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第一部 供物

3 丘の学び舎

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   * * * *

 八〇年前――といってもだいたい、なんだけどな――とにかく、この国が戦争をやってた頃の話だ。
 むかしは戦争なんてなくても、いまよりずっと物騒だったんだ。いわゆる猟奇事件ってやつも多かった。

 この学校でも、事件があった。
 まあ、学校といっても当時はすでに軍需工場として徴用されてたんだけどな。授業は止まり、女学生たちは工場での労働に従事させられていた。

 そしてある秋の早朝、そんな女学生の一人が学校の塀にもたれかかった状態で発見されたんだ。
 ここが吸血鬼事件と違うところでな。

 。後に検めたところ、犯人に抵抗した形跡すらなかったっていうんだ。
 だけど――犯人はやっぱり《吸血鬼》のお仲間だったんだろうな。
 胸に唯一の外傷があった。刃物で裂いたんだろう、切り傷が。

 犯人はそこから、奪い取っていったらしい。

 まだ生ぬるくて赤黒いそれを。

 

   * * * *

 学校は高台の縁に建っている。坂を上りきると、もう目前だ。

 ――あら、そのがあったわね。

 すでに南側に巡らされた石塀が見えている。
 塀に沿って西に回り込み、角で北に折れると塀はフェンスに変わるだろう。
 フェンスには、軽音部の全国大会出場を讃える横断幕がかかっており、そこを通り過ぎるといよいよ正門が見えてくる。

 ――じゃあ、お願いしようかしら。このバッグ、持ってくれる?

 高等女学校時代から数えて創立九〇周年を控える県立高校、通称《彩高さいこう》。
 もちろん、創立当時の校舎はもう残っていない。古くもなければ新しくもない、モダンな白い校舎が三棟と、運動部の部室棟、体育館、食堂などのありふれた施設が並ぶだけだ。

 ――わたしたちは遅くなるから、あなたは先に行って。わたしたちは相合い傘するから、傘貸してあげる。あなたも一年生でしょう? わたしは四組のみさき蒼衣あおい。傘は後で一年四組の傘立てに差しておいて。

 冬休みの間に隕石でも落ちてないかぎり、最後に見たときのままだろう。そんなニュースは見てないし、新学期だからって何が変わるわけでもないはずだ。

 ――バッグは三号館の屋上――いえ、その手前の踊り場まで運んでくれればいいわ。

 みんなきっとそう思ってる。

 ――いい? これだけは約束して。屋上の鍵はたぶん閉まってると思うけど――

 今年度も残り三か月になって、が来るなんて思ってもいないだろう。



 生徒用の通門口をくぐったとき、敷地内のポール時計は午前八時前を示していた。
 両手にそれぞれビニールバッグと借りた傘を携えたまま冬枯れの桜並木を通り抜け、昇降口を目指す。

 昇降口のガラス戸はすでに解放されており、ぽつぽつと生徒が出入りしていた。
 庇の下で傘を閉じ、ずらりと並んだ靴箱を一望する。
 一年四組。
 それが自分のクラスだ。
 スチール製の靴箱は目立った汚れや疵もなく、最近新調されたものだとわかる。知佳の出席番号は四〇。まだネームラベルは貼られていないが、市川いちかわなのに最後だなんて変な気分だ。何もかも夢なのではないかと思えてくる。
 足元にはすのこが敷かれている。知佳はいったんそこにビニールバッグを降ろし、雨に濡れたスニーカーを脱いだ。
 スマートフォンの着信音が静寂を切り裂いたのは、靴箱の扉に手をかけた瞬間だった。

 思わずその場で跳ね上がりそうになる。

 知佳はリュックを下ろし、ポケットに手を突っ込んだ。
 おっかなびっくり使っている、最新機種のスマートフォン。
 転んだときリュックを下敷きにしたせいだろう、ガラス製の液晶保護フィルムに少しひびが入っている。しかし、ショックを受けてる暇はない。知佳は通話ボタンを押した。
 画面には「おばさん」と表示されている。知佳の現在の保護者だ。

「え? うん。大丈夫だってば。そんなに降ってないし。え? 転んでなんかないよ。子供じゃないんだから。全然濡れてなんかないし。うん、いま昇降口にいる。電話? 忘れてないよ。これからかけるつもりだったの」

 おばさんは変わった人だ、と知佳は思う。
 おばさんといっても、知佳はつい最近まで彼女の存在すら知らなかった。幼い頃、会ったことがあるらしいが覚えていない。市川家のアルバムで自分の写真を見ても何も思い出せなかった。
 一方で、おばさんは母と定期的に連絡を取り合っていたらしく、母が倒れたとき、間髪入れず知佳の保護者として名乗りを上げたのだった。

 どうして、と訊いたことがある。
 すると、おばさんは「前々から、三人目の娘がほしかったの」と答えた。「ほら、うちの子たちはもう大人でしょう? そんなの寂しいじゃない」と。
 最初は知佳に気を遣ったのだと思っていた。しかし、一ヶ月一緒に暮らしてみてそれだけではない気がしてきた。

 ――母さんは母性を持て余した母猫みたいなものなんだ。自分の子供じゃなくても、そばに置いておけば面倒を見たがる。

 おばさんの長女である小町こまちはそう言った。

 ――気をつけなよ、知佳ちゃん。母さんは花に水をやりすぎて枯らすタイプだから。

「とにかく心配しないで。うん、わかってる。無理はしないよ。保健室の場所もわかってる。じゃあ、帰るときはこっちからかけるから」

 知佳は通話を切った。同時に、こらえていたくしゃみを爆発させる。おばさんに聞かれなくて幸いだった。また余計な心配をかけかねない。

 07:54

 ひび割れた画面が示す現時刻をしばし眺めたのち知佳はため息を吐き、今度はコートのポケットにスマートフォンをしまった。

 さて――

 登校したらまずは職員室に向かう予定だった。
 段取りの確認や、担任以外への面通しがあるらしい。その後は別の部屋で待機し、始業を待って担任と教室に向かうと聞いていた。

 おつかいを果たすならその前だ。時間的にもまだ余裕がある。

 スリッパに履き替え、三号館へと向かう。
 廊下に人気はない。HR教室はすべて隣の二号館に集まっているというから当然かもしれない。
 廊下を走っても咎める者はなさそうだ。それどころかトムソンガゼルの群れが通ったって誰も気づきやしないだろう。

 一息に駆け上がると、さすがに息が乱れた。少し休んで、最後の階段に足をかける。
 数えて、十二段。踊り場を挟んでもう十二段。
 階段を登りきると、屋上手前のスペースにたどり着いた。
 半ば物置きのようになっているらしい。机が何組か組まれ、段ボールが積まれている。
 そして、――

 ――屋上の鍵はたぶん閉まってると思うけど、もし開いてても外には出ないで。

 バッグを受け取るとき、蒼衣はたしかにそう言った。

 ――ね? お姉さんとの約束。

 知佳は一度も「どうして」とは訊かなかった。

 どうしてバッグを運ばなくてはならないのか。
 どうして屋上に出てはいけないのか。
 どうしてりんごなのか。

 何から訊けばいいのかわからなかったし、訊くことが許されるのかどうかもわからなかった。

 何もわからない。
 何もわからないまま、約束の場所に立っている。

 ドアを前にすると、すぐ足元の玄関マットが目が留まった。
 アールヌーヴォー風の曲線が印象的なデザインで、中央には「LADIES ONLY」と刺繍されている。
 ドアはドアで、ノブの下に、スカートをはいたピクトグラムのシールが貼ってあった。

 どうしてだろう。まさか屋上にトイレがあるわけでもないだろうに。

 冗談にしても意図を測りかねたが、世の中にはナンセンスギャグというものもある。考えるだけ無駄だろう。

 ――そのバッグは――そうね、屋上手前のスペースの壁にでも立てかけておいて。

 そうすればいい。それで、おつかいは終わりだ。長居する理由もないだろう。蒼衣も言っていたではないか。屋上には絶対に入るな、と。

 なのに、知佳ソフィ、何を気にしている?

 それは歌だった。

 ドアの向こうから雨音に紛れて聞こえてくる。少し鼻にかかったメゾソプラノで、どことなく寂しげな歌声だった。


 あらあら あのこは ずぶぬれだ
 やなぎの ねかたで ないている
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン
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