エンドルフィンと隠し事

元森

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11 お母さん

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◇◇◇◇
 
 こんなに母の手はか弱く、白く、細かっただろうか。好紀は母の姿を見て、そんな事を考えていた。
「好紀、よく来たね…」
 久しぶりに見た母の姿は、前とは変わっているような気がした。好紀に話しかける姿は頼りなく、強く身体を掴めば身体からポキッと折れてしまいそうだ。夏の暑さで噴き出ている汗が、母が生きている事を証明していた。
 ボロボロのアパートに住む母は、最近退院したばかりだ。
 この間病院から母が倒れたと聞き、飛んで帰ったのを未だに昨日のように好紀は覚えている。あの時程、生きている心地がしなかったことはなかった。
 病弱な母は、入退院を繰り返す日々を送っていた。黒髪で細身の一つ結びをした彼女は、50歳に近いが、美しい顔立ちをしていた。幸が薄そうだけどお前の母ちゃん美人だよなぁ―――…そんなことを友人である大林が言っていた事を好紀は思い出す。
 母に似ていると散々言われてきた顔で好紀は明るく微笑む。
「母さん、元気そうでよかったよ」
「…好紀に迷惑かけられないからね」
 哀しそうに笑う母に、心臓が痛む。好紀は早くなる心臓を抑え、目的である封筒を渡した。
「これ、今月分のお金。あとこれ、ホットケーキ作ったからよかったら食べて」
 好紀は持っていた封筒と、紙でできた箱を渡す。
「……」
 母にその封筒を渡す時、彼女はいつも一瞬驚き、また悲しそうな表情になる。そして小枝のような小さな手で厚みのある封筒を持つと、大切な宝物を持つようにぎゅうっと両手で握りしめた。そっと中身を見ると目を見開き、目を逸らす。
「…こんな大金…それにホットケーキまで…」
 母の声に合わせるように、近くにいる蝉がジジッと鳴いた。今にも死にそうな鳴き声だった。
「ホントはもうちょっと稼げたんだけど、ごめんね。これだけだけど…入院費とか、いろいろ入ってるから」
 ―――もう少し、もう少し自分が我慢出来れば、もっと母を楽にさせられる。こんなアパートじゃなくて、大きくて綺麗なマンションにも住まわせてあげられる。全ての不安を取り除いてあげられる。
 昨日の夜、お金を数えていて好紀は強く思った。
「そんなことないわ…」
 母は好紀の言葉に、首を振る。小さく目を細めた母は、くしゃりと顔を歪ませた。
「…いつも、本当に本当に…ありがとう…、でも、わざわざ来なくても大丈夫なのよ…。いつも振り込みでいいっていっているのに…」
「ここからだとATM遠いでしょ? 毎回言ってるじゃん、母さんの様子も見たいから手渡しでって」
 ね?―――そう微笑むと、母はいつも悲しそうな顔をする。迷惑をかけている、と思っているのだろう。そんな事、ないのに。
 母は身体が弱く、現状働けない身体だ。好紀は毎月、手渡しでお金を渡している。アパート代と、生活費―――毎月20万程。母の場合は入院費もかかり、普通の一人暮らしの女性よりもお金がかかる。だから、もっとお金を渡したいというのが好紀の願いだった。
 だがそうするには、好紀はナンバー持ちぐらいにならなければいけない。だがそれには、好紀が「下手くそ」から卒業しなくてはいけないのだ。
「じゃあこれからちょっと仕事があるから、もう行くね」
 母が取り敢えずは元気そうだったことを確認したので、もう用事は終わった。―――だから自分はここから離れなければいけない。
 好紀はまた笑顔で嘘を吐く。
 もっと母と過ごしたいが顔を見ていると全ての事を吐き出したくなる。これ以上悲しそうな母を見ていると罪悪感で狂いそうになる。
「…仕事、頑張ってね」
 玄関先で、母が子供の頃と変わらない笑みを浮かべる。それは一人息子の身体を案じている感情も含まれているものだった。その表情を見て、好紀の胸が、針で刺されたようにチリッと痛んだ。
「…うん」
 好紀は笑って頷いた。さらに胸がチクチクと痛む。それに気づかないフリをしてドアをゆっくりと閉める。ガチャン、と鳴り響くドアが妙に遠く感じた。段々と会うたびに確実に小さくなる母の姿は、好紀の心を確実に蝕んでいく。もしかしたら、今すぐに母が死んでしまうのではないか。そんな子供の頃からの不安が頭によぎる。
 人はいずれ死ぬ運命にある。
 だが母はまだ死ぬには若い。身体が弱くなければ、あと2、30年は生きられるだろう。
「嫌だ…」
 アパートの階段を下りながら好紀は唇を噛み締め低く呻く。どうして頑張っている母ばかりが病弱で、生きるのを申し訳なさそうにしていなくちゃいけないんだろう。ディメントには、もっといなくなった方がいい人はたくさんいるのに。
 どうして、どうして母さんばかり―――。
 弱いものが淘汰され、強いものが上に駆け上がっていく世界。それがこの弱肉強食の世界だとは分かっている。だが、例えようもない怒りの感情が好紀を満たす。
 カンカンカンカン…、鉄で出来た急な階段を降りる音が好紀を囃すように鳴り響く。
 ―――…仕事、頑張ってね―――
 母の自分への言葉を思い出し、手を握りしめる。
「母さん…待っててね」
 ―――仕事、頑張らなきゃ…
 好紀の頭の中で、母の言葉が反芻し、決意を新たに固めた。アパートの前には蝉が1匹死んでいた。
 
◇◇◇◇
 
 
 今日は『技術指導』から初めてのクミヤとの同伴の日だった。
 あんな事があったとしても、クミヤの態度は変わらない。いつも通りの無表情とも仏頂面とも言える顔で、好紀に目で『早く乗れ』と指示を出す。好紀は車に乗り込むと、運転手の目線を感じていた。運転手はあの会話を聞いていた。少なからずどうなったのか行く末が知りたいのかもしれない。
 だが運転手に話すわけにはいかないので、好紀は毎度同じように「独り言」をしていた。
 ―――「技術指導」の時にはあんなにぼろくそに言ってたくせに、だんまりかよ―――。
 もしかしてあれは全部夢だったのか、そう好紀が思う程、クミヤは無表情で無反応を貫いていた。
 そろそろ「独り言」のレパートリーが尽きてきた。もしかしたら、自分はバラエティー番組に出る芸人より上手く話せているのではないか。そんな事を考えていないとやっていられない。何とかうんともすんとも言わないクミヤをホテルまで届けることが出来た。
 だがほっとした好紀に、新たな刺客が現れた。
「…結局クミヤさんとはどうなったんだい?」
 好紀を送り届けてくれる途中で運転手に聞かれ、思わず飲んでいた飲み物を噴き出しそうになる。
「えっ?! いや~。あはは…」
 話が得意な好紀だったが、予想外の事には未だに慣れない。好紀はなんとか誤魔化そうと言葉を探したが、上手い話が思いつかなかった。しばらく間が空いたところで、運転手が声をあげる。
「言いたくないならいいんだけど…」
 ミラーをちらりと見た運転手は、頭を掻いてそう言った。ガッカリした様子の表情は、胸が痛む。好紀は覚悟を決め、軽い調子で言うことにする。
「…えっと言いたくないって言うか、あんまり期待するほど面白くないですよ。指導はされたんですけど、下手くそって一蹴されちゃいましたし」
「ええっ、ホントにしたんだ?!」
「え?」
 運転手の大きく唸った言葉に、好紀は目を見開く。
「あれってクミヤさんの質の悪い冗談じゃなかったんだ…いや~…コウくんキミ凄いね。今までギブアップしてきた元同伴の子たちより全然気に入られてるよ」
「そ、そうですかね…?」
 大きく頷く運転手に、好紀はそうなのだろうか?と思考を巡らせる。本当に気に入られているのだったら、もっと話すのではないか?と好紀は不思議になった。
「そうだよ! もっと自信持ちなって。こんなに一人の同伴が続くのなんて初めてだし、っていうか、こんな僕もまだ1年しかクミヤさんの専属やってないけどね。前の運転手もギブアップして僕にバトンタッチしたわけだから、≪潰しのクミヤ≫って異名は健在だよね」
 運転手は右にカーブしつつ、大きく頷いた。好紀は移り変わる窓の景色をぼんやりと見つめ呟く。
「つぶしの、クミヤ…」
 「潰しのクミヤ」―――好紀は思わずその言葉を反芻し呟いた。本人にとってそんな異名は不名誉に他ならないだろう。だがクミヤはそんな言葉なんて気にも留めていなさそうだ。運転手も変わっているのか――と好紀は考える。この運転手の運転はスムーズで、変な話もしない。クミヤが専属にするのも分かる気がした。
「応援してるから頑張ってね」
 運転手は励ましの言葉を贈ってくれた。それはこの仕事をしていて久しぶりに聞いた労りの言葉だった。それは好紀の心に明るい火を灯してくれる。
「はいっ」
 好紀は大きく頷いた。その笑みは明るいもので、運転手も思わず笑みが零れる。また彼も明るい好紀に元気を貰い、車を走らせたのだった。

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