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7 イズとあーちゃん
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明日の席は空いていた樹の後ろの席に座ることになった。だが、樹は話しかけられなかった。綺麗すぎて、なんと声をかけたらいいのか分からなかったからだ。
休み時間で、女子に話しかけられていたが、彼は声をあげることはなかった。きっと、日本語の意味が分からなかったのだろう。女子たちは落胆し、男子たちも、声をかけることはなかった。男子たちにとっては、むしろ気に喰わない存在だったのかもしれない。
綺麗すぎる容姿は、子供たちにとって脅威に思う程だった。海外からやってきた見慣れぬ西洋風の容姿と、話せないという言葉の壁は大きかった。結局、学校にいる時彼は笑顔を見せることもなく放課後を迎えることになった。明日こそ話しかけようと思いながら樹は校庭から校門の向かう道を歩いていた。だが校庭にある草の茂みの所で小さな悲鳴が聞こえ、思わずそちらへ足を向けた。走って3人の人影が見えた場所に向かうと、転校生とクラスの男子2人がいた。
『おい、なんか喋れよガイジン!』
『黙ってないでよぉ~!』
明日を囲って罵声を浴びせている現場を目撃して、樹は子供ながらに正義感が湧いた。明日が震えていて今にも泣きそうだったのも、介入する後押しになった。
『おいやめろよ!』
樹は明日を守るため、黒いランドセルを勢いよく投げ捨て2人の前に両手を広げ立ち塞がる。二人はこのクラスのお調子者で、風のようにやってきた樹の顔を見ると顔を真っ赤にした。近くにはランドセルが3つ置いてあり、今から何をしようとしているか子供ながらに分かった。
樹はその頃クラスでは友達が多く目の前の二人もよく遊ぶ二人だった。『樹かばうのかよ』『気味悪いじゃんソイツ』と、2人は口々に言った。少しバツが悪そうな顔をして、2人は樹を見る。
『よわいものいじめはよくないだろ』
はっきり言う樹に、丸刈りのお調子者が言った。
『なんだよ、馬鹿樹っ今度からあそんでやんねぇよ』
『いいよべつに。いじめるやつとあそびたくないもん』
頑なな樹に、うっとすごみ、2人はふ—んだ!と傍に置いてあったランドセルを持って叫び去っていった。今思えば、あの二人は明日の事が気になったからこんなことをしたのではないかと思う。つい苛める程に構ってしまいたくなる程の魅力が、明日にはあったから。
転校生は、先程自分をいじめていた2人がいなくなったことに、驚いている様子だった。樹は自分より小さい、外国の血を引く少年がみるみると泣き出しそうになるところを見て慌てた。手をぎゅっと握り、堪えていた思いが涙となって明日の感情を表していた。
大泣きする明日に、樹はどうしていいのか分からず、ただ見守ることしか出来なかった。座り込んで顔を隠し泣き続ける明日と同じように樹も隣に座った。草むらの雑草が足に刺さっている感触がした。まだまだ泣き止まない明日に、樹は両親から習っている英語でたどたどしく『大丈夫?』と問うた。すると明日は涙と鼻水でグチャグチャになった顔でこちらを見据えた。
淡い目蒼い瞳をした少年の目は綺麗で、心臓がドクドクと早鐘を打つ。自分と肌の色も、髪の色も、脚の長さも何もかもが違う明日に樹は目が離せないでいた。
『なんで、喋れるの?』
初めて聞いた明日の英語は、あまりに綺麗で。樹は思わずのけ反った。涙と鼻水で濡れた明日の問いは、純粋なものだった。
「え?」
『ここの言葉…ぜんぜん分かんなくて…、さっきもよく分かんないまま連れられて……なんか言われてることだけは分かって、こわかっ…た…』
グスグスと大きな目に涙を浮かべて、すすり泣き出してしまったので樹は背中を触った。初めて来た国で、知らない場所で、知らない言葉であんな風に言われたら誰だって怖いだろう。華奢な身体の背中は自分のよりも小さく思えた。庇護欲が湧き樹は『そうだったんだ…』と背中を擦る。
それでも泣き止まない彼に樹は、どうにかして守ってやらなければと思った。朝毎週放送している大好きな戦隊ヒ—ロ—が『弱いものは救うのが男だ!』と言っていた言葉を思い出し、樹は思い切り明日に向かって叫んだ。お姫様を助けるのが、王子さまだってかあちゃんも言っていた。
『おれが教えてあげるよ、日本語!』
『…え?』
明日の可愛らしい口があんぐりと開いていた。『へたかもしれないけど…』というと、明日は樹に抱き着いてきた。突然のことにこの時樹は『これが外国人のスキンシップ…!』なんて緊張感もないことを思っていた。
「あ、あり、がと!」
たどたどしい日本語で、微笑む明日の顔から目が離せなかった。ずっと泣いていた顔から、笑顔に変わるのは小学生の樹にとっては衝撃的だった。
———その時から、俺はずっと明日に恋をしているのかもしれない。
その後、2人は一緒にランドセルを背負って家路を歩く。
『なんて名前なの?』
『え? せや いつき だよ』
顔を覗き込まれて問われて、樹は慌てて答えた。夕焼けに染まる明日の横顔は綺麗だった。
『イズ?』
『え? ちがうよ? イツキ!』
樹が言いづらいのか、明日は『イズ』と言った。樹がムキになって叫ぶと、明日はクスクスと楽しそうに笑っていた。明日に『じゃあ、イズって呼ぶね。イツキ』と言われて、あまりに楽しそうだったので文句も言えなかった。樹も少し悩んでから『俺はあ—ちゃんって呼ぼうかな』と言うと、「あ—ちゃ…ん?」と反芻された。
『日本だと『ちゃん』付けで友達のこと呼ぶから』
樹が顔を赤らめていうと、明日は顔をぎゅっと嬉しそうにし『うん! あ—…ちゃん?って呼んで!』と頷いてくれた。不思議と帰る道が同じなので、訝し気にいると家が2、3軒しか離れていない程近いということが判明した。その日から2人は登校と下校を共にすることになった。
その日の夜、明日の家族が揃って挨拶に来てくれた。明日の両親と兄は皆美形で驚いた。両親はハンサムと美人な二人だったが、明日の兄は彼と同じように外国の血を受け色素が薄く彫りが深かった。子供ながらに遺伝ってどういうことなんだろう、なんて思った。
その後、明日の家に呼ばれて、二つの家の交流が始まった。明日の綺麗なお母さんが作ってくれたグラタンがとても美味しかった事をよく覚えている。五十嵐家と瀬谷家は両親が意気投合し、家族ぐるみで仲良くなった。それから二人の日本語レッスンが始まった。樹のせいぜい中学生レベルの英語で日本語を教えるのは大変だったけど、たまにお母さんやお父さんが手伝ってくれて、徐々に明日は英語を覚えていった。
そうして1年がたった小学生3年生ごろには、明日はクラスの子と日常会話を出来るようになっていた。日本語を覚えて、皆の輪の中に入る明日は、すごくきらきらと輝いていた。初めは異物として扱っていた皆も、その頃には慣れて普通にクラスの一員として明日と遊んでいた。綺麗な容姿の明日は、人気者だった。繊細そうな容姿と裏腹に、明日はスキンシップが激しく、音楽と喋ることが好きなやんちゃな男の子だった。女子からはそんなギャップよかったのだろう。
学校内でも相当モテていたが、たまに明日を目当てに他の学校から女子が待ち伏せしてた程だった。女子だけはなく、男子にも明日は人気だった。スポ—ツも出来、頭もよかったからだろう。あっという間に明日はクラスの中心人物になっていた。
樹は少し自分の友達がとられたようで寂しかったけれど、明日は相変わらず樹にべったりとくっついていたし、特に不満はなかった。だが、ある日明日が英語の歌詞を歌っている声を聞いてそれが覆された。学校の音楽の授業で歌う日本語の曲は、特に何も思わなかったのに。
小学4年生。ちょうど明日が、声変わりを迎えた時だった。声変わりの前も繊細な高い声だったが、変声期を迎えて明日の声は劇的に変化した。高い声に低さが生まれ、甘い色気のある声に生まれ変わった。
その時からだろうか。明日に会うたびに、喋るたびに、触れられるたびにドキドキしたのは。
明日の家の部屋で、好きなア—ティストを一緒に話していた時だった。明日はもっぱら洋楽を聞いていて、それは樹も同じだったが、やっぱり明日のほうがよく知っていた。明日は歌うことが好きで、テンションが上がったのか歌を歌った。その時人気のあった洋楽のラブソングだ。
その圧倒的な歌唱力と、甘い声に樹は衝撃を受けた。その頃から、明日は圧倒的な才能があったのだ。まるでプロのような歌声に、樹はすごいすごいと拍手した。明日は嬉しそうに笑っていた。少し恥ずかしそうに『そうかな?』と言った。
樹は『ミュ—ジシャンになれるよ!』とはしゃいだ。明日は、はにかみながら頭を掻いた。
————…俺が一番初めにあ—ちゃんのファンになるからね。
思わず言った言葉に、明日は瞬きを繰り返す。そして満面の笑みで『ありがとう』と樹に言った。———樹はあの頃からずっと思っていた。明日はすごい人だって。すごい奴になるんだって。
本当にそうなった今でもその想いは変わらない。明日は初めから自分の隣にいるべきじゃない存在だと分かっていた。なのに今でも、自分は明日の隣を占領してしまっている。そう思ってしまうのは、きっと勘違いでおこがましいことなのだろうけれど。
いつからだろう。明日のことを好きになっていたのは。自覚したのはあの時だろうけど、明確には分からない。きっと小さい頃からずっと、初めて会った時からずっと、樹は明日のことを想っているのだろう。ずっと傍にいた幼馴染。ずっと傍にいて、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喧嘩したりもした。明日とずっと一緒にいた。あのずっと傍にいた時は、樹のなかの世界が明日で回っていた。それは今でも変わっていないけれど。あの時は、ずっと明日と一緒にいるものだと思っていた。ずっと、一緒にいるものだと。
だけれど、明日は目の前から消えてしまった。それは忘れもしない中学1年生の夏の日。明日が泣きながら、オ—ストラリアに帰ると言ったのは。あの時の自分の部屋の温度が妙に蒸し暑くて、樹は白昼夢でも見ているのかと思った。明日が離れたくない、と泣きながら抱き着いてきた。身体に伝わる震えと、彼の学ランから見える汗に濡れた首筋が艶めかしくて。
樹にとって全部が作り話な気がした。
オ—ストラリアに、親の仕事で帰らなければならない。そう、彼は言った。樹がその時何と言ったかは、樹自身覚えていなかった。ショックすぎて、あまりそのあたりの記憶がない。ずっと一緒に居た好きな人が消えてしまう。ただそれだけが、樹の中にはあった。
明日が飛行機で日本から消えてしまった時、見送りでは泣かなかったのに、お母さんに「いっちゃったね」と言われてやっと明日が消えてしまったことの実感がやってきた。樹はどうしていいのか分からず、大声で泣いた。お母さんが抱きしめてくれて、そのぬくもりが温かく、消えてしまいそうな悲しみは少しだけ和らいだ。
『すごい歌手になってくるからね! 待ってて! 人気者になって帰ってくるからね!』
明日が泣きながら叫んでいた言葉を思い出す。自分でもどうしようもない哀しく辛い気持ちが、その言葉で消えていくような気がした。好きな人は、きっとすごい人になって帰ってくる。だから、それまで我慢すればいいんだ。待ってれば、いつか明日が日本に帰ってくる———…。
『すごい…歌手になって、帰ってきて…』
樹は、母のぬくもりを感じながらそっと呟いた。
…———きっと、きっとだよ。
その一年後、明日はオ—ストラリアで歌手デビュ—を果たした。Re:asuとしてボ—カルになったのはそのからすぐのことだった。14歳でのバンドボ—カルデビュ—。他のメンバ—は、明日の魅力に誘われた年上の人たちだとネットに書いてあった。それからデビュ—曲を発表し、その曲はヒットを飛ばすことになった。
————叶わない恋だとしても、貴方に会えたことだけが僕の生きる希望なんだ
————悲しくなんてないよ、きっと会えるから
叶うはずもない恋の歌。明日は、どんな風にこの歌詞を書いたのだろうか。
樹は、パソコンの視聴動画を聴きながら、目を閉じ一気に遠くの距離に行ってしまった想い人の顔を思い浮かべていた。
休み時間で、女子に話しかけられていたが、彼は声をあげることはなかった。きっと、日本語の意味が分からなかったのだろう。女子たちは落胆し、男子たちも、声をかけることはなかった。男子たちにとっては、むしろ気に喰わない存在だったのかもしれない。
綺麗すぎる容姿は、子供たちにとって脅威に思う程だった。海外からやってきた見慣れぬ西洋風の容姿と、話せないという言葉の壁は大きかった。結局、学校にいる時彼は笑顔を見せることもなく放課後を迎えることになった。明日こそ話しかけようと思いながら樹は校庭から校門の向かう道を歩いていた。だが校庭にある草の茂みの所で小さな悲鳴が聞こえ、思わずそちらへ足を向けた。走って3人の人影が見えた場所に向かうと、転校生とクラスの男子2人がいた。
『おい、なんか喋れよガイジン!』
『黙ってないでよぉ~!』
明日を囲って罵声を浴びせている現場を目撃して、樹は子供ながらに正義感が湧いた。明日が震えていて今にも泣きそうだったのも、介入する後押しになった。
『おいやめろよ!』
樹は明日を守るため、黒いランドセルを勢いよく投げ捨て2人の前に両手を広げ立ち塞がる。二人はこのクラスのお調子者で、風のようにやってきた樹の顔を見ると顔を真っ赤にした。近くにはランドセルが3つ置いてあり、今から何をしようとしているか子供ながらに分かった。
樹はその頃クラスでは友達が多く目の前の二人もよく遊ぶ二人だった。『樹かばうのかよ』『気味悪いじゃんソイツ』と、2人は口々に言った。少しバツが悪そうな顔をして、2人は樹を見る。
『よわいものいじめはよくないだろ』
はっきり言う樹に、丸刈りのお調子者が言った。
『なんだよ、馬鹿樹っ今度からあそんでやんねぇよ』
『いいよべつに。いじめるやつとあそびたくないもん』
頑なな樹に、うっとすごみ、2人はふ—んだ!と傍に置いてあったランドセルを持って叫び去っていった。今思えば、あの二人は明日の事が気になったからこんなことをしたのではないかと思う。つい苛める程に構ってしまいたくなる程の魅力が、明日にはあったから。
転校生は、先程自分をいじめていた2人がいなくなったことに、驚いている様子だった。樹は自分より小さい、外国の血を引く少年がみるみると泣き出しそうになるところを見て慌てた。手をぎゅっと握り、堪えていた思いが涙となって明日の感情を表していた。
大泣きする明日に、樹はどうしていいのか分からず、ただ見守ることしか出来なかった。座り込んで顔を隠し泣き続ける明日と同じように樹も隣に座った。草むらの雑草が足に刺さっている感触がした。まだまだ泣き止まない明日に、樹は両親から習っている英語でたどたどしく『大丈夫?』と問うた。すると明日は涙と鼻水でグチャグチャになった顔でこちらを見据えた。
淡い目蒼い瞳をした少年の目は綺麗で、心臓がドクドクと早鐘を打つ。自分と肌の色も、髪の色も、脚の長さも何もかもが違う明日に樹は目が離せないでいた。
『なんで、喋れるの?』
初めて聞いた明日の英語は、あまりに綺麗で。樹は思わずのけ反った。涙と鼻水で濡れた明日の問いは、純粋なものだった。
「え?」
『ここの言葉…ぜんぜん分かんなくて…、さっきもよく分かんないまま連れられて……なんか言われてることだけは分かって、こわかっ…た…』
グスグスと大きな目に涙を浮かべて、すすり泣き出してしまったので樹は背中を触った。初めて来た国で、知らない場所で、知らない言葉であんな風に言われたら誰だって怖いだろう。華奢な身体の背中は自分のよりも小さく思えた。庇護欲が湧き樹は『そうだったんだ…』と背中を擦る。
それでも泣き止まない彼に樹は、どうにかして守ってやらなければと思った。朝毎週放送している大好きな戦隊ヒ—ロ—が『弱いものは救うのが男だ!』と言っていた言葉を思い出し、樹は思い切り明日に向かって叫んだ。お姫様を助けるのが、王子さまだってかあちゃんも言っていた。
『おれが教えてあげるよ、日本語!』
『…え?』
明日の可愛らしい口があんぐりと開いていた。『へたかもしれないけど…』というと、明日は樹に抱き着いてきた。突然のことにこの時樹は『これが外国人のスキンシップ…!』なんて緊張感もないことを思っていた。
「あ、あり、がと!」
たどたどしい日本語で、微笑む明日の顔から目が離せなかった。ずっと泣いていた顔から、笑顔に変わるのは小学生の樹にとっては衝撃的だった。
———その時から、俺はずっと明日に恋をしているのかもしれない。
その後、2人は一緒にランドセルを背負って家路を歩く。
『なんて名前なの?』
『え? せや いつき だよ』
顔を覗き込まれて問われて、樹は慌てて答えた。夕焼けに染まる明日の横顔は綺麗だった。
『イズ?』
『え? ちがうよ? イツキ!』
樹が言いづらいのか、明日は『イズ』と言った。樹がムキになって叫ぶと、明日はクスクスと楽しそうに笑っていた。明日に『じゃあ、イズって呼ぶね。イツキ』と言われて、あまりに楽しそうだったので文句も言えなかった。樹も少し悩んでから『俺はあ—ちゃんって呼ぼうかな』と言うと、「あ—ちゃ…ん?」と反芻された。
『日本だと『ちゃん』付けで友達のこと呼ぶから』
樹が顔を赤らめていうと、明日は顔をぎゅっと嬉しそうにし『うん! あ—…ちゃん?って呼んで!』と頷いてくれた。不思議と帰る道が同じなので、訝し気にいると家が2、3軒しか離れていない程近いということが判明した。その日から2人は登校と下校を共にすることになった。
その日の夜、明日の家族が揃って挨拶に来てくれた。明日の両親と兄は皆美形で驚いた。両親はハンサムと美人な二人だったが、明日の兄は彼と同じように外国の血を受け色素が薄く彫りが深かった。子供ながらに遺伝ってどういうことなんだろう、なんて思った。
その後、明日の家に呼ばれて、二つの家の交流が始まった。明日の綺麗なお母さんが作ってくれたグラタンがとても美味しかった事をよく覚えている。五十嵐家と瀬谷家は両親が意気投合し、家族ぐるみで仲良くなった。それから二人の日本語レッスンが始まった。樹のせいぜい中学生レベルの英語で日本語を教えるのは大変だったけど、たまにお母さんやお父さんが手伝ってくれて、徐々に明日は英語を覚えていった。
そうして1年がたった小学生3年生ごろには、明日はクラスの子と日常会話を出来るようになっていた。日本語を覚えて、皆の輪の中に入る明日は、すごくきらきらと輝いていた。初めは異物として扱っていた皆も、その頃には慣れて普通にクラスの一員として明日と遊んでいた。綺麗な容姿の明日は、人気者だった。繊細そうな容姿と裏腹に、明日はスキンシップが激しく、音楽と喋ることが好きなやんちゃな男の子だった。女子からはそんなギャップよかったのだろう。
学校内でも相当モテていたが、たまに明日を目当てに他の学校から女子が待ち伏せしてた程だった。女子だけはなく、男子にも明日は人気だった。スポ—ツも出来、頭もよかったからだろう。あっという間に明日はクラスの中心人物になっていた。
樹は少し自分の友達がとられたようで寂しかったけれど、明日は相変わらず樹にべったりとくっついていたし、特に不満はなかった。だが、ある日明日が英語の歌詞を歌っている声を聞いてそれが覆された。学校の音楽の授業で歌う日本語の曲は、特に何も思わなかったのに。
小学4年生。ちょうど明日が、声変わりを迎えた時だった。声変わりの前も繊細な高い声だったが、変声期を迎えて明日の声は劇的に変化した。高い声に低さが生まれ、甘い色気のある声に生まれ変わった。
その時からだろうか。明日に会うたびに、喋るたびに、触れられるたびにドキドキしたのは。
明日の家の部屋で、好きなア—ティストを一緒に話していた時だった。明日はもっぱら洋楽を聞いていて、それは樹も同じだったが、やっぱり明日のほうがよく知っていた。明日は歌うことが好きで、テンションが上がったのか歌を歌った。その時人気のあった洋楽のラブソングだ。
その圧倒的な歌唱力と、甘い声に樹は衝撃を受けた。その頃から、明日は圧倒的な才能があったのだ。まるでプロのような歌声に、樹はすごいすごいと拍手した。明日は嬉しそうに笑っていた。少し恥ずかしそうに『そうかな?』と言った。
樹は『ミュ—ジシャンになれるよ!』とはしゃいだ。明日は、はにかみながら頭を掻いた。
————…俺が一番初めにあ—ちゃんのファンになるからね。
思わず言った言葉に、明日は瞬きを繰り返す。そして満面の笑みで『ありがとう』と樹に言った。———樹はあの頃からずっと思っていた。明日はすごい人だって。すごい奴になるんだって。
本当にそうなった今でもその想いは変わらない。明日は初めから自分の隣にいるべきじゃない存在だと分かっていた。なのに今でも、自分は明日の隣を占領してしまっている。そう思ってしまうのは、きっと勘違いでおこがましいことなのだろうけれど。
いつからだろう。明日のことを好きになっていたのは。自覚したのはあの時だろうけど、明確には分からない。きっと小さい頃からずっと、初めて会った時からずっと、樹は明日のことを想っているのだろう。ずっと傍にいた幼馴染。ずっと傍にいて、笑ったり、泣いたり、怒ったり、喧嘩したりもした。明日とずっと一緒にいた。あのずっと傍にいた時は、樹のなかの世界が明日で回っていた。それは今でも変わっていないけれど。あの時は、ずっと明日と一緒にいるものだと思っていた。ずっと、一緒にいるものだと。
だけれど、明日は目の前から消えてしまった。それは忘れもしない中学1年生の夏の日。明日が泣きながら、オ—ストラリアに帰ると言ったのは。あの時の自分の部屋の温度が妙に蒸し暑くて、樹は白昼夢でも見ているのかと思った。明日が離れたくない、と泣きながら抱き着いてきた。身体に伝わる震えと、彼の学ランから見える汗に濡れた首筋が艶めかしくて。
樹にとって全部が作り話な気がした。
オ—ストラリアに、親の仕事で帰らなければならない。そう、彼は言った。樹がその時何と言ったかは、樹自身覚えていなかった。ショックすぎて、あまりそのあたりの記憶がない。ずっと一緒に居た好きな人が消えてしまう。ただそれだけが、樹の中にはあった。
明日が飛行機で日本から消えてしまった時、見送りでは泣かなかったのに、お母さんに「いっちゃったね」と言われてやっと明日が消えてしまったことの実感がやってきた。樹はどうしていいのか分からず、大声で泣いた。お母さんが抱きしめてくれて、そのぬくもりが温かく、消えてしまいそうな悲しみは少しだけ和らいだ。
『すごい歌手になってくるからね! 待ってて! 人気者になって帰ってくるからね!』
明日が泣きながら叫んでいた言葉を思い出す。自分でもどうしようもない哀しく辛い気持ちが、その言葉で消えていくような気がした。好きな人は、きっとすごい人になって帰ってくる。だから、それまで我慢すればいいんだ。待ってれば、いつか明日が日本に帰ってくる———…。
『すごい…歌手になって、帰ってきて…』
樹は、母のぬくもりを感じながらそっと呟いた。
…———きっと、きっとだよ。
その一年後、明日はオ—ストラリアで歌手デビュ—を果たした。Re:asuとしてボ—カルになったのはそのからすぐのことだった。14歳でのバンドボ—カルデビュ—。他のメンバ—は、明日の魅力に誘われた年上の人たちだとネットに書いてあった。それからデビュ—曲を発表し、その曲はヒットを飛ばすことになった。
————叶わない恋だとしても、貴方に会えたことだけが僕の生きる希望なんだ
————悲しくなんてないよ、きっと会えるから
叶うはずもない恋の歌。明日は、どんな風にこの歌詞を書いたのだろうか。
樹は、パソコンの視聴動画を聴きながら、目を閉じ一気に遠くの距離に行ってしまった想い人の顔を思い浮かべていた。
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