アドレナリンと感覚麻酔

元森

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第一章

第三話 30 蒼の部屋

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 どうやら、蒼の話を聞く限り彼の今住んでいる部屋は3階にあるらしい。今の5階から、2階下がったところに蒼の部屋があるみたいだ。
 ケイの部屋は蒼の部屋の5つ先――つまりは逆方向にあるということだった。
 初めは蒼とケイは隣同士だったが、入居者数が増えたり減ったりして結局は今の部屋の位置に落ち着いたと蒼はいった。昔は隣同士でよく遊んだそうだが、今ではかなり離れている場所にあるためか二人は会う機会が減ったという。だが、それも昔よりはという意味らしく今でも結構な頻度で会っているという。
 それに朝食でも嫌でも会うのだから、隣同士でなくなってよかったと蒼は笑った。ケイは蒼の部屋に、入り浸る癖があったそうだ。
 だからこのぐらいが蒼にとってはちょうどいいらしい。ケイはそれでは満足できなそうだがなと、また蒼は笑う。
 初め聖月の部屋が知りたいと、蒼は言っていたがその部屋が5階にあると知るととたんに表情が驚いたものになった。
 ついでに小向の部屋の隣だと付け加えていうと、ますます蒼の表情は険しいものになる。不愉快そうに、眉を顰めて嘘だろという視線を聖月に送っていた。
 まるで聖月の言葉を信じていないようだ。
 蒼は何度も本当かと、聖月に確認をしていた。何回も何回もしつこく聞いてくるので、聖月は鬱陶しく思えて本当だよと聞かれるたびに言い返した。その聖月のイラつきの声は、何度も聞かれるうちに大声になっていった。
 そんな聖月の様子にやっと信じてくれたのか、10回ほど確認したのち蒼はその質問を止めた。そんなに小向の隣の部屋は、おかしいのだろうか。聖月は神山に初めて会った時のあの表情が、フラッシュバックする。
 あの時の神山のように、蒼は聖月のことを訝しんでいた。まったくあの時の神山の顔と今の蒼の表情は、一緒であった。蒼の表情には今はもう曇りはないが、聖月の心にはもやもやとした言いつくせない感情が渦巻いていた。
 蒼がくれるといっていた食料である『おかし』を貰うため、聖月たち2人は廊下を歩いていた。目的地は蒼の部屋のある、3階だ。蒼の部屋には冷蔵庫があって、そこにアイスやらおかしが入っているらしい。
 移り変わる廊下の窓からは、真夏の暑い太陽が聖月と蒼を照らしている。室内に居る聖月でも熱いのなら、外はもっと熱いことだろう。
 窓から見えるのは、緑豊かな森と遊び場だけであとは、青い澄み切った空だけだ。この施設は大きいのだなと聖月は改めて実感する。聖月が窓の外の世界に視線を移していたころ、蒼が聖月に話しかけてくる。
 その声音は、穏やかであるがどこか不穏な空気を孕んでいた。
「本当に聖月の部屋って小向の隣なんだよな」
「うん、だからそういってんじゃん」
 蒼はいつのまにか、聖月のことを呼び捨てにしていた。
 十夜でも会ってしばらくは聖月のことを、くん呼びしていた。衛も、呼び捨てではなく彼が勝手に作った愛称だったためか、蒼の急な呼び捨てに聖月はどこか違和感があった。ケイだって呼び捨てに呼ぶのに、聖月の了解をとってからだったのでなおさらだ。
 別に突然呼び捨てにしても平気な人もいるだろうが、聖月は慣れてないのでそうはいかない。蒼が呼び捨てに呼ぶのにはいちいち考えてないことは分かるが、聖月の心臓には悪い。彼はきっと初めに会った人にでも呼び捨てで、普通に話しかけるタイプなのだろう。
「へえ…あいつがねえ…まあ…お気に入りっぽいし…ますます気になるなあ」
 ぼそっと蒼が何事かをいったが、聖月の耳には届かなかった。あまりにも小声で、聖月は聞き取れなかったのだ。聖月は、隣でゆっくりと長い脚を持て余して歩いている蒼を見ながら聞き返した。
「何か、今いった?」
「いんや、言ってない。あ…俺の部屋に着いたぞ、聖月」
 蒼は聖月が問うたことを誤魔化した。こういう言い草をして教えてもらったことは、聖月の経験上なかった。もう蒼は、今いった発言を聖月に教えてくれやしないだろう。蒼ははぐらかすようにしていうと、ある一室の前に止まった。
 しばらく廊下を歩き続けて階段を降りていたら、もう目的地に着いたらしかった。ドアも周りの壁の様子も聖月の部屋と同じ造りになっている。
 小向の部屋の隣には何かプレミヤがついているかもと、聖月は神山と蒼の様子から窺っていたがどうやら違うらしい。とんだ見当外れだ。これであの神山と蒼の表情の意味が分かるかもと聖月は思っていたが、どうやら簡単には神様はその理由を教えてくれやしないみたいだ。
 蒼がドアノブに手をかけて、ゆっくりと回した。カギはかけていないらしい。少し防犯的に危ない気がする。ドアが開くと、やはり聖月と同じような蒼の部屋が出迎えてくれた。
「はい、どーぞ」
「お、おじゃまします…」
 聖月は緊張な面持ちで、蒼の部屋に入った。まだ施設に入ってから日が浅く、聖月は他の人の部屋に入ったことがなかった。―――つまりこれが初めてなのだ。
 おずおずと蒼の導かれるままに招かれると、聖月はまじまじと彼の部屋を観察してしまう。
 じろじろと部屋の様子を見てしまうのは相手に失礼だと分かっていても、見るのを聖月は止められなかった。蒼は必要以上に物を置かない主義のようだ。家具がシンプルにとても綺麗に配置されていた。
 まだ引っ越ししてきたばかりなのに、もう汚くしている聖月の部屋とは大違いだ。これは彼を尊敬したほうがいいのかもしれない。
 蒼は聖月とは違い、几帳面な一面があるのかもしれない。見た感じだと、少しも埃や使い終わったティッシュなどのゴミなどはこの蒼の部屋からは見つからない。潔癖症とはいかなくても、綺麗好きなところがあるようだった。
 ガラステーブルに、冷蔵庫、ベット、本棚、ラックケース、テレビ……ざっと見渡してもそれぐらいしか家具という家具は見つからない。まったくもってこの部屋には娯楽道具がない。ゲーム機なんてものは蒼の部屋には、存在していないのかもしれない。
 シックで落ち着いた色をした家具たちは、蒼の趣味が垣間見えている。目立った色が、この部屋にはないのだ。いわゆる、赤や黄色、緑、紫…そのような明るい色は家具には一切含まれていなかった。
 ぼんやりと聖月は蒼の部屋の真ん中で立っていると、蒼が冷蔵庫を開けて中を吟味していた。
「チョコレートがあるけど、それでいい? あー…賞味期限は…大丈夫か…」
 そう蒼は言いながら聖月に、板チョコレートを投げつけてきた。それを聖月は落とそうとしそうになりながらも、すばやくキャッチした。
「ありがとうっ」
 聖月はやっと食といえるものに在りつけて、じんわりと心が満たされたものになっていった。ずっと食料というものを探していたのだ。お腹はもうペコペコで、お腹が空きすぎていてお腹が痛い状況である。
 包み紙で包まれていてもチョコレートの芳醇な甘い香りが、聖月の鼻を刺激する。ついまた涎が垂れそうになり咄嗟に口を押さえた。案の定聖月の口の端からは、甘い香りに誘われて出てきてしまった涎が垂れてしまっている。聖月は急いでそれを啜ると、涎を隠すようにして口元を拭った。
 聖月は急いで腹を満たすために包み紙をぞんざいにびりびりと破く。
 チョコレートが出てくるやいなや、聖月は勢いよくかぶりつく。甘い誘いに反応した聖月の手の動きはいつも以上にすばやかった。その素早さは、きっと聖月の人生のなかでも1、2位を争うぐらい早かった。
 口のなかにチョコレートの甘くて苦い独特の味が広がって、聖月は表情を綻ばせた。
 とっても、美味しい。
 こんなにもチョコレートが美味しいと思ったことはない。もともと美味しいものではあったが、お腹を空かせているときに食べるとより一層に美味な食べ物に感じられた。
 腹が空いているときに甘いものを食べるという話は、本当だったようだ。糖分が頭のなかを駆け回って、先ほどよりも頭が休まっているし、どこか冴えわたってすっきりとした気分になる。己の欲望を満たすために、聖月は怪獣が獲物を食らうようにどんどんとチョコレートを食べ進める。その食いざまがすさまじいのか蒼は聖月を、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で見詰めていた。
 驚きで、蒼は目を瞬かせている。
 ものの数十秒で聖月が食べ終わるころには、蒼は強張った表情をしていた。表情筋がピクピクと痙攣して、信じられないような表情で聖月のことを見ている。
「はあ…よくそんなに食べられるな。それも一発で…まぁ昨日から食べていないなら、仕方ないか…」
 ため息まじりの言葉に、聖月は頷いた。
「すっごい、うまかった。ありがとう。なんかもっとない?」
 聖月がチョコレートのついた指を舐めて問うた質問に、蒼はまた面倒そうにため息をつく。自分でも、ちょっとずうずうしいのではないかとも思うが、欲求には耐えられそうになかった。
 聖月は昨日の昼から何も食べていないのだ。まだまだ足りない。冷蔵庫の扉を開け、何かを取り出した蒼は聖月にそれを突き出して大口を開けて言った。
「じゃあ、これを食べてくれ。買いすぎて余ってたんだよ」
 蒼が聖月の目の前に突きだしたそれは、ビニール袋いっぱいに入った白いお饅頭だった。
 


◇◇◇◇◇◇
 
  二人は今ガラステーブルの前に隣同士座って雑談をしていた。
 ガラステーブルの上には、蒼が用意してくれたさまざまな種類のお菓子が置いてある。これはこの部屋にある限りの食料を、かき集めた結果だった。何もない様に見えたこの蒼の部屋には色々なものがあった。
 ゲーム機も、ラックのなかに入っていたし――といってもかなり年代が古くもう10年も前の何世代前の代物だった。その小さいころに買ったもの以外、ゲーム機を蒼は持っていないらしい。
 座っている背中越しにはベットがある。蒼は自身の白い清潔なベットに寄りかかって、眠そうに欠伸をしている。
 時刻を確認すると、お昼を過ぎている時間だった。隣で眠たそうにしている蒼をまじまじと見ると、よく精悍な顔立ちが周りの落ち着いた色でまとめられた部屋により際立って見える。
 艶やかな黒髪が、聖月と比べたらおこがましいぐらいに綺麗で美しい。スタイルもいいし、蒼はモデルをやっていてもなんら遜色はない美しさだろう。


「え、蒼ってT高校だったんだ!」
「ああ、そうだけど」
 聖月は蒼の言葉に、目を見開かせた。
「頭すごいよかったんだ」
「そこそこじゃねえの?」
「そ…そ、こそこ……」
 聖月は蒼の言葉に何も言うことが見つからず、目線をうろうろと動かした。聖月は白いあんこが入っているお饅頭を食べながら、横に居る蒼をぼんやりと見詰めていた。聖月の観察するような視線に気づいたのか、蒼が顔をこちらに向けてきた。
  ―――T高校というのは、聖月が住んでいる所からだいたい1時間ほど電車で離れてる名門校だ。
 聖月の兄である清十郎の母校でもあった。ここ一帯の地域では一番偏差値が高い公立で、倍率がとても高いところでも有名だった。
 多くの著名人、政治家、研究者…偉大な人物だって出している、歴史ある伝統校だ。文化祭ではかなりの入場者が来校する、人気校でもあった。進学校でたしか偏差値が聖月がとうてい及ばないような、70を超えていた記憶がある。
 県内でもトップ校なのにそれを蒼は『まあまあ』だと言っている。謙遜かもしれないが、言い方が本当に思っているような言いようだ。
 やはり、十夜と同じようにこの聖月の隣に居る端正な風貌な蒼は、どこかしら普通の人と変わっていた。
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