上 下
31 / 72
第二部 巫女

29 猫が最期に還る場所

しおりを挟む

 その夜――

 おかゆは小町の膝の上ですやすやと寝息を立てていた。体を丸め、安心しきった表情で。何かもごもごと呟くようにしながら。

「寝てばかりなんだよ」小町はささやくように言った。「飼い猫っていうのはそういうものだけどね。特に子猫と老猫はよく眠る。おかゆももう十八だし、人間でいうと九〇歳くらいかな。とっくにおばあちゃんなんだ」

 小町の部屋は知佳の部屋の隣にあった。話し相手がほしいらしく、小町はよく知佳を自分の部屋に呼ぶ。これまでほとんど使う機会がなかったらしい来客用の小さな座椅子を用意して。
 小町は今年で二九歳になる、市川家の長女だ。身長はそこまで低くないはずだが、猫背ぎみで、顔立ちにはどこか幼い雰囲気が残っている。髪は背中を覆うほど長く、いつも寝癖がついている。美容院に行くのも億劫らしく、髪は自分で切っているという話だ。
 いまのところ、知佳は彼女が外出するのを見たことがない。本人曰く、「外に出る必然性を感じない」という。自分は「ダメな大きな猫」なのだとも言っていた。

 ――わたしみたいになっちゃいけないよ。

 小町はよく自嘲を込めて忠告した。

 ――気を付けてね。母さんに甘やかされすぎるとこうなるから。

 そうは言っても、小町は小町で幸福そうではあった。少なくとも、おかゆと戯れているときはそう見える。

「知佳ちゃん、学校はどう」

 小町が尋ねた。

「どうってまだ二日目だし」

 知佳は答えながら、今日一日を反芻した。長い一日だった気がする。朝に五條が迎えに来て、それから――

「何、『忘れてた』って顔して」小町が言った。
「そんな顔してない」知佳は誤魔化した。「……ねえ、小町ちゃんは『猫の行方』ってわかる?」

 あのメモは帰るときに回収した。紙の裏まで確認したが、メッセージはあの一文だけで、差出人が特定できるような手がかりもなかった。

「何それ。暗号?」
「かもしれない」知佳は付け加えた。「今日ちょっとそういう落書きを見て。『猫の行方を知っているか』っていう」

 小町は少し考えるようにしてから、言った。

「猫は自分の死期を悟ると、姿を消すって聞いたことない?」小町は続ける。「もちろん、おかゆは外に出さないし、たぶんこの家で眠ることになると思うけどね。最近、物騒だし――聞いてる? 区内で猫の死体が見つかったらしいんだ。明らかに人の手によって殺されたとわかる死体が」

 とくん、と心臓が跳ねた。

 ――はじまりはだいたい猫なんだって。どこにでもいるし、手懐けやすいから。人間と同じ哺乳類だしね。だから、彼らは猫を捕まえて解体する。首を切り落としたり、内蔵を引きずり出すことに興奮を覚える。

「さっきも言ったけどね」小町は続けた。「猫はよく眠る。寝る子と書いて『ねこ』と呼ばれるようになったって説もあるくらいだ。きっと生きてる時間のうち三分の二くらいは眠ってることになるだろうね。といっても、人間みたいに長く深い眠りじゃない。短くて、浅い眠りがほとんどなんだけど」
「レム睡眠ってこと?」

 人間の睡眠には波がある。脳が活動しているレム睡眠と、休眠状態に入るノンレム睡眠を交互に繰り返すのだ。

「そ。レム睡眠のとき、人は夢を見る。猫もそうだと言われている。だから猫は、現実より夢の中で過ごす時間の方が長いと言えるかもしれないね」
「そう考えると少しおもしろいけど、それが?」
「猫にとっては夢の中こそがホームなのかもしれないってこと。だからね、彼らはもしかしたらその夢の世界に呼ばれるのかもしれないよ。ここじゃないどこかへ。夢で見る場所へ」
「まさか」

 それではまるでだ。



 ――ユキは夢路を通していろんなことを知ったらしい。

 喫茶レムリアからの帰り道で、カナは不意に切り出した。

 ――夢路が表に出てる間、依代の意識はない。逆に夢路は依代を通して常に外界を認識している。ただし、それ以上のことは知り得ない。依代が知り得ないことは夢路も知り得ないってことだ。だから、ユキと夢路は主に交換日記みたいな形でやり取りしてたらしい。

 まるで、多重人格だ。多重人格――いわゆる解離性同一性障害でも、全人格の記憶を持つ支配的な人格が存在することがあるという。この場合は夢路だ。

 とはいえ、六花が解離性同一性障害だったと考えるのも無理がある。解離性同一性障害を発症するのは主に幼い子供で、それも極度のストレスに曝された場合に限る。同居していた瑞月が何も気づかないはずがない。

 ――つまり、夢路さんは背後霊みたいなもの?
 ――それが少し違うらしい。夢路の本体――というのがあるとして、それはこの世界には存在しない。あの世――っていうのもまた厳密には違うらしいけど、とにかく、そういう「ここじゃないどこか」に夢路の本体があるって考えてくれ。自分はだから、携帯ラジオみたいなもんだってユキはよく言ってたっけ。夢路は放送局だな。その電波と周波数を合わせ、送受信することができる資質の持ち主。それが自分なんだって。

 つまり、夢路の魂はどこか遠くから依代の体を操っているということらしい。

 ――ゆーさんには不思議な直感力があった。それが依代の資質だったのかもね。ゆーさんだけじゃなく、たとえばイタコやユタみたいな霊媒者はそういう資質を持っているのかもしれない。
 ――そうだな。ついでに、ユキは神隠しも似たような理屈なんじゃないかって考えてた。
 ――どういうこと?
 ――市川さんはハーメルンの笛吹き男って知ってる?
 ――ドイツの民話だっけ。たしか、鼠退治を依頼された笛吹きが報酬を踏み倒されたことに怒って子供たちを連れ去っちゃうんだよね。笛の音色で操るみたいにして。
 ――そう。あれも一種の神隠しと言えなくもないわ。その笛吹き男にあたるのがりんご様――夢路さんね。そして、その子供たちが神隠しに遭った少女たち。夢路さんはあの世から働きかけ、少女たちをこの世ならざるどこかへと導く。
 ――依代を操るみたいに?
 ――ユキはそう考えてた。夢路はそこのところ詳しくは教えてくれなかったったらしいけどな。神隠しに遭った場合、肉体はどうなるのかもよくわからない。物質的に消えるのか、それとも操られて人目のない場所へと向かうのか。生きてるのか死んでるのか。戻ってくる可能性があるのかどうか。
 ――でも、少なくともいままでに戻って来た人はいないんでしょ。
 ――ああ。いれば、何かわかるかもしれないのにな。



「やっぱり学校で何かあった?」
「え」不意の問いかけに思わず声が漏れる。
「母さんに質問攻めにされてたもんね」小町は続けた。「何も変わったことはないって言ってたけど、本当は何かあったんじゃない?」

 愛猫そっくりのアーモンドアイが知佳を見つめる。

「別に」知佳は座椅子の上で脚を抱え直した。「ちょっとクラスの子たちと寄り道しただけ」
「へえ。いいなあ。そういうの。青春だね。お姉さん、憧れちゃうな」
「……そう言う小町ちゃんは高校生時代、どんなだったの」
「お、それ聞きたい?」小町は目を輝かせた。「小町お姉さんの輝かしいスクールライフについて」
「あー、うん。やっぱりまた今度時間があるときでいい」

 小町は知佳を半目で睨んだ。

「知佳ちゃん、最近お姉さんの扱い雑じゃない?」
「小町ちゃんのこと丁寧に扱って何か得があるの?」
「あるとも」小町は得意げに言った。「まず、おかゆに懐かれる方法がわかります」
「別に知りたくないけど」
「またまた」小町はからかうように言った。「知佳ちゃんって動物好きなのに、猫には妙に淡泊というか、興味ないふりするよね。陰では懐かせようとしてるのお姉さん知ってるんだけどな」

 懐かせようとしたわけではない。視界をうろちょろされると触りたくなるだけだ。猫が特別好きということもなければ、嫌いということもない。

「……どうせ、わたしはツンデレだよ」
「それ自分で言う人あんまりいないよ」

 そうかもしれない。むずかしいものだ。

「高校時代のことだけどね」小町は不意に言った。「わたしは友達なんて一人もいなかった。恋多き青春だったからね。彼氏をとっかえひっかえして――それでトラブルになることもあったし」
「……なんか小町ちゃんがすごくモテたみたいに聞こえる」
「知佳ちゃんの失礼な発言は聞かなかったことにして」小町は続けた。「当時はね、それでよかったんだ。いや、自分にそう言い聞かせてたのかな。受験に失敗して、父さんに失望されて、優秀なつぐみと自分を比較したりして、それで自分には何があるんだろうってわからなくなって、だから誰かに求められたかったのかな。誰かの特別になりたかったのかな。なんて、いまになって思うんだよね」

 小町は続ける。

「何やってんだろうって思うこともあった。でも、それは単にいまの恋が自分の求めるものじゃないだけだって、思い込んでた。だから、いろんな相手と付き合って、だけどいつもどこか満ち足りなくて……それで、ある日、廊下で談笑する同級生たちとすれ違ったとき、ふと思ったんだ。ああ、こういう青春もあるんだなって。友達ってものがすごく眩しく見えた。いっそ妬ましいほどに。変だよね。隣には彼氏がいて、満たされてたはずなのに」
「隣の芝生は青く見えるってだけじゃない?」
「それもあるだろうけど」小町は苦笑した。「その子たちはクラスで特に目立つ方でもなかったし、むしろ教室の隅っこで慎ましく談笑しているようなグループだった。わたしがそれまでほとんど気を留めたことがないような子たちだったんだよ。なのに、どうしてだろうね。あの日はふとそう思ってしまったんだ。この子たちは彼氏もいないのになんでこんな楽しそうなんだろう、なんで自分はあの輪の中にいないんだろう、なんで自分は男の腕にぶら下がってるんだろうって」

 おかゆが欠伸とともに目覚めた。眩しそうに目を細めながら周囲を見回す。小町はその頭を撫でながら続けた。

「でもね、そのときは素直に認められなかったんだ。むしろ彼氏と一緒になって彼女らを馬鹿にしてた。酸っぱいブドウってやつだね。自分には手に入らないから、価値を貶めたかったんだと思う」

 十年以上前の話だ。小町自身のこととはいえ、その解釈が正しいとも限らないだろう。

 小町はきっと青春時代に何かしらの後悔があるのだ。彼氏から手ひどい裏切りでも受けたのかもしれない。あるいはクラスで孤立していじめられたのかも。

 何であれ無意識に高校生活をやり直したいと思っているのだろう。あり得た別の可能性に思いを馳せることがあるのだろう。教室の隅っこで慎ましく談笑する日々に夢を見ることが。

「ねえ」小町が問いかける。「知佳ちゃんはその子たちと一緒にいて楽しいと思わないの?」
「どうだろ。よくわかんない」
「じゃあ、一緒にいたくない?」
「……別に」
「別に、か」小町は呆れたように笑った。「まあ、嫌じゃないならいいんじゃないかな」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

ずっと女の子になりたかった 男の娘の私

ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。 ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。 そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。

処理中です...