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第一部 供物

9 平家星爆ぜた

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 始業式は全校放送で行われることになった。インフルエンザが流行っているらしい。教室にも幾人かマスク姿の生徒が見受けられた。病み上がりなのか、しきりに咳き込む女子もいる。

 今年はまだインフルエンザのワクチンを射っていない。引っ越しの関係でバタバタしてそれどころではなかったのだ。
 知佳はインフルエンザに罹ったことはないが、それがワクチンのおかげなのかはわからなかった。母が毎年勝手に予約を入れるので機械的に外科へと足を運んでいただけだ。

 今年はどうしよう。にわかに不安が募ってくる。スピーカー越しに聞こえてくる校長のスピーチも、まるで頭に入ってこない。こほんこほんという咳の音だけが脳裏に響く。

 もうちょっと考えてみよう。そんな答えとも言えない答えが出る頃には、生徒会長だか教員だかが放送を締めくくりにかかっていた。
 放送ががぶつっと途切れるや否や、教室が一気に喧噪に包まれる。壇上の冨士野はそれを軽く窘めてから、正式に休憩時間の訪れを告げた。それと同時に、知佳の名前を呼び、手招きする。
 何か話があるらしい。知佳は立ち上がり、冨士野に続く格好で教室を後にした。

「森野さん、ちゃんとおったやろ?」

 教室から少し歩いたところで冨士野が言った。知佳は「はい」と答える。

 自己紹介のときは緊張でそれどころではなかったが、自分の席についてからしばらくすると、自然と周りに目が向くようになった。
 カナの姿を探すと、斜め前にそれらしい背中があった。白い襟のセーラー服、クリーム色のカーディガン、少し癖のあるマッシュウルフ――りんご様の巫女を名乗る少女は机に突っ伏して小さい背中を上下させていた。

「やっぱり目立ちますよね、あれ」
「言ったやろ、気にせえへん子やって」冨士野はだらしなく笑った。「今朝、話したんやろ。どうやった」
「どう、とは」
「元気やったかと思てな」急に真剣なトーンで言う。「なにせ二週間、顔を見てへんわけやし」

 どうやら担任として生徒を気にかけるくらいの職務意識はあるらしい。

「眠そうでしたけど。それにお腹も空いてそうでした」
「あーそう。やっぱりそうなんやね」
「何かあるんですか」
「まあ、いろいろな」肩をすくめる。「なんもあらへん子なんておらんやろ?」

 どうにも歯切れが悪い。プライバシーに関わってくることならはっきりそう言えばいいのに。

「そういえば、アヤとかニコって――」ふと気になったことを訊く。
「ああ、なんや聞いてんのね」冨士野はぱっと表情を明るくした。どうやら話す口実を探していたらしい。「あの子、五人兄弟の一番上なんよ。面倒見がええ子でな。下の子の面倒見ながら家事も担ってるらしいんよ」

 つまり、アヤやニコは兄弟の名前ということなのだろう。

「大家族ですか」
「そやね。ご両親に子供たち、それにお父さんの弟――森野さんから見た叔父さんが同居してるそうや。計八人家族やね。聞いてへんかった?」
「そこまで具体的には」知佳は言葉を濁した。

 市川家はいま、おばさんとおじさん、それに小町と知佳の四人暮らしだ。次女のつぐみはすでに独立して東京に住んでおり、知佳はその部屋で寝起きしていた。
 大阪では母と二人暮らしだった。院生のお姉さんとシェアハウスしていた時期もあったが、それでも三人だ。
 八人家族となると想像もつかない。

「あの子は可能性に満ちた子なんよ」冨士野は続ける。「地頭もいいし、運動神経も抜群。ちょっとがんばれば学年でもトップになれるやろう」

 屋上でのアクロバットを思い出す。なるほど、あんな芸当ができる高校生はそういないだろう。しかし、勉強ができるようには見えなかった。人の顔を覚えるのも苦手そうだし。

「信じられないって顔やな」冨士野が見抜いたように言う。
「別に」思わず顔を背けた。
「まあ、たしかに一般的な優等生って感じではないのんよ。いわゆる天才肌ってやつやな。どうも、あの子には不思議な直感力があるみたいなんや」
「直感……ですか」
「そ、知佳やんは《王子くん》って覚えとる?」
「一時期、予言者だとか言ってメディアで騒がれてた子のことですか?」
「そ、人呼んで奇跡の少年やね」

 八年前のことだ。ネットに投稿されたある動画が爆発的に拡散された。

 それは、ある家庭のホームビデオだった。

 冬のキャンプ場で四人家族が焚き火を囲んでいる動画だ。母親の傍らには汚れた食器が重ねられており、夕食を済ませた後であることが窺える。
 携帯電話ではなくビデオカメラで撮影された映像だが、画面は終始薄暗く、音声にもノイズが多い。撮影者である父親の声もこもっていて聞き取りづらい。
 おそらくは家族でさも今後ろくに見返すことがないだろう映像だった。

 ――お父さん!

 幼い声が叫ぶ。甲高く、ひび割れたような声だった。
 カメラが激しく動き、焚き火から少し離れたところに立つ少年を捉える。
 当時八歳の《王子くん》だ。

 ――どうした?
 ――空、撮って! 星!
 ――えー、曇ってるじゃん。お皿、片付けなよ。
 ――いいから!

 カメラが空を向く。日没前の曇り空を。

 ――えー、王子くんが空を映してほしいそうです。でもなんもないよ。晴れてたら見えてる時間なんだろうけど。
 
 苦笑するように言って、ズームとズームアウトを繰り返す。

 ――もう少しで見える。
 ――雲、そんなすぐにはどかないよ。お皿洗おうよ。
 ――大三角ってあっちでしょ。
 ――見えないのによくわかるね。
 ――でしょ。ほら。
 ――だから――うわっ!

 父親が驚くのも無理はない。その瞬間、薄暗い空が突如として明るみはじめたのだから。

 ――ヤバいヤバい! 何これ!

 他のキャンプ客も空の異変に気づいたのだろう。背景が騒がしくなる。

 ――パパ、何。どうしたの。
 ――わかんない。カメラ回してたら光りはじめて。

 父親はなおも撮影を続ける。分厚い雲の向こうで何かが光っている。それがなんなのか、このときの彼らは知らない。おそらくはただ一人、王子くんを除いて。

 シリウス、プロキオンとともに冬の大三角を構成する一等星ベテルギウスが超新星爆発をはじめたのはいまからおよそ五三〇年前とされる。ヨーロッパでは大航海時代がはじまり、日本では応仁の乱により混迷を極めていた時代だ。
 太陽系から遠く離れた場所で放たれた光は長い旅を経て、二一世紀の地球へとたどり着いた。

 知佳が小学生の頃の話だ。

 ベテルギウスは日本時間の夜に空を照らしはじめ、それから四ヶ月の間、半月ほどの明るさで昼夜を問わず空を照らし続けた。

「ベテルギウスが爆発する瞬間を捉えた映像は数多く出回っとる。当然、知佳やんも見たことあるやろ」
「はい」

 海外の映像には、晴天で撮影されたものも多い。白日、空が急に輝き出す映像もあれば、夜空に浮かぶベテルギウスが強く発光しはじめる様を完璧に捉えた映像もある。

「天文台の映像を除いて、ほとんどの映像は素人がたまたま撮影したものや。でも、あの《王子くん》の動画がメディアで取り上げられてから、雨後の竹の子のようにが生まれよった」

 そう、《予言動画》だ。《王子くん》のように、あらかじめ超新星爆発を予知してカメラを回したのだと主張する動画投稿者が現れるようになったのだ。
 すでにネットにアップロードされている動画を転載して予言者を名乗る投稿者も後を絶たなかった。
 折しも、動画投稿サイトが影響力を強めつつある時代だった。
 予言者を名乗る投稿者たちは以後、予言動画と称して社会的事件や災害を予言する動画を投稿するようになった。中には予言を的中させていまなお信者を抱える配信者もいるが、大多数は無名のまま消えていったのが実情だ。

「それが森野さんとどう関係が?」
「ああ、それがな。親御さんの話やと、森野さんもその予言者の一人やっちゅうんや」
「ベテルギウスの爆発を予言したってことですか」
「そ。動画とかは撮ってへんかったらしいけど。もちろん親御さんも頭から信じてはる感じでもないのよ。《王子くん》のことがなかったら気にも留めへんかったやろういう話や」
「……偶々ですよね。だってあり得ないですよ。NASAや世界各地の天文台も予測できなかったのに」
「たしかに。爆発の直前からその兆候は囁かれとったけど、天文学者も含めて誰も決定的な日時まではわからんかった。そのはずなんや」
「じゃあ――」
「知佳やんの言いたいことはわかる。先生もこれでも理系やからな」冨士野は自嘲するように言う。「ただ、科学もまだすべてを解き明かすには至ってないやろ。たとえば宇宙を満たす物質のうち八五パーセントはいまだ未知の物質とされとる。ダークマターってやつやな。宇宙のはじまり、恐竜が絶滅した理由、脳と意識、深海の世界、引力の正体……超新星爆発の仕組みやってようわかってへん。有力な説があるってだけや」
「だから、人間の理解を越えるものが存在してもおかしくない?」
「そう胡散臭げな顔せんたってや」冨士野は苦笑した。「先生やって信じとるわけやない。ただな、自分の人生を振り返ってみても、そういうものがないとは言い切れんのや。いわゆる不可知論ってやつやな。わからんことは保留にするしかない」
「それはそうですけど」
「なんや、まだ不服そうやな」
「別に」知佳は繰り返した。
「何もな、本気でそんな可能性を論じたいわけやないのんよ。先生が――そして親御さんが言いたかったんは、そういう与太話を喚起するくらい不思議な雰囲気を持った子いうことや。森野さんいう子はな」

 屋上で会ったときのことを思い出す。たしかに変わった子だった。饒舌で身ぶりが大きいわりに表情の変化に乏しくて、底意が見えなかった。だから一瞬、あのだって信じかけた。

「ははあ」冨士野が顎を撫でた。
「何ですか」
「ライバル意識やな」
「はい?」
「自分とタイプがちゃう才能に興味があるんやろ」冨士野は腕組みして頷く。「まあ、知佳やんも勉強は得意やもんな」

「勉強は」という言い方が引っかかる。たしかに知佳は実技科目があまり得意ではない。それでも家事なら一通りできるし、逆立ち歩きという特技だってある。

「知佳やんは意外とプライドが高い方なんかな」冨士野が見透かしたように言う。
「何の話ですか」
「まあ、ええんちゃう」冨士野はけらけらと笑いながら言った。「競争も悪いことばかりやあらへん。それもまた青春や」それから苦笑するように、「尤も、森野さんにはあまりその気がないみたいでな。あの調子でいつも寝てばかりなんや」

 それは容易に想像がついた。

「あの子自身にこうしたいっていうビジョンがあるとええねんけどねえ。人生、やりたいことをやるのが一番なんやから」

 冨士野は口癖のように言う。

「やりたいことですか」
「そ、何も『将来の夢』みたいな、たいそうなもんだけを言ってるんとちゃうんよ。ただ、明日にちょっとだけ希望が持てるような何か、それをするためなら今日一日をどうにかやり過ごす気になれる何かや」冨士野は続ける。「知佳やんも森野さんが気になるんやろ。やったら――」
「そういうわけじゃ」

 冨士野は白衣のポケットに手を突っ込み、赤いビニールに包まれた飴玉を二つ取り出した。もう片手で知佳の手を取り、二つとも握らせる。

「一つは知佳やんに。もう一つはこれからできる友達にあげ。お近づきのしるしや言うてな。先着一名様限定や。別に森野さんやなくてもいい。これはっていう子に渡すんや。三学期最初の宿題やな」
「はあ」

 手の中の飴を転がす。二つともりんご味だった。

「ああ、でも委員長に渡すなら少し様子を見てからの方がええかもな」
「五條さんですか? それってどういう――」

 冨士野は人差し指を立てて口許に当てた。ウィンクなどしてみせる。

「先生、生徒を陰で褒めはすれど、悪口は言わんのよ」
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