのよ。たとえば、現場に監視の目があって、そこに犯人や被害者が出入りする様子が目撃されていない場合もまた密室と呼ばれるの。一種の不可能状況であることには変わりないから。ゆーさんの場合がまさにそうだった。
去年の二月末、六花はこの三号館屋上で同級生と電話で話していた。屋上から六花が手を振るのをその同級生が目撃している。同級生は六花に呼ばれて屋上に向かい、ドアを開けたが、そこには誰もいなかった。
――屋上って巫女以外が入ってもいいの?
――あまり推奨はされてないわね。でも、ゆーさんももう関係ないって思ったのかもね。巫女はもう自分しか残ってなかったわけだし。
――屋上で見られた後なら、いくらでも抜け出す時間はあったんじゃない。
――そうね、でも不可能なの。
――どういうこと?
――そうね、詳しいことは「現場」で説明した方がわかりやすいと思う。
知佳はくしゃみをした。屋上はやはり寒い。コートを着てくるべきだったと後悔する。
隣の蒼衣は平気そうだ。ブレザーの下にカーディガンを着込んでいるだけなのに。
「これを見て」蒼衣はスマートフォンを操作し、ある画像を開いた。校舎の平面図に見える。「これは、ここのすぐ下、三号館四階の平面図よ」
パソコンのソフトで自作したものらしい。推理小説の図版のように本格的な出来だ。
「ここが屋上につながる階段」蒼衣は該当箇所を指差した。校舎の北端だ。「屋上にはここからしか入れない。もちろん出るときもここを通るしかない。だから、屋上から校内のどこかに向かう場合、必ず三号館四階を通ることになる。ここまではいい?」
知佳は頷いて先を促した。
「三号館四階に出入りするルートは四つ。一つ目は二号館からの渡り廊下」
蒼衣は指差す。渡り廊下は三号館の中央からやや南寄りに位置している。
「二つ目と三つ目はそれぞれ北端と南端の階段で、いずれも三号館三階につながっているわ。そして、北側の階段だけが四階のさらに上まで続いている。これが四つ目」
つまり、北側の階段からのみ屋上に出られるということだ。南側の階段は四階までで止まっている。
「ゆーさんと話してた同級生――倉多先輩は渡り廊下を通って四階に来た。ゆーさんを最後に視認したのは、渡り廊下の中ほどかその少し手前くらいだったそうよ。だからゆーさんが屋上を去ったのはその後ということになる」
倉多はそのまま立ち止まることなく渡り廊下を進み、三号館四階に入った。
「だから、ゆーさんが渡り廊下を通って抜け出すことはできない。すれ違えば倉多先輩が気づく。これでルートが一つ潰れるわけね」
蒼衣は続ける。
「そして、これが三号館ならではのポイント。三号館は特別教室やその準備室、教官室で構成されている。つまり、HR教室のように人でごった返してはいない。鍵がかかっている部屋も多いし、空いてる場合、そこには誰かがいるということで、外から生徒が入ってくれば気づく。ちなみにトイレも同様。この時間は人がいたらしいけど、ここでもゆーさんを見たという人はいなかった。当時はゆーさんの目撃情報も募られていたし、何か見てれば名乗り出たはず」
「つまり、一時的にそれらの部屋に潜んでやり過ごすようにしてから脱出するっていうのはできないんだね」
「そう。三号館は人通りも少ない。廊下は一直線だし、そこにゆーさんがいればすぐ気づく。でも当然、倉多先輩はゆーさんを見ていない。だからそのまま屋上に向かった。そしてゆーさんがいないことを確認する。ドアはすぐ閉めたそうだから、その裏に隠れて倉多先輩の隙をついて校内に戻るということも不可能だった」
「となると、残されたルートは北と南の階段だけだね」知佳は言った。「その先輩が来るより早く、天羽先輩は屋内に戻った。最後に視認されたタイミングを考えるとこれは十分可能だよね」
「ええ。でも、屋上とつながる北階段から南階段までは距離がある。普通に歩いてたら、それより早く倉多先輩が三号館に入ってしまう。つまり目撃されていたはず。走ったとしてもぎりぎりになるでしょうね。間に合ったとしても、靴音が響くわ。だけど、倉多先輩も三号館にいた人たちもそんな音は聞いていない。廊下を走る生徒がいたら目立つし記憶に残るはずなのに」
なら、南の階段も使えない。これで三つのルートが潰れた。残る可能性は一つだけだ。
「じゃあ、屋上からそのまま北階段を使って三階まで降りたってこと?」
「と思うでしょう?」蒼衣はいたずらっぽく笑った。「ところが、神様はここに証人を配していてね。三人の二年生が三階と四階の間の踊り場でしばらくの間話し込んでたの。なんでも、四階にある数学教官室に用があった友達を待ってたみたい」
「そして、その二年生たちは天羽先輩を見てない?」
「そういうこと」蒼衣は頷いた。「その二年生三人は倉多先輩とも会話してる。倉多先輩が屋上から引き返してすぐ、ゆーさんを見なかったか、と尋ねたそうよ」
つまり、一連の消失劇の間ずっと留まっていたということだろう。
「さっきも言ったけど三号館は人通りが少ない。だから、通った生徒を見落とすなんてことはないはずだしその先輩たちもそう証言した」
これで、すべての脱出ルートが潰える。
「これが密室ってこと?」
「そうね。ひとまず三号館四階がある種の密室状況だったと言える」蒼衣は続けた。「ちなみに、倉多先輩は踊り場にいた先輩たちと話した後ゆーさんに連絡を試みてる。だけど、メッセージには既読がつかず電話もつながらなかった」
知佳は少し考えてから、
「でも、これまで検討してきたのはあくまで三号館四階からの脱出方法だよね」
「そうね」蒼衣は認めた。「屋上から直接抜け出す方法もあるかもしれない」
「ロープでも使って降りたとか?」
「真っ先に浮かぶ可能性ね。でも、無理だと思うわ。人の目があるから。消防士みたいに素早く降りたとしても、ロープの回収まで含めると時間を使うでしょう?」
「忍者みたいに向かいの二号館にロープをかけて渡ったとか?」
「渡るのに時間がかかりそうだしそんなことをしたら誰かが見ているでしょうね。向こうの屋上は鍵がかかってるから、そこから校舎には出られないでしょうし」
「屋上とは限らないかも。たとえば下の階の外階段にロープをかけて、ハンガーか何かを通す。後はロープグライダーの要領だね。高低差があるから、ハンガーに掴まって蹴り出せば、普通に渡るより早く二号館までたどり着く」
「おもしろいけど、そもそもロープをかける方法が思いつかないでしょう? そしてあらかじめ設置していたとすれば誰かが見つける。倉多先輩だって気づく」
「じゃあ気球とかで上に抜け出すとか」言っていて馬鹿馬鹿しくなってくる。
「それもやっぱり目撃されるでしょうね」
「だよね」
ぱっと思いつく可能性はそのくらいのものだ。知佳はふたたび平面図を睨み、抜け道がないか検討する。
六花は屋上でりんご様に消された。そう結論するのは簡単だが、まだ現実的な解釈を手放すのは早いだろう。
気になるのは、この密室が偶発的なものなのか、それとも意図的に演出されたものなのかということだ。
鍵となるのは、やはり北階段にいた先輩たちだろう。彼らは誰かに命じられたわけではなく、たまたまそこにいた。六花が屋上に向かうとき彼らの存在を把握していたとしても、いつ立ち去るかもわからなかった。
そして、彼らがいなければ、密室は生まれなかった。六花は普通に北側の階段を使って去ったのだと解釈できたのだ。
だから、六花があらかじめトリックを用意して脱出劇を演出したとは考えづらい。それならもっと、確実な形で証人を確保する。でなければ、トリックの意味がない。
となると、この密室は偶発的に発生したということになる。
この密室は物理的に閉鎖されていたわけではない。校舎に残る生徒や教員の証言によって成り立っているものだ。
人間の記憶や認識ほどあやふやなものはない。ましてや知佳はその証言を伝聞の形で知るだけだ。だから、いくらでも隙がある。
たとえば北階段の踊り場にいた先輩たちが六花に気づかなかった、あるいは忘れただけということもある。それが一番現実的な解釈だ。身も蓋もないが、あいにくとこの世界の造物主は推理作家ではないのだ。そういうこともあり得るだろう。
尤も、それでは説明がつかないこともある。それは、六花が連絡を絶ったタイミングだ。
倉多の、そして蒼衣の証言を信じるなら、六花は屋上から去ったのとほぼ同時に連絡を絶ったことになる。まるで、彼女が屋上でスマートフォンごと溶けてなくなってしまったかのように。
やはり密室は意図されたもので、階段の証人も六花の仕込みだったのだろうか。
しかし、その目的はなんだろう。六花が消えたいまになっても階段の証人たちが沈黙する理由はなんだろう。
いたずらとして一時的に加担するのはわかる。しかし、この状況はすでにいたずらで片付くレベルではない。
いたずらに加担したと言ってもそれ自体は罪がないささやかな嘘だ。話すのをためらう理由がない。むしろ六花を捜索する上で手がかりにもなりうる。なのに、なぜ。
わからない。
これでは、神隠しを信じたくもなるというものだ。
六花が屋上で物理的に消失したと考えれば、すべての謎は消えるのだから。
「わたしもね、あれからずっと考えてきたの」蒼衣は言った。「ふふ。三咲碧留って作家を知ってる? あれはわたしの父なの」
「そうなの」
たしかに「みさき」だが、偶然だと思っていた。借りた本には本名も記載されていなかったし。
「父と一緒にトリックを検討したわ。それでもわからなかった。本当に、神様に拐われたとしか思えないのよ」
りんご様にまつわることはすべてそうだ。
いくら現実的な解釈を検討しても、必ずそれを否定する材料が出てくる。そして、「そう考えれば筋が通る」という結論に誘導されるのだ。つまり、りんご様の存在を前提とした結論に。
まるで陰謀論だ。説明がつかないものごとに答えを与えてくれるお手軽で短絡的な解釈。
「頭が痛くなってくるでしょう」蒼衣が見透かしたように言う。
「そうだね」
この件に関しては判断を保留にするほかないだろう。
そう思うと同時に、くしゃみが出た。
知佳と蒼衣、二人同時に。まるで申し合わせたようなタイミングで。
それがよっぽどおかしかったのだろう。蒼衣は知佳と目を合わせると、ぷっと噴き出した。口を押さえ、体を折り、ぷるぷると肩を震わせはじめる。内から沸き上がる笑いを押さえ込むようにして。
「ごめんなさい。笑い上戸なものだから」蒼衣は目元を拭った。「ああ、可笑しい」
そう言ってまた思い出したように笑いはじめる。知佳もとうとう我慢できずに噴き出した。二人でしばし笑い続ける。
「市川さんもそんな風に笑うのね。少しほっとした」
「何それ」
「だって、いつもどこか張り詰めた表情をしてるから」
「そんなこと――」知佳は言葉を切った。自分で自分の表情なんてわかるはずがない。
どこかで火事らしい、消防車のサイレンが聞こえる。乾いた空気をびりびりと震わせながら遠ざかっていく。
「寒いし、いい加減戻りましょうか」蒼衣が沈黙を破った。「お茶でも飲んであったまりましょ」
「うん」知佳は頷いた。「でも、その前にひとつ訊いてもいい?」
「あら、他の脱出トリックでも思いついた?」
「そうじゃなくて」知佳は言った。「天羽先輩のこと。どんな人だったんだろうって思って」
蒼衣は少し驚いたように目を丸めた。「どんな、ね」と困ったように笑ってから続ける。
「そうね、あえて言うなら、ひどい嘘つきだったわ」
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