エンドルフィンと隠し事

元森

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16 仲直り

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「はぁ…、はぁ…っ」
 好紀は口の端に張り付いた胃から吐き出したモノを手でふき取る。荒い息を吐き出しながら、今にも倒れそうな身体を支えようと洗面台に寄りかかる。頭が痛い。喉の奥がまだアレの感触がある気がしておぞましかった。
 あの後。射精をした自分のものをベットのシーツごと舐めとった。その時の、生きた心地のしなさは、今まで感じたこともないぐらい苦痛だった。その後は、また口で奉仕をさせられた。佐嶋のニヤついた表情が忘れられない。時間が来たので挿入がなかったのが救いだろう。
 耐えようのない吐き気は、寮の自室に着いてからやってきた。今までは客の前で吐いていたので、今日はかなり進歩したといっていいだろう。
 ――――また指名してあげようか?
「お断りだっつうの…」
 先程言われた言葉を思い出し、好紀は悪態づく。上から目線で、好紀を格下だと思っている表情をされて、好紀は言いようのない怒りを抱く。その言葉は、一番初めに彼から指名された時にも言われた言葉だ。
 自分が、底辺のディメントの蝶だと言う事は分かっている。だから、客を選ぶ権利はないのは重々承知だ。ディメントの上位ナンバーは嫌な客を断ることが出来る。自分はそこまで、這いあがらないといけない。辛い目にあっても、どれだけ泣き叫んだって、ここでお金を作らないといけない。
 身体を弛緩させ、瞼を閉じる。頭の中で、先程の男の汚い性器が浮かび上がる。笑みを浮かべようと口角を上げるが、うまくいかない。それどころか顔は大きく歪む。
「コウッ」
 耳元で名前を呼ばれて、好紀は薄く目を開ける。ぼやけた視界に、見慣れた顔が浮かんだ。
「…イチ…」
 かろうじて、目の前の人物の名前が言えた。
「おい、大丈夫か?! 具合でも悪いのか? それだったらここじゃなくて、ベットで寝たほうがいい」
 客の指名から帰ってきたイチが、ぐったりとしている好紀を心配し、身体を揺さぶる。心底心配している様子のイチの声に、やっと意識が現実に戻ってきた。運んでやる、と言われそのままベットまでイチは好紀を運んでくれた。
「…あ、りがとう」
 ぼんやりとした頭で、好紀はお礼を口に出す。その健気な様子に、イチは拳を強く握りしめる。そっと布団をかけられ好紀は温かな柔らかい感触に一気に睡魔が襲う。何とか謝らないと、と口を開けたけれど、意識が段々と遠のきそれは叶わなかった。
 ――――朝。
 好紀は重い身体を動かして、意識を覚醒させた。身体をよじると、台所に立っているイチの姿が見えた。段々と意識がはっきりしてきて、昨日の事を思い出す。自分がイチにベットまで運ばれたことを。
「イチっ」
 好紀はグチャグチャの髪を翻してベットから飛び降りた。名前を呼びながら、みそ汁を作っているイチに駆け寄る。イチは好紀に気づくと、爽やかに笑った。眼鏡の奥にある瞳は優しく好紀を見詰めていた。この間、深夜に部屋を出ていた好紀に対して冷たく怒っていた彼なんていなかったようだ。
「おはよう。…身体はもう平気なのか?」
「え、あ、…うん。昨日はベットまで運んでくれてありがとう」
「…あぁ、大丈夫。てか、すっげー髪が乱れてるから顔でも洗ってくれば? その頃にはみそ汁できてるから」
 香るみそ汁の美味しそうな匂いに口の中で唾液が溢れた。ごくりと喉を鳴らす。お腹が空いて、自身の腹を擦る。
「うん」
 いつも通り、優しい対応をされ、好紀は毒気が抜かれた。言われた通り洗面台に向かう。昨日汚したはずのそこは何もなかったように綺麗だった。鏡に映る自分の顔が昨日よりマシに見えた。それもベットに運んでくれたイチのおかげだ。
 顔を洗い、髪を梳かしながら、許してくれたように見えるイチにきちんと謝ろうと思った。イチにはずっと心配をかけているし、迷惑もかけっぱなしだ。
 リビングに戻ると、先にイチが朝ご飯を食べていた。みそ汁、白いご飯、茄子の漬物、目玉焼きがテーブルに二人分並んでいる。湯気が出ている美味しそうなご飯に、喉をごくりと鳴らす。好紀は「ただいま」とイチに声をかけ腰かけた。
 時刻を見ると、10時を過ぎていて、朝食を食べられる食堂は開いていない。好紀に食べさせるためわざわざ作ってくれたのだ。お礼を言うため口を開こうとすると、
「―――ごめん」
 自分が言おうとしていた言葉が目の前のイチから発せられて、好紀は混乱する。飲もうとしていたみそ汁を口元に持っていったままかたまる。
「俺、この間…好紀に酷い事言ったよな。好紀の事情も何も考えずに…」
 ―――別に俺の居ないところで【そういう事】をやるのはいいけどさ。…ホイホイ夜出歩いたりして、危ない目にあったりしても知らないからな。
 あの時、イチに言われた言葉を思い出す。だがあれは、イチの好紀を心配したゆえの発言だった。好紀は慌てて口を動かす。
「イチが謝んなくていいって、むしろ俺の方が軽率だった…。謝るのは俺の方だ、…ごめんなさい」
 そう言うと、イチはじっと好紀を見詰めた。そして頭を掻くと、おずおずといった様子で言葉を紡ぐ。
「…お前がまさかディルドを使うなんて思ってなかったからさ。でも、よく考えれば、お前って……セックスが苦手だろ…?」
「う…ん、」
「コウなりに練習してたんだろうに、ついあんなこと言っちゃってさ…。本当に申し訳ない」
 頭を下げられ頭のてっぺんが見えて好紀はたじろぐ。
「だから謝んなって! ごめん、もう次はお前が居ないところで練習するから…、頭上げてくれよ」
 好紀の言葉でやっとイチは顔を上げた。普段の知的な様子からは考えられないほど、彼は落ち込んでいた。幻覚で垂れた耳としっぽが見える程、彼は言葉通り『申し訳さなそう』にしていた。朝の食卓に妙な雰囲気が流れる。ディルドを舐めていたところを見られた以来の気まずい空気が流れていた。
 イチは好紀を一瞥し、もごもごと言い淀む。
「……俺が居る時に練習しても、いいからな」
 頬を赤らめながら言ったイチの言葉に、目を剥く。意味を理解したのはしばらく経ってからだった。
「や、やんないよっ! そんな気遣いしなくて大丈夫っす!」
「そ…うなのか?」
 ぶんぶんと首を振って否定した好紀に、イチは目を丸くしている。変に真面目なイチなので、そんな考えが浮かんだのかもしれない。だが、好紀にとってそんなことは恥ずかしすぎることだった。
 ―――クミヤさんならまだしもイチになんて自分のあんな姿見せられないよ―――!
「………」
 顔を真っ赤にして否定する好紀をまじまじと見たイチは、やっと箸を持つ。まだ何かを言いたそうにしているが、好紀は変な空気になった部屋を変えたくて元気よく言い切った。
「いただきまーすっ、あ、ご飯冷めちゃってるからレンジ使うね」
「あ、あぁ…。…俺もやつも温めてくれるか?」
「うん、いいよ~」
 やっといつもの二人に戻り好紀はほっとした。それから二人は遅めの朝食をとった二人は、あの一件よりだいぶ打ち解けていた。
 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
 
「客に上手くできました。クミヤさんのおかげです、ありがとうございますっ」
「………」
 同伴で呼ばれた車内で、好紀は嬉々として客に対して吐かなかったことをクミヤに報告していた。自室に戻ってから吐いたので、嘘は言っていない。時刻は20時。夜の繁華街を静かに車は駆けていく。移り変わる風景と、クミヤの美貌は妙にマッチしていた。
 クミヤは、軽く頷いてくれた。初めは好紀の言葉を全て無視していたが、近頃、言葉は少なくとも反応はしてくれるようになった。好紀の健気な独り言は、少しだけ会話に近づいていく。
 運転手に聞かせる内容でないとは思ったが、ずっと一人で話していると話のタネがどうしても少なくなってしまうので、心を鬼にして客との行為を話した。
 クミヤはこちらを見ずに、たまに頷くだけだったが、聞いていると分かりテンションが上がってしまう。
 だから、ついこの間のイチの事を話してしまった。
「それで、やっとイチに誤解が解けて…」
「………イチ? ナンバー22の、イチ……?」
 クミヤが驚いたようにこちらを見た。それは珍しい反応だった。『イチ』と口にして、驚いている。―――言ってから、『イチ』という名前を出してしまったことに青ざめる。イチの事は今まで『同室の人間』としか言ってこなかった。
 イチはナンバー持ちの青の蝶ではあるが、部屋数が足りなかった理由で蝶である好紀と同室になった。それはディメントでは類を見ないことだ。イチの素行の良さ、好紀の性行為を忌み嫌うことから、特例でそうなった。
「そうなんです。イチの事知ってたんですね」
 もう言ってしまったのはしょうがない事だと思い、好紀は大きく頷く。他人に興味がない彼がイチの事を知っていたことに、好紀は驚いていた。やはりナンバー20の方になると、知名度は上がるのかもしれない。そんな事を考えている好紀に、クミヤは訝しげな目をする。そしてゆっくりと口を開く。
「……お前、青の蝶と同室だったのか」
 本当に?と、声と顔に書いてある。こんなに疑いの目を向けられるとは思わなかった。
「えっと、まぁ…。ちょうど、部屋が満室で…別に問題も起きないだろうってことで…、特例で小向様が決めて下さりまして…」 
 緊張しつつ好紀は何とか説明をした。やはり、蝶と青の蝶が同室になることは、例を見ないことなのだろう。
「………」
 事情を説明すると、クミヤは目を細めて好紀を見詰める。その強い視線に好紀はびくびくとしていた。その視線には様々なものが含まれていたが、好紀は緊張で目を瞑り下を向いていたのでそれを全て知ることはなかった。何も言わずにクミヤは好紀をただただ見つめていた。
 しばらく無言が続く。変な空気が、密室の車内で流れていた。それは、運転手が目的地に着いて車が止まり、クミヤが無言で車内から出ていき終わった。
 で、出遅れた―――!
 好紀は慌ててドアを開け外に飛び出す。ホテルの中に入っていく大きな背中に、好紀は叫んだ。
「いってらっしゃいませ!」
 彼は振り返ることもなく、ホテルの中へ消えていった。目的地に着いたのにドアを開けずに上手く見送り出来なかったことに好紀は『同伴失格だなぁ』と落ち込んだ。車内へ戻ると、運転手さんがバックミラー越しに驚いた様子で問いかける。
「キミ、同室の子が青の蝶だったんだねぇ。危なくないの?」
「え?! 危なくないですよ、同室のヤツすごくいいやつで…」
 まさか心配されるとは思わず、好紀は大きく横に首を振った。むしろ、同室が彼でよかったと思っているぐらいだ。
「……そうだったらいいんだけどね…。やっぱりディメントの青の蝶って、大抵はサディストじゃない? 私、心配になっちゃってねぇ」
 初老の運転手に言われ、そうなのだろうか、と首を傾げる。他の青の蝶はそうなのかもしれないがイチがサディストだなんて好紀にとっては信じられない。青の蝶と蝶は言うなれば『挿入する側』と『挿入される側』の立場だ。心配も無理はないかと思うが、相手は『イチ』だ。好紀にとっては、危険な可能性はゼロに近い。
「クミヤさんも心配になったんじゃないのかな。返事をするぐらい、キミの事気に入っているし…」
「…そんなまさかぁ…」
 そんな情のある人間なのだろうか、と好紀は失礼ながらも思ってしまう。クミヤさんが、俺を心配―――?そんな都合のいい事、あるのかな―――?
 そんな事を考えながら窓を見上げると、9月の月が夜を淡く照らしていた。
 

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