RIP IT UP

元森

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2 先生

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 その普通の人なら惹きつけられてしまう透の美しい笑みに、義孝は見惚れていると後輩の司から声が掛かる。
 司の声に、義孝は意識を向けた。
「先輩、伊勢さんがタクシーを呼んでくれたんですよ。救急車を呼ぼうかと迷ったんですけど、ちょうどタクシーが会社の前に止まったんで救急車を呼ぶよりタクシーのほうがいいってなったんです」
「そ、そうか…」
 義孝は、どこか納得した気がした。
 こんな大怪我をして、普通は救急車を呼ぶはずなのだが今義孝たちはタクシーに乗っている。
 その疑問の裏にはそんな背景があったのだと、義孝は頷いた。
「伊瀬さんが会社のなかにいて助かりました。俺だけじゃ先輩をどう応急処置していいのか分からないし…」
 司は自分の不甲斐なさを感じているのか、小さく頭を俯かせた。急に近くにいる人が、指を切断してしまったらそれはとても驚くべきことだろう。
 実際義孝も司と同じ状況になったらどうしていいのか分からなかっただろう。医者でもない一般市民の義孝が、突然怪我の応急処置を頼まれてしまったらとてもじゃないができないだろう。しかも、その怪我の種類は指の切断だ。その特殊な応急処置が出来ると聞かれれば、100%やれない自信が義孝にはあった。
 近くに居ても、何もできずうろうろと自分がその場で彷徨っている光景が容易に想像できる。たとえ応急処置の仕方が分かっているとしてもパニックになって出来ない可能性だって十分にありうる。そんなに司が落ち込む必要がないのだ。
 自分を責める必要はない。誰だってあんな状況になってしまったら何も出来ない人が大多数を占めるだろう。だから司が自分のことを責めて落ち込む必要なんてない。
 それに指の切断というショッキングな光景を体験し見てしまったのは義孝だけではない。近くに居る司だって、その様子を目の当たりにしたのだ。
 今回の被害者である義孝も一生忘れないように司だって永遠に忘れはしないだろう。そんな司の発言に助手席に座っている透が小さく笑った。
「あの時の原さんはパニックになっていて凄かったですね」
「だ、だってあれは…」
「普通あんなことになるなんて分からないわけですから、混乱するのも仕方がないのかもしれないですね」
 落ち着いた声音で透は司をからかうように言った。司はその時の様子を思い出したのか、表情を一変させて顔を赤く染まっていた。
「あんなことってなんですか?」
 義孝はそんな司の様子が気になって透に問いかける。すると金色の髪を掻き上げながら透は義孝の質問に答えた。
「血がたくさんあったんです。鈴岡さんが倒れたところはかなり血だまりが出来てましたから」
「あ……」
「鈴岡さんたちの会社今頃大騒ぎですね。倒れたときも相当混乱していましたし」
「…そうです…よね…」
 義孝は、切断されてしまった中指をじっと見つめた。
 左手の中指には、包帯が巻いてあり止血しているようだった。これが、司の話した適した応急処置ということだろう。その指が人差し指と同じぐらいの長さなのを見て、義孝は口を思わず覆った。
 今でも切られたところからじんじんと痛いが、それを自覚をするとさらに痛くなる。先程の思い出したくもない光景が義孝に広がって、表情を曇らせた。その欠けてしまった指は、義孝が指を切断したことをありありと見せつけてくる。
「指はくっつくんですか……?」
 義孝は恐る恐る透に問うた。それが義孝には何より心配だった。
 そしてその質問が何より気になっていたことだった。たとえあまり使わない指の部位だとしてもそのままこの指が接合できずに欠けていたら仕事に支障がきたすような思いがして気が気ではない。すると透は心配しなくて大丈夫と口を開く。
「刃物とかの鋭利な刃物での切断は、動脈等が見やすくて縫合手術から元の指の形に戻るのは可能です。切断された指も適切な応急処置をして、保管してあったら元に戻ります」
「そ、そうですか…」
 その透の言葉に、義孝はほっと胸を撫で下ろした。これで透の口から、くっつかないと言われたら義孝はどうにかなってしまうところだった。やはりなかったら仕事に支障をきたすし、心身ともに大きな衝撃を受けることは確実だ。指が切断されたということだけでも、精神的にはよくないことなのにこれで縫合されずに前のままだったらもっと義孝にはショックだった。
 とにかく、現時点では最悪の状態から逃れたということだろう。深く息を吐いていると、隣に座っていた司が義孝に手に持っているものを見せてくる。それは義孝が言葉を失ってしまうにはたやすい物だったのだ。
「ここに先輩の指があるので安心してくださいっ」
「え…」
 司が手に持っているは、小さなガラスの瓶だった。その中身は氷水が入っており蓋が開けられないようにきっちりと閉められている。ガーゼで覆われいる自身の指のようなものがぷかぷかと沈められていた。
 氷水入りの瓶に入れてあるのは、まぎれもなく義孝の指だった。義孝はさらに自分がとんでもないことになってしまったのだと実感してしまった。その事態の大きさに、目を瞑り義孝はその瓶から目をそらす。
「…あ、あの…今どこに向かっているんですか…?」
 自分の暗い気持ちを受け入れたくなくて、義孝は医者だと名乗っていた透に視線を投げかける。そんな義孝の目線に気づいたのか、透は後ろを振り向いて微笑んだ。微笑みを透は残すと、指を一本立て前方の大きな車の窓を指差しながら彼は口を動かした。
「僕が勤めている、M総合病院です。ちゃんと形成外科もありますから、指の手術は問題なくできます」
「じゃあ、あと何分ぐらいで着くんですか」
「もうすぐですよ。ほら…見えてきました」
 透の指に誘われて窓の外を見ていると、大きな病院の建物が見えてきた。
 あまり義孝は病院に世話になっていないが、会社に近くにある大きな総合病院のM総合病院は知っている。会社からでもM病院は見えるので、近くにいるとその大きさがよく分かる。
 その白い比較的綺麗な外観に見入っていると、運転手から声がかかった。
「お客さん、もう少しで病院に着きますよ」
 先程から心配そうにしていた運転手の男性だが、その思いは声でも伝わってくる。
「は、はい…」
 おっかなびっくりといった感じで義孝は、緊張しながら答える。義孝は嫌な汗を静かに感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
 
◇◇◇
 



 義孝たちは、M総合病院に着くと形成外科の待合室でしばらく待つと、ほどなくして診察室のドアを開けた。
 M総合病院は、多数の診療科を有している、この地域の中心的な病院であった。救急病院としても、この地域には根強い信頼があるとても大きな大病院なのだ。内科・外科・耳鼻科・眼科・産婦人科…その5つの診療科目があるのはもちろんだがこのM総合病院にはそのほかにも多くの診療がある。
 小児科・形成外科・脳神外科・麻酔科・皮膚科…などの多くの診療所があるので、この総合病院はこの街の医療機関の核になっているのだ。何かあったらこの病院で――というのは、だいたいここに住んでいる人たちは常識となっている。
 しかもここはこの間改装工事をしたので、かなり普通の総合病院より綺麗だ。義孝も、病院に入った時は驚いた。
 透の話をよく聞くと、彼は研修が終わって初めての医者の1年目らしい。技術としてはまだまだ経験不足だが腕は確かなようで毎日が忙しいということだった。そんな忙しい彼が何故、義孝の会社にいたのは分からないが――とにかく透が居たおかげで自分は助かったのだ。
 感謝しなければならない。義孝は透と心配そうな司を置いて診察室に向かう。
 その手には、先ほどの自身の切られてしまった指が入っている瓶を持っている。氷水が入っているので、手に感じる温度は冷ややかだった。動くたびその中身に入っているガーゼに包まれた指も動く。
「失礼します」
 義孝は白い診察室のドアを開けると深々とお辞儀をする。
「はいどうぞ」
 白衣を着て椅子に座っていたのはどっしりとした体格のある40代ぐらいの男の医者だった。その容姿は顔には髭を生やしており少し白髪交じりの黒髪は寝癖でぼさぼさと乱れ切っていた。
 顔のパーツがどこか動物のクマに似ている。頭をぼりぼりと掻く姿が、まるで大きなクマを見ているようだった。義孝はその風貌を見て、すぐにその先生を《クマ先生》と呼ぶことに決めた。問診も早々に義孝は緊急手術をすることになった。
 手の切断部分を見せると、クマ先生は渋い顔をして
「どうして、救急車を呼ばなかったの」
 と怒られてしまった。
 こんな緊急時は救急車を使うべきだと真剣な顔をして怒られたので義孝は、思わず笑う。そんなおっとりした顔で言われても失礼だが義孝には面白くしか見えなかったのだ。
「あの近くでタクシーが通りかかったので救急車を呼ぶより時間が早いと判断したみたいです」
「そんな血が出ているのに? あんたは倒れたのに?」
「えっと…俺の後輩がここで働いている伊勢さんにそういわれたそうです」
「伊勢って、伊勢透?」
 クマ先生は目を瞬かせて義孝に顔を近づけた。義孝はその通りだったので小さく首を縦に動かした。
「あぁ…やっぱりなぁ。あいつかぁ。でもあんた幸運だったよ。近くに医者がいて、怪我したときに邪魔になるなんてことはないしね」
「そ、そうですよね」
 うんうんと頷き感心しているクマ先生を見て、義孝も一緒になって頷いた。その後は、今後の手術の仕方や諸注意をクマ先生から分かりやすく義孝は教えてもらっていた。クマ先生の名前は、町山 正(まちやま ただし)というそうだ。今回の手術の執刀医らしい。
 町山先生がいうには、手術後24時間以内は血管が詰まる可能性が一番あるのだという。なので、こんな怪我をしたときは時間との勝負らしい。だから、すぐにでも手術をしようと先生は話す。もし血管が詰まってしまったら最悪の場合また手術なんてこともあるらしい。
 その説明を聞くと義孝は嫌な汗が噴き出る。また手術なんて冗談じゃない。そんなことが、起こらなければいいと心の底から願っていた。
 手術が無事何事もなく終わった後は、縫合した傷の感染予防のためとリハビリのために最低2週間、入院をしなくてはならないようだ。
 会社を休むのは嫌なことであるが、こんなときはそんなこと言っている場合ではない。これで入院せずに何かあったら、元も子もないのだ。万全に準備してから仕事に復帰したほうがのちのちいいことは明白だ。
 指の感覚は手術した後、しばらくの間ないという。そんな説明を一通り受けて、義孝はほどなくして手術を受けることになった。
 待合室に待っている暗い顔をしている司にその手術をする旨を伝えると、頑張って下さいと肩を叩かれた。
 もともと体育会系の彼の叩く力は義孝には重いものでやっぱり痛かった。だがその勢いよく肩を叩いた痛みは司の胸の内を表しているようで、どこか義孝はその痛みを恨めなかった。透の姿が見えなかったので、どこにいるかと司に聞くと彼は病院の先輩に呼ばれてから姿を見せないという。
 司は「たぶん、人出が足りないから呼ばれちゃったみたいですよ。せっかくの久しぶりの休日だったのに、もったいなかったですよね」と、言っていたのでその通りなのだろう。
 ―――医者は万年人手不足だ。高齢者が増え、人出は増えないといけないのに医者は増えていかないのが現状だ。忙しい中自分のせいで休日を潰してしまったのかと義孝は罪悪感が生まれる。
 義孝はそんな複雑な思いを胸に秘めて、手術を行うことになった。手術なんて人生で一回も受けたことがないので、義孝は緊張していた。しかも、全身麻酔をするのだという。もちろん、義孝は全身麻酔もしたことがない。これでも、健康には自信がある。
 手術する前の説明で、全身麻酔をする言われて義孝は心臓が飛び出るんじゃないかというほど驚いた。
 そんな義孝の気持ちを知らずに、麻酔科の男の先生は手術室のなかで専用のマスクを少し直しながら落ち着いた声音でいう。この時の義孝は、最高潮に緊張して体はかちこちに固まってしまっていた。リラックス、リラックスと自身を落ち着かせてみてもますます体を強張らせるだけだった。近くにいた医者たちも、そんな様子の義孝に苦笑いしていた。
「今から、点滴を通して麻酔を入れます。私と一緒に数を数えて下さい」
 きっちりと手術着を着こんだ、先生が義孝と目を合わせてはっきりといった。そして、ゆっくりと手をあげると指を一本立てる。先生は少ししゃがれた声で数字を数えていく。
「1、2、3……」
 義孝も一緒になって言う通りに、数を数えていった。
 5秒ほど一緒になって数えていたが、だんだんと意識が遠のっていく。そして、声が遠くで聞こえる―――そう自覚した瞬間にもう義孝は、深い眠りへと落ちていった。
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