アドレナリンと感覚麻酔

元森

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第二章 第七話

68 開かない缶

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 ここを穏便に済ますには、どうすればいいのか、まったく聖月には分からなかった。
 一番いいのは、橘がすばやくここを離れてくれることだ。だが、それはかなり難しいだろう。橘を説得しようにも、時間がない。聖月が一緒に橘を違うところに連れて行く――それが一番今の聖月にできることだ。だが、そのあとはどうすればいいのだろう。
 そう真っ白な脳内で考えていたら、あることに気づいた。
 十夜にその姿を見られたら、そこで終わり―――…。
 聖月は、そのことに気づいて呆然とする。
「スタイルよかったね。顔はよく見えなかったけど…かなりの上玉だろう?」
 橘は、聖月の顔に近づき囁くように言う。聖月は、一気に奈落に落とされた気がした。
 身体はガタガタと震えがとまらない。それが、寒さのせいではないと聖月は知っていた。
「ち…違うんです……彼は…」
 声は、震えていた。
 目の前の男が、禍々しいものに見える。怖くて仕方がなかった。
「だったらセイの友達?」
 自分が墓穴を掘ったことに気づいた。だが、聖月には早くここから橘をいなくなさせることが最優先だ。
「さ…サービスします……だから…」
 喉の奥から、やっとのことで言葉をひりだした。橘は聖月を見て、一瞬驚いたあと、顔を破顔させた。
「それじゃあ、さっきのは友達だと認めているものじゃないか」
 橘は、期待している表情だった。この状況を、心から愉しんでいた。聖月が、何をすれば嫌がるのかを知っていた。聖月はそれを分かっていて、この言葉を言ったのだ。こうするしかないと、思った。
 聖月は、縋るような視線で橘に懇願した。
「お願いします…早くここから離れて…」
 聖月は震えながら言う。早くしないと、十夜が帰ってきてしまう。こんなところを見られたら、全てが終わってしまう。
 その一心で聖月は、橘を見詰めた。橘は、嗜虐の瞳でこちらを見ている。聖月はそのことにゾッとしながらも、橘に縋る。
「セイのこんな必死な姿始めてみたよ。珍しいものが見れたし、ご希望通りに消えてあげよう」
 聖月はその言葉を聞いて、胸を撫で下ろした。
 だが、橘がそれだけで許す男ではないということを知っていた。
「じゃあ、いっぱいサービスしてもらおうかな。次が楽しみだ。NG要項も許してくれるんだよね? …あ、ほらお友達が戻ってきたみたい。―――私は、ここで失礼するよ」
 そういって、橘は去っていた。
 聖月は、ぎょっとして周りを見渡した。すると橘の言う通り十夜の姿が見えた。
 心臓が早くなり、どっと汗が吹き出る。ここで、今何十秒か十夜が早く来ていたら橘と鉢合わせだったはずだ。その事実に、衝撃を受けながら聖月は呆然と十夜がこちらに向かって歩いているのを見詰めた。その手には、二つのペットボトルが見える。
 十夜は聖月の姿を確認すると、走ってきた。
「ごめん。遅くなった。はい紅茶」
「あ…あり、がとう…」
 十夜は、笑顔で紅茶を渡してくれる。紅茶は温かかった。
 聖月は慌てて真ん中にずれていた体を、十夜が座れるようにずらした。十夜は、隣に座って一息ついている。
 聖月は、顔が見れずに俯いた。橘の言葉がぐるぐると回っていたし、最悪の事態が免れてほっとしたと共に、十夜に対しての罪悪感が増した。自分が騙していることを、また自覚させられた。
 十夜はキャップをあけると、入っていた紅茶を飲んでいた。
「うーん、うまい」
 十夜は、一言感想を言ってキャップを閉めている。
「あ…お金…」
 はっとした聖月が財布をバックから取り出そうとすると、十夜が制止する。
「俺のおごり。だから、払わないでいいって」
「え…? あ…ありがとう…」
 十夜の優しさが、心に染みて痛い。聖月は、お礼を言ってバックのチャックを閉めた。
 もう外は真っ暗で、外灯がつけ始めている。聖月は、ペットボトルを開けようとしたが手が震えてあけられないことに気づいた。あとから、先ほどの出来事の大きさを思い知らされる。十夜があけられないことに気づいて、聖月に促す。
「どうした? あけられねぇの? 貸せって」
「…ありがとう」 
 十夜に貸すと、すぐにそれはあいた。――かなりあっけなく。
 そのあっさりさに、十夜は笑っていた。
「おいおい、硬くなかったぞ? だいじょうぶか?」
「うん…。たぶん、汗ですべってたんだと思う」
「あーそういう時あるよな」
 十夜は聖月の嘘に頷いていた。本当は震えて、開かなかっただけだ。
 開けてもらった紅茶を受け取って、聖月はそのまま喉に飲み込んだ。紅茶の甘い香りと、味と温かさに身体が休まる。
「おいし…」
 呟くように言うと、十夜も「うまいよな」と同調する。しばらくの間2人は飲み物を飲んでいて静かだったが、十夜がそれを破る。
「さっき誰かと話してた?」
「…っ」
 思わずペットボトルの紅茶を噴出しそうになって、それを堪える。だが紅茶がどこかの器官に入って、げほげほとむせてしまう。鼻の奥がツンとする痛みがきて、聖月は咳き込んだ。聖月の様子に、十夜は背中をさすって心配してくれていた。
「おい、だいじょーぶか?!」
「う、うん。平気…ちょっと咳き込んだだけだし…」
 濡れた唇を拭い、息を整える。
 見られていた、という現実に頭がついていかない。十夜はしばらくたってから、言葉を続けた。
「…俺の見間違いかもしれないけど、おっさんに声かけられてなかったか?」
 そこまで見られていたのか、と密かに衝撃を受ける。だけれど聖月は、この動揺を知られてはいけないので、平常心を心がけていた。
 聖月は、震えそうになりながらも、無表情で答えた。
「いや…ただの酔っ払いのおっさんに絡まれてただけ」
 完全な嘘だ。嘘っぱち野朗、と自分自身に聖月は悪態をついた。
「へえ。そりゃ、メンドーなことになったな。何もされなかった?」
 十夜はそういって、肩に手を回す。十夜の香りは、何もかもがどうでもよくなってくる。そういう、あまったるい香りだ。それを感じながら、聖月は嘘を見抜かれないように出来るだけ無表情で言った。こんな時でも優しい十夜が今は辛い。
「別に…平気」
「それならいいけど。なんかあったら、助け呼べよ?」
 外が暗くてよかった、と心底感じた。今の表情を見られたら、十夜に心配されるに決まっている。
「平気だって。俺、そういうの避けて生きてるし」
 聖月は、いつも通りの自分を心がけて言葉を言う。『そういうの』を避けれて生きれたら、どれだけ生きやすかったのだろうか。
「まあ、そーだよなぁ」
 十夜はゲラゲラと、声をたてて笑った。聖月も、それにつられて笑った。
 こうやって、十夜や友達や兄弟に素知らぬふりをして嘘をついていかなければいけない。そう考えると、自分がやっていることの恐ろしさが聖月には染みる。十夜のこの温かさも全て自分は、騙して手にしているようなものだろう。
 自分の居場所を守りたくて、こうやって嘘をつき続けているのだから騙しているのと同じようなものだ。
「…そういえば、話って?」
 十夜に聞くと、彼は顔をしかめた。そして、十夜は小さく口を動かす。
「あー…話そうと思ったけど、やめた。今度にするわ」
「え? なんだそれ」
 あっけからんに言われて、聖月は目を丸くした。結局十夜は、何をいうつもりだったのだろうか。
「まあいーじゃん。今度でも。それよりさ、お前このごろ大丈夫か?」
「大丈夫って?」
 無理やり話を変えられた気がするが、聖月は言われた言葉を反芻してしまう。何がどう「大丈夫か?」なんだろうと思ってしまう。そんな疑問に十夜は、答える。
「だから、このごろ聖月なんか疲れてるように見えるからさ。別に課題だされたってわけじゃねぇだろ?」
「……え?」
 ――疲れている?
 言われた言葉を反芻して、やっと聖月は理解できた。
「俺…そんな、疲れてるように見える?」
 問えば、十夜は肩を回している手に力を入れ、聖月と目をあわせて言い放った。
「あぁ。顔、真っ青」
「………」
 十夜の目は、本当だと知らせてくれた。聖月は、恐る恐る顔に手をやった。だが、触った顔はいつもと同じように感じられた。確かに、この頃は様々なことがあった。小田桐きり(おだぎり きり)という同じ大学生の、ディメントで働いている女性と友人になったり、ケイと一緒に如何わしい映像に映ったり――…。
 特に、ケイのアレは精神的にもダメージを受けた。ケイの媚態にクラクラしたし、結果的にケイを怒らせ絶交寸前まで聖月との関係は悪化することになってしまった。なんとか許してもらえたが、口をきいてもらえない日々はかなり堪えた。
 そういう意味では、この頃は最低な日々を送ったから、十夜が疲れているのかと聞くほどやつれているのはあたりまえなような気がする。
「…うーん…この頃結構疲れてるから…」
「休めるときに休んだほうがいいぞ」
 聖月は十夜の言葉に曖昧に頷く。
「休んでるんだけどね…」
 ディメントの仕事は最近はやっていないので、身体は休まっているはずだ。なのに、十夜が指摘するほど疲れているように見えるのは、もう精神的にまいっている証拠なのかもしれない。聖月は、ため息をついて紅茶を口に含んだ。
 紅茶とともにこんな気持ちが流れてしまえばいいと思いながら、聖月は紅茶を嚥下した。
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