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38 罠
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好紀は美也と別れ、イチと部屋に戻る。好紀は黙ってるわけにはいかないと、自分があと1か月程でディメントを辞める事をイチに切り出した。イチは驚いた顔で好紀を見詰める。
「誰かに身請けされたのか? 良かったな」
「あ…う、うん。ありがとう」
笑顔で言われて、好紀ははにかみつつ頭を掻く。イチに相手はクミヤだと伝えたら、どうなるのだろうと思う。イチはそれ以上は聞かなかった。こういう線引きがしっかりしているところが好紀は好きだった。
「俺さ…ホントの名前、一位(いちい)って言うんだ。正直この名前…嫌だった。俺には荷が重くて…一番とか柄じゃなくて。でも、ディメントで小向さんが『イチ』ってつけてくれて…ほっとしたんだ。俺、お前からイチって呼ばれるの好きだった」
「イチ…」
不意に語られたイチの名前。一番という意味を持つ名前を付けられた重責はどれだけのものだったのだろう。
優しいイチから口に出される言葉は深く好紀の胸に響いた。
「俺は、好紀って言うんだ。室井好紀。…俺も、コウってお前に呼ばれるの好きだった」
「好紀か…。良い名前じゃん」
「はは…。ありがとう」
名前を褒められて嬉しかった。随分と本当の名前を晒していなかったと思う。このディメントでは『コウ』として生きてきた。それが後1か月で終わりを告げる。
「あのさ。お前が辞めても…まだ友達で居たい。…駄目か?」
「―――」
切ない顔で見詰められて好紀は固まる。きっとこうやって客の心を掴んでいるのだと好紀は思う。NOという選択肢は好紀の中にはなかった。
「駄目じゃない。俺だって、イチと離れるのは寂しいよ。お前と同室で本当に良かった」
好紀の言葉に目を見開くイチだったが、すぐに笑みに変わる。
「コウ…。有難う」
「じゃあ、取り敢えず…連絡先交換する?」
「―――うん」
それすらもまだだったんだ―――2人は笑いあう。スマホを取り出した好紀をイチは優しい目で見ていた。
◆◆◆◆
客を取るのは無くなったが、同伴としての仕事は辞めるまで続けるらしい。それ自体はいいのだが、好紀には1つだけ憂鬱な事があった。スマホで同伴の指名がきている事を確認し、その指名してきた名前を見て一気に気分が落ち込んだ。
メンバー名:『タイ』
たった二文字の言葉なのにどうしてこんなに不安になるのだろうと思う。どうにかして乗り越えないとな、と自分を𠮟咤激励して好紀は車が置いてある道まで足を進んだ。車の前で待っていると、やがてその人は長い足を動かしてやって来た。
「コウくん、コンニチハ~」
「こ、こんにちは。タイさん」
この間の事なんて無かったかのような普段通りのタイだった。スーツを着ている彼はいつ見てもスポーツ選手のようにカッコイイと思う。好紀はドアを開けてタイを車の中に誘導する。2人がシートベルトを締めた事を確認し、若い男性運転手はゆっくりと車を発進させた。
いつものように世間話をしようと口を開けようとすると、タイが開口一番に言った。
「コウくん、身請けされるんだって?」
「え? ―――あ、はい」
冷や汗が背中に伝うのを感じた。
どうやら噂は広まっているらしい。まだ公式に発表していないのに、どこから流れたんだろう、と考えを巡らせていると…。
「あとどれぐらいで辞めちゃうの?」
「後1か月ぐらいみたいです」
「客は取れないんだっけ」
「そうみたいです。そういう決まりみたいで」
「へえ。誰に買って貰ったの?」
次々と質問され好紀は答えていく。しかし最後の質問には答えられなかった。
「…えっと、ごめんなさい。言っちゃいけないみたいなので…」
プライバシーに問題もあるし、もし知った客などが報復をしないために身請けをしてくれた人の名前は他言してはいけない事になっている。もしも言っていいのだとしても、好紀には『クミヤ』が身請けをしてくれたのだということはタイには言えない。
好紀の言葉に一気にタイは不機嫌になる。
「えぇ? なんでよぉ。俺との仲なのにぃ?」
「…はい。ごめんなさい…」
どんな仲だよ、と突っ込みたかったがそれをグッと堪える。
タイの指が好紀の太腿をそっと触る。その際どい感覚に、好紀は何とか笑みを浮かべることしか出来ない。最後までこの人は「こう」なのだと分かった。今好紀が出来るのはただタイの機嫌を損ねないように笑みを浮かべ、セクハラ行為に耐える事だけだ。
「寂しいなぁ。あと1か月でコウくんがいなくなっちゃうなんて……」
俺は清々するよ―――。…―――とは言えない。タイのわざとらしい言い方と太腿を擦る指の動きはちぐはぐだった。
「俺も…寂しいです…」
思ってもいない事を言うのは気が引けた。しかし、こうでもしないとタイの機嫌は悪くなるばかりだ。穏便にここを切り抜けなければいけない。
「ホントに?」
まるで蛇のように見詰められてドキッとする。何もかも見透かされてしまいそうになり、思わず目を逸らす。
「あ…」
好紀が声を出したのは、指が股間を弄ったからだ。こんな風に直接的にセクハラさせるとは思わなくて、好紀は震えることしか出来ない。
「ふふっ、感じちゃった?」
「や…めて、くだ、さい…」
運転手には聞こえない囁きで聞かれて好紀は言葉で抵抗するしかない。
「信じられないよ。君が消えちゃうなんて…」
「あ…ぁ…」
大胆に動く手に好紀は尻をモジモジとさせる。わざとらしい声。淫猥に動く指。何もかも非現実のようで。
「や、やめ」
これは本当にイケないと思い、タイの事を睨みつけると思いの外簡単に手が離れていった。
「睨む顏初めて見た」
「―――」
くすくすと笑う顔に、好紀は言葉を失う。ほっとすると同時にタイに対して底知れぬ恐怖を感じた。車が赤信号で停止した所でタイが言った。
「ねぇ、何か奢るよ。お祝いにさ。お茶でいい?」
「えっ。いいですよ。悪いですし…」
それに、何だか後が怖い。そんな好紀を無視して、運転手にタイは声をかける。
「運転手さん。そこのコンビニに止まってくれない? 飲み物買いたくてさ」
「―――はい。かしこまりました」
「ぁ…」
運転手はタイの言葉には逆らえない。車はコンビニの駐車場に止まり、タイはさっさと降りて行ってしまった。好紀と運転手はお互いに『大変ですね』という顔をしてタイの事を待っていた。やがてタイはコンビニの袋を持って車の中に戻ってきた。
「はい、これ。無難なのになっちゃった」
「あ…ありがとうございます」
好紀は渡された袋を見つつ、頭を下げた。中を見るとよく売られているパッケージのお茶のペットボトルが入っていた。
しばらくして車はゆっくりと発進し、目的のホテルに向かっていく。
「飲まないの?」
タイの純粋な疑問が投げかけられる。そう見詰められると断わることは出来ない。
「じゃあ、いただきます…」
好紀はペットボトルの蓋を開けて、口に含んだ。それにしてもペットボトルの蓋がすんなりと開いたような気がしたが、すぐにそんな事は気にならなくなった。
「美味しい?」
「はい。ありがとうございます」
「良かったぁ」
タイはニコニコとじっとこちらを見詰めている。それが何とも居心地の悪さを感じてしまった。好紀は妙に緊張し、ごくごくとお茶を飲んだ。中身が半分ぐらいになったところで、ホテルの前に到着した。好紀は慌てて車を出てドアを開ける。
「ありがと~。じゃあ、いってくるね」
「いってらっしゃいませ」
好紀は深々とお辞儀をした。やがてタイの姿が見えなくなると、好紀はほっと息をついた。車に戻り、ディメントに戻る。それまでは時間まで待機になる。
車の中で待っていると眠気がやってくる。ウトウトとしてしまい、好紀はハッとして頬を叩く。
「大丈夫ですか? 眠そうですけど…」
運転手が心配そうに好紀をバックミラー越しに見詰めてくる。
「あ! す。すみません! 起きます!」
「少し寝ててもいいんですよ? 着いたら起こします」
「大丈夫です! これも仕事なので、起きてます!」
「そうですか? 無理はしないでくださいね」
優しい運転手の言葉が何だか子守歌のように聞こえてくる。
あぁ、駄目だ、起きないと。起きていないと、同伴失格だ…――――。
しかし、好紀の抵抗も虚しく。やがて耐えきれない眠気が来て、好紀は眠りに落ちてしまった。運転手はその様子をクスリと笑って見ていた。しかし―――。
「コウさん? もう着きましたよ? コウさん?」
運転手が声をかけても好紀は返事をしない。後部座席で項垂れ眠ってしまったままだ。ホテルの前に停車し、身体を揺らしてもコウは起きなかった。
「コウさん? コウさん? …まいったな。タイさんが来ちゃうのに…」
疲れて眠ってしまっているにしてはここまで起きないのだろうかと運転手は不思議に思う。やがて車のドアが開かれて、タイが乗り込んできた。
「あ、タイさん! 申し訳ございません。コウさん、寝ちゃったみたいで…。起こしたんですけど、全然うんともすんとも言わなくて…」
運転手の説明にタイは怒ることもなくクスッと笑った。それが何だか運転手には恐ろしく思えた。
「あぁ、眠っちゃってるみたいだね。まるで眠り姫みたいだ。王子のキスで目覚めるのかなぁ?」
「う、わ―――」
運転手は思わず絶句した。振り向いた先ではコウとタイがキスしていたからだ。コウはキスされていることも知らずにぐっすりと眠ってしまっている。普通なら起きるシーンなのに、何故か起きない好紀に運転手は嫌な予感がした。そんな予感のままタイは口を離し、笑みを浮かべた。
「起きないみたいだね。あぁ、このまま寮に戻らないでさ。Aホテルに向かってくれる?」
「え?」
運転手はすぐに言葉を認識できなかった。そんな運転手にタイは続けて言った。
「Aホテル。ほら、向かって」
「…は、は…い」
運転手に否定の言葉は許されない。タイの言葉は絶対だ。運転手は震える手を押さえて車を発進させた。Aホテルはここでは有名な大きいラブホテルだ。どうして客との行為が終わったのに、Aホテルに向かうのか―――運転手には質問することは出来ない。
ただ考えられる事は1つだけある。
「ふふ、可愛いなぁ。ホントに眠り姫みたいだ」
タイの独り言がとんでもなく怖く思えた。
「じゃあ。また連絡するねぇ」
Aホテルの前に着いた車からタイは出ていった。その背中には眠っているコウを背負って。その異様な光景を見て、運転手は今自分はとんでもない事が起きてしまっているのだと気付いた。タイを見送った後、運転手は急いであるところへ電話をかけた。
「すみません。運転手の佐々木(ささき)ですけど…今大丈夫ですか? 有難うございます。あの…今、タイさんをホテルに届けて…。ええ。ええ…。そうなんですけど、まずい気がして…。はい、はい…」
運転手はゆっくりと電話越しの人物に説明した―――。
「誰かに身請けされたのか? 良かったな」
「あ…う、うん。ありがとう」
笑顔で言われて、好紀ははにかみつつ頭を掻く。イチに相手はクミヤだと伝えたら、どうなるのだろうと思う。イチはそれ以上は聞かなかった。こういう線引きがしっかりしているところが好紀は好きだった。
「俺さ…ホントの名前、一位(いちい)って言うんだ。正直この名前…嫌だった。俺には荷が重くて…一番とか柄じゃなくて。でも、ディメントで小向さんが『イチ』ってつけてくれて…ほっとしたんだ。俺、お前からイチって呼ばれるの好きだった」
「イチ…」
不意に語られたイチの名前。一番という意味を持つ名前を付けられた重責はどれだけのものだったのだろう。
優しいイチから口に出される言葉は深く好紀の胸に響いた。
「俺は、好紀って言うんだ。室井好紀。…俺も、コウってお前に呼ばれるの好きだった」
「好紀か…。良い名前じゃん」
「はは…。ありがとう」
名前を褒められて嬉しかった。随分と本当の名前を晒していなかったと思う。このディメントでは『コウ』として生きてきた。それが後1か月で終わりを告げる。
「あのさ。お前が辞めても…まだ友達で居たい。…駄目か?」
「―――」
切ない顔で見詰められて好紀は固まる。きっとこうやって客の心を掴んでいるのだと好紀は思う。NOという選択肢は好紀の中にはなかった。
「駄目じゃない。俺だって、イチと離れるのは寂しいよ。お前と同室で本当に良かった」
好紀の言葉に目を見開くイチだったが、すぐに笑みに変わる。
「コウ…。有難う」
「じゃあ、取り敢えず…連絡先交換する?」
「―――うん」
それすらもまだだったんだ―――2人は笑いあう。スマホを取り出した好紀をイチは優しい目で見ていた。
◆◆◆◆
客を取るのは無くなったが、同伴としての仕事は辞めるまで続けるらしい。それ自体はいいのだが、好紀には1つだけ憂鬱な事があった。スマホで同伴の指名がきている事を確認し、その指名してきた名前を見て一気に気分が落ち込んだ。
メンバー名:『タイ』
たった二文字の言葉なのにどうしてこんなに不安になるのだろうと思う。どうにかして乗り越えないとな、と自分を𠮟咤激励して好紀は車が置いてある道まで足を進んだ。車の前で待っていると、やがてその人は長い足を動かしてやって来た。
「コウくん、コンニチハ~」
「こ、こんにちは。タイさん」
この間の事なんて無かったかのような普段通りのタイだった。スーツを着ている彼はいつ見てもスポーツ選手のようにカッコイイと思う。好紀はドアを開けてタイを車の中に誘導する。2人がシートベルトを締めた事を確認し、若い男性運転手はゆっくりと車を発進させた。
いつものように世間話をしようと口を開けようとすると、タイが開口一番に言った。
「コウくん、身請けされるんだって?」
「え? ―――あ、はい」
冷や汗が背中に伝うのを感じた。
どうやら噂は広まっているらしい。まだ公式に発表していないのに、どこから流れたんだろう、と考えを巡らせていると…。
「あとどれぐらいで辞めちゃうの?」
「後1か月ぐらいみたいです」
「客は取れないんだっけ」
「そうみたいです。そういう決まりみたいで」
「へえ。誰に買って貰ったの?」
次々と質問され好紀は答えていく。しかし最後の質問には答えられなかった。
「…えっと、ごめんなさい。言っちゃいけないみたいなので…」
プライバシーに問題もあるし、もし知った客などが報復をしないために身請けをしてくれた人の名前は他言してはいけない事になっている。もしも言っていいのだとしても、好紀には『クミヤ』が身請けをしてくれたのだということはタイには言えない。
好紀の言葉に一気にタイは不機嫌になる。
「えぇ? なんでよぉ。俺との仲なのにぃ?」
「…はい。ごめんなさい…」
どんな仲だよ、と突っ込みたかったがそれをグッと堪える。
タイの指が好紀の太腿をそっと触る。その際どい感覚に、好紀は何とか笑みを浮かべることしか出来ない。最後までこの人は「こう」なのだと分かった。今好紀が出来るのはただタイの機嫌を損ねないように笑みを浮かべ、セクハラ行為に耐える事だけだ。
「寂しいなぁ。あと1か月でコウくんがいなくなっちゃうなんて……」
俺は清々するよ―――。…―――とは言えない。タイのわざとらしい言い方と太腿を擦る指の動きはちぐはぐだった。
「俺も…寂しいです…」
思ってもいない事を言うのは気が引けた。しかし、こうでもしないとタイの機嫌は悪くなるばかりだ。穏便にここを切り抜けなければいけない。
「ホントに?」
まるで蛇のように見詰められてドキッとする。何もかも見透かされてしまいそうになり、思わず目を逸らす。
「あ…」
好紀が声を出したのは、指が股間を弄ったからだ。こんな風に直接的にセクハラさせるとは思わなくて、好紀は震えることしか出来ない。
「ふふっ、感じちゃった?」
「や…めて、くだ、さい…」
運転手には聞こえない囁きで聞かれて好紀は言葉で抵抗するしかない。
「信じられないよ。君が消えちゃうなんて…」
「あ…ぁ…」
大胆に動く手に好紀は尻をモジモジとさせる。わざとらしい声。淫猥に動く指。何もかも非現実のようで。
「や、やめ」
これは本当にイケないと思い、タイの事を睨みつけると思いの外簡単に手が離れていった。
「睨む顏初めて見た」
「―――」
くすくすと笑う顔に、好紀は言葉を失う。ほっとすると同時にタイに対して底知れぬ恐怖を感じた。車が赤信号で停止した所でタイが言った。
「ねぇ、何か奢るよ。お祝いにさ。お茶でいい?」
「えっ。いいですよ。悪いですし…」
それに、何だか後が怖い。そんな好紀を無視して、運転手にタイは声をかける。
「運転手さん。そこのコンビニに止まってくれない? 飲み物買いたくてさ」
「―――はい。かしこまりました」
「ぁ…」
運転手はタイの言葉には逆らえない。車はコンビニの駐車場に止まり、タイはさっさと降りて行ってしまった。好紀と運転手はお互いに『大変ですね』という顔をしてタイの事を待っていた。やがてタイはコンビニの袋を持って車の中に戻ってきた。
「はい、これ。無難なのになっちゃった」
「あ…ありがとうございます」
好紀は渡された袋を見つつ、頭を下げた。中を見るとよく売られているパッケージのお茶のペットボトルが入っていた。
しばらくして車はゆっくりと発進し、目的のホテルに向かっていく。
「飲まないの?」
タイの純粋な疑問が投げかけられる。そう見詰められると断わることは出来ない。
「じゃあ、いただきます…」
好紀はペットボトルの蓋を開けて、口に含んだ。それにしてもペットボトルの蓋がすんなりと開いたような気がしたが、すぐにそんな事は気にならなくなった。
「美味しい?」
「はい。ありがとうございます」
「良かったぁ」
タイはニコニコとじっとこちらを見詰めている。それが何とも居心地の悪さを感じてしまった。好紀は妙に緊張し、ごくごくとお茶を飲んだ。中身が半分ぐらいになったところで、ホテルの前に到着した。好紀は慌てて車を出てドアを開ける。
「ありがと~。じゃあ、いってくるね」
「いってらっしゃいませ」
好紀は深々とお辞儀をした。やがてタイの姿が見えなくなると、好紀はほっと息をついた。車に戻り、ディメントに戻る。それまでは時間まで待機になる。
車の中で待っていると眠気がやってくる。ウトウトとしてしまい、好紀はハッとして頬を叩く。
「大丈夫ですか? 眠そうですけど…」
運転手が心配そうに好紀をバックミラー越しに見詰めてくる。
「あ! す。すみません! 起きます!」
「少し寝ててもいいんですよ? 着いたら起こします」
「大丈夫です! これも仕事なので、起きてます!」
「そうですか? 無理はしないでくださいね」
優しい運転手の言葉が何だか子守歌のように聞こえてくる。
あぁ、駄目だ、起きないと。起きていないと、同伴失格だ…――――。
しかし、好紀の抵抗も虚しく。やがて耐えきれない眠気が来て、好紀は眠りに落ちてしまった。運転手はその様子をクスリと笑って見ていた。しかし―――。
「コウさん? もう着きましたよ? コウさん?」
運転手が声をかけても好紀は返事をしない。後部座席で項垂れ眠ってしまったままだ。ホテルの前に停車し、身体を揺らしてもコウは起きなかった。
「コウさん? コウさん? …まいったな。タイさんが来ちゃうのに…」
疲れて眠ってしまっているにしてはここまで起きないのだろうかと運転手は不思議に思う。やがて車のドアが開かれて、タイが乗り込んできた。
「あ、タイさん! 申し訳ございません。コウさん、寝ちゃったみたいで…。起こしたんですけど、全然うんともすんとも言わなくて…」
運転手の説明にタイは怒ることもなくクスッと笑った。それが何だか運転手には恐ろしく思えた。
「あぁ、眠っちゃってるみたいだね。まるで眠り姫みたいだ。王子のキスで目覚めるのかなぁ?」
「う、わ―――」
運転手は思わず絶句した。振り向いた先ではコウとタイがキスしていたからだ。コウはキスされていることも知らずにぐっすりと眠ってしまっている。普通なら起きるシーンなのに、何故か起きない好紀に運転手は嫌な予感がした。そんな予感のままタイは口を離し、笑みを浮かべた。
「起きないみたいだね。あぁ、このまま寮に戻らないでさ。Aホテルに向かってくれる?」
「え?」
運転手はすぐに言葉を認識できなかった。そんな運転手にタイは続けて言った。
「Aホテル。ほら、向かって」
「…は、は…い」
運転手に否定の言葉は許されない。タイの言葉は絶対だ。運転手は震える手を押さえて車を発進させた。Aホテルはここでは有名な大きいラブホテルだ。どうして客との行為が終わったのに、Aホテルに向かうのか―――運転手には質問することは出来ない。
ただ考えられる事は1つだけある。
「ふふ、可愛いなぁ。ホントに眠り姫みたいだ」
タイの独り言がとんでもなく怖く思えた。
「じゃあ。また連絡するねぇ」
Aホテルの前に着いた車からタイは出ていった。その背中には眠っているコウを背負って。その異様な光景を見て、運転手は今自分はとんでもない事が起きてしまっているのだと気付いた。タイを見送った後、運転手は急いであるところへ電話をかけた。
「すみません。運転手の佐々木(ささき)ですけど…今大丈夫ですか? 有難うございます。あの…今、タイさんをホテルに届けて…。ええ。ええ…。そうなんですけど、まずい気がして…。はい、はい…」
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