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4月編
第3話 文月栞、趣味の合う男の子と出逢う。
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おばあちゃんは、本が好きだった。
母と、おばあちゃんと、私の三人暮らし。
父親は知らない。死んでるのか離婚したのか、はたまた遠いところへ単身赴任しているのか。
私は父親に興味がなかったから聞かなかった。
でも、不思議と私の家はお金に困ってはいないようだった。祖父の遺産のおかげもあるのだろう。顔も覚えていない頃に亡くなったらしいが、綺麗な白髪――というより、美しい銀髪だったことだけが何故か鮮明に記憶に残っている。
おばあちゃんは、普通の白髪だった。
小学生の頃から中学まで、私は喧嘩に明け暮れていた。
きっかけは、小学一年生のときに、上級生の男子に無理やりキスされそうになったこと。
必死で抵抗して、なんとかその場は免れたが、それ以降、私は「自分の身は自分で守らなければ」と凶暴性を増した。
なぜその思考に至ったかと言えば、上級生が迫ってきた時、周りは誰も助けてくれなかったからだ。
ヒューヒューと囃し立てる者もいた。今思い出しても腸が煮えくり返る思いがする。
誰も助けてくれないなら、自分が強くなるしかない。
相手を倒すためなら、手段は選ばない。腹を殴る。股間を蹴る。目潰し――は流石にしなかったけど。
毎日喧嘩沙汰で、母とおばあちゃんはぺこぺこ謝り通しだった。
母は頭ごなしに叱るばかりで、ちっとも私の言い分なんか聞きやしない。
傷だらけで家に帰ってくる私を、おばあちゃんは悲しそうな目で見た。
「栞ちゃん、可哀想にねえ。こんなに傷だらけで、誰もあなたを守ってくれないのね」
私のことをわかってくれるのは、おばあちゃんだけだった。
私だって、無駄な争いはしたくない。でも一度芽生えた破壊衝動を抑える方法を、私は知らなかった。
おばあちゃんは、私に読書を勧めた。
私はそれまで本なんか興味がなかった。体を動かすこと――喧嘩しか知らなかったから。
おばあちゃんの本棚にはなんでもあった。
最初は絵本から。次は児童文学。次は読みやすい文体の推理小説。
少しずつステップアップして、おばあちゃんは私を本の世界に案内してくれた。
私は夢中になっておばあちゃんの所有する本を読んだ。
本は、私の知らない世界、知らない感情を教えてくれる。
世界とは、こういうものなのか。
優しさとは、こういう気持ちなのか。
おばあちゃんの本棚を読破したら、おばあちゃんは図書館へ連れて行ってくれた。街で一番大きな図書館だ。
――あたり一面の、本、本、本。
宝の山のように見えた。
これを、全部無料で読んでいいのか。
私はすっかり本の虫だった。夢中になって本を読んでいくうちに、私は自分の感情の扱い方を覚えた。
喧嘩は売られない限り買わなくなった。
中学の卒業が近づいた頃、私はある決心をした。
――高校では、喧嘩っ早い自分を隠して、なるべく目立たないように生きよう。
銀縁の伊達メガネを買った。みつあみの編み方はおばあちゃんが教えてくれた。
これで、見た目だけはパッとしない、冴えない文学少女の完成である。
そして、私は同じ中学の子がいなさそうな高校を選んだ――。
図書館の空気は、いつ来てもいいものだ。
私は大きく息を吸う。
古い紙の匂い。本屋も好きだが、この大きな図書館は蔵書数の多さゆえか、格別な匂いがする。
ドミノのように立ち並ぶ本棚を覗きながら、ぶらぶらと散歩するように歩く。
普段から借りる本は事前には決めない。一期一会、面白そうなタイトルであったり、装丁の珍しいものには惹かれる。あとは気分。
気に入った本は何度も借りることもある。ああ、貸し出し期限が憎い。いっそ買ってしまった本もあった。
ふと、推理小説のコーナーに入って、目に入ったものがあった。
私の好きな推理小説のシリーズ、その最新巻。図書館なのに随分仕入れるのが早い。誰かからの寄付だろうか。
当然読みたい。手を伸ばすと、誰かの手と重なった。
「あ……」
男の子だ。私と同じくらいの年齢だろうか。恥ずかしそうに手を引っ込めたその少年は、おずおずと私に話しかける。
「あの、お先にどうぞ」
お先に、というのは本を借りていいということだろうか。
「い、いえ、あなたが先に本に触れていたので……」
「いえ、いいんです。別の本も借りる予定なので」
見れば、結構な数の本を小脇に抱えていた。彼もかなりの読書家らしい。
「……えーと、同じ高校の制服?」
「みたいですね。私は一年A組」
「あ、僕B組です。お隣さんですね」
少年は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「僕は、中島猫春っていいます」
「文月栞です」
「本がお似合いの、素敵な名前ですね」
言ってしまってから口説いているようで恥ずかしくなったのか、猫春は顔を赤らめた。
――可愛い。
男の子に向かって可愛いと思ったのは初めてだった。中学まで男というのは私に襲いかかる喧嘩相手だった。
こんなに攻撃性の感じられない男の子はなかなか見ない。
「猫春くん、今時間ありますか?」
私と猫春は本を借りる手続きを済ませてから、一旦図書コーナーを出て、図書館内にあるカフェに入った。
「猫春くんもこの小説のシリーズ好きなんですか?」
「はい。小説は自分でも買ってるんですけど、最新巻だけ持ってないからここで試し読みしようかなと思って」
わかる。学生はお小遣いが限られているから、まず無料で読める図書館で試しに読んでみてから決める場合がある。
「なんか、同じ学年なのに敬語っていうのも変ですかね?」
「あ、すみません、なんとなくいつも敬語になっちゃう癖があって」
「じゃあこのままでも大丈夫ですね」
なんとなく二人でくすくす笑う。
そして私達は自然と本の話で盛り上がった。
猫春の家も、本で溢れかえっていて、本好きな父の影響で読み始めたらしい。
私も、喧嘩に明け暮れていたことは伏せて、おばあちゃんがきっかけだという内容を話した。
――猫春に、喧嘩をしていたことは知られたくない、と思った。
夕方まで、本の話を延々と続けた。帰宅時間さえなければ、一晩中でも語り明かせただろう。猫春はそれほどに本の知識が豊富だった。おそらく私とインテリジェンスレベルが同じくらいなんだ。
「それじゃ、また明日、学校で」
私も猫春も、名残惜しそうだった。
「あ、そうだ。私、図書委員やってるんです。よかったら図書室に遊びに来てください」
「図書室なら喜んで」
そう言って別れた。
こんなに晴れやかでいい気分なのは久しぶりのことだ。
話の合う他人というのは貴重なものである。しかもそれが、私の憎んでいた男だったなんて。
私は明日が楽しみで仕方なかった。
翌日、放課後。
猫春は早速図書室に来てくれた。
「猫春くんは図書委員じゃないんですね」
私は図書室の静寂を破らないように、小さな声で話す。自然と、距離が近くなる。
「はい、実は委員を決める日に、僕、風邪を引いて休んじゃったんです……」
しょんぼりしている猫春が可愛くて、思わず微笑んで――というか、にやけてしまう。
「それは残念ですね。それじゃ、何の委員をしてるんですか?」
「保健委員です。昨日は包帯の巻き方を習いました」
「じゃあ、もし私が怪我したら、頼りにしてますね」
私が猫をかぶってニコッと微笑むと、猫春はカーッと顔を赤くする。
うーん、可愛い。
今まで出会ってきた男というのはみんな私を敵視していて、すぐ女をバカにしたり殴りかかってくるようなゴリラみたいな図体の奴らばかりだったから、猫春みたいなタイプはなんだか新鮮だ。
――ところで、私はすっかり忘れていたことがあった。
「……栞ちゃん、誰、そいつ」
曽根崎の存在である。
図書委員なので当然コイツもついてくるわけだ。
「あっ、『学園一のイケメン』って言われてる曽根崎逢瀬さん……!?」
どうやら猫春もその異名は知っているらしい。
「ちょっと、曽根崎くん。あなたまで受付を離れたら貸出業務ができる人いなくなっちゃうじゃないですか。受付に戻ってください」
私は、しっしっと手で追い払う。
「いいの? そういう態度とって。君の過去、そいつに教えてあげようか?」
「なっ……!?」
こ、コイツ……! 密約を破る気だ!
かといって、猫春の目の前でコイツの顔面をボコボコにすることも憚られる。それをわかっていて、曽根崎は勝ち誇った顔をしている。ムカつく。
「……じゃあ、猫春くん。そろそろ受付に戻りますね。何のお構いもできませんが、ゆっくりしていってください」
苦渋の末、私は猫春くんに笑いかけてその場をあとにする。
「…………おい、どういうつもりだ」
受付に戻って、私はドスの利いた低く誰にも聞こえない程度の声量で曽根崎に問う。
「ちょっと嫉妬しちゃっただけだよ、怒らないで」
曽根崎は馬鹿正直にそう答えてイケメンスマイルを浮かべる。
普通の女子ならその笑顔ですべてを許してしまうのだろうが、あいにく私は普通の女子じゃない。
「嫉妬だぁ? 付き合ってもいないのにブッ飛ばされたいのかテメェは」
「だから付き合ってよ」
「ぜってぇヤダ」
『だから』ってなんだ、『だから』って。
「強情だね……ここまでしてオチなかった女なんて今までいなかったのに」
「そこまでくると一種のナルシストだな……」
「事実だよ」
そろそろ頭を抱えたくなってきた私の頬を、曽根崎が撫でる。
「栞ちゃん……あんなやつ見ないで、俺だけ見て。俺だけの栞ちゃんになって」
そう言って、曽根崎は私の顔を覗き込む。
「気安く触るんじゃねえよ、タコスケ」
「いてて」
私の頬に触れる手の甲を思い切りつねると、曽根崎はやっと手を離した。
「あの……」
私はビクリと肩を震わせた。曽根崎に気を取られて、他の利用者のことをすっかり忘れていた。
しかも、その声は――
「貸し出し手続き、お願いしてもいいですか?」
猫春が本を抱えて小首をかしげる。その仕草がとても可愛い――じゃなくて。
「あ、は、はい、手続きしますね」
私は慌てて業務に戻る。曽根崎は機嫌が良さそうに片肘をついて私を眺めている。いや、お前も手伝えよ。
「……こんなこと訊いていいのかなって思うんですけど」
私が貸出カードに期限の日を書いているときに、猫春が遠慮がちに口を開く。
「文月さんと曽根崎さん、さっきかなり仲良さそうでしたけど、付き合ってるんですか?」
「付き合ってません」
「付き合ってるよ」
私と曽根崎、同時に答えたので声が混ざって猫春にはうまく聞き取れなかったらしい。
私はなにより、猫春に曽根崎と付き合っているのではないかと思われていることにショックを受けていた。
……自覚はあったが、私は猫春にかなり好意を抱いているらしい。
「文月さん、夜道には気をつけたほうがいいですよ。曽根崎さん、人気だから嫉妬とかあるだろうし……」
知ってる。すでに襲撃されてる。
「あと、曽根崎さんは魅了の力で女の子を自在に操れるらしいですから」
「俺は異能者か何かだと思われてるのかな?」
真剣な顔をして話す猫春に、曽根崎がツッコむ。
でもまあ、間違ってはいないんだよなあ。
学園一のイケメン、その魅力はあらゆる女子生徒を骨抜きにしてしまう。多分昼休みに「パン買ってきて」と一声かければ一日三食、一ヶ月分のパンが献上されるレベルだ。
……みんな、こんなチャラいやつのどこがいいんだろ。
「お前、名前なんていうの?」
不意に、曽根崎が猫春に問いかける。
「あ、申し遅れました、中島猫春と申します」
留年しているとはいえ、本来は二年生になるはずだった相手だ。猫春は少し緊張気味に答える。
「中島、お前に栞ちゃんは渡さないからな」
「!?」
曽根崎の突然の宣言に、私は思わず拳を固める。
もうこれ以上余計なことを言う前に、仕留めたほうがいいのでは――?
「……失礼ですが」
猫春は、そのクリクリとした大きくて丸っこい目でキッと睨んでいる――つもりらしい。
「曽根崎さんは充分女の子に恵まれているので、文月さんくらいは僕に譲ってくれてもいいんじゃないでしょうか……?」
と、宣戦布告をしたあと、カーッと顔を真赤にする。
――か、かわ、かわ……
あまりのひたむきさと可愛さに、私は思わず口に手を当てる。
「……へえ……」
猫春の宣戦布告と私の反応を見て、面白くないといったふうなひきつった顔をする曽根崎。
「君、いい度胸してるね」
「ありがとうございます」
「いや、褒めてないからね?」
猫春のどこかズレた反応に、曽根崎は苛立った表情になる。
「――おもしれーじゃん。じゃあ、どっちが栞ちゃんと付き合えるか、勝負と行くか?」
「が、がんばります!」
いや、猫春くん可愛すぎか?
私の中ではすでに猫春に軍配が上がっていた。
趣味の話合うし、優しいし、可愛いし。
っていうか、今まで猫春の可愛さで気づかなかったけど、猫春も私の事好きじゃん。両思いじゃんこれ。
「私は猫春くんと付き合いたいですけど」
思わず口から漏れてしまった。
「――え?」
猫春はキョトンとした表情の後、またカーッと顔を真赤にし、曽根崎は絶望の表情を浮かべる。
「じゃ、じゃあ、僕と付き合ってくれますか?」
「喜んで」
目の前でトントン拍子に小学校からの想い人を奪われ、呆然とする曽根崎。ザマァ見ろ。
こうして、私、文月栞と、中島猫春の交際がスタートしたのであった。
〈続く〉
母と、おばあちゃんと、私の三人暮らし。
父親は知らない。死んでるのか離婚したのか、はたまた遠いところへ単身赴任しているのか。
私は父親に興味がなかったから聞かなかった。
でも、不思議と私の家はお金に困ってはいないようだった。祖父の遺産のおかげもあるのだろう。顔も覚えていない頃に亡くなったらしいが、綺麗な白髪――というより、美しい銀髪だったことだけが何故か鮮明に記憶に残っている。
おばあちゃんは、普通の白髪だった。
小学生の頃から中学まで、私は喧嘩に明け暮れていた。
きっかけは、小学一年生のときに、上級生の男子に無理やりキスされそうになったこと。
必死で抵抗して、なんとかその場は免れたが、それ以降、私は「自分の身は自分で守らなければ」と凶暴性を増した。
なぜその思考に至ったかと言えば、上級生が迫ってきた時、周りは誰も助けてくれなかったからだ。
ヒューヒューと囃し立てる者もいた。今思い出しても腸が煮えくり返る思いがする。
誰も助けてくれないなら、自分が強くなるしかない。
相手を倒すためなら、手段は選ばない。腹を殴る。股間を蹴る。目潰し――は流石にしなかったけど。
毎日喧嘩沙汰で、母とおばあちゃんはぺこぺこ謝り通しだった。
母は頭ごなしに叱るばかりで、ちっとも私の言い分なんか聞きやしない。
傷だらけで家に帰ってくる私を、おばあちゃんは悲しそうな目で見た。
「栞ちゃん、可哀想にねえ。こんなに傷だらけで、誰もあなたを守ってくれないのね」
私のことをわかってくれるのは、おばあちゃんだけだった。
私だって、無駄な争いはしたくない。でも一度芽生えた破壊衝動を抑える方法を、私は知らなかった。
おばあちゃんは、私に読書を勧めた。
私はそれまで本なんか興味がなかった。体を動かすこと――喧嘩しか知らなかったから。
おばあちゃんの本棚にはなんでもあった。
最初は絵本から。次は児童文学。次は読みやすい文体の推理小説。
少しずつステップアップして、おばあちゃんは私を本の世界に案内してくれた。
私は夢中になっておばあちゃんの所有する本を読んだ。
本は、私の知らない世界、知らない感情を教えてくれる。
世界とは、こういうものなのか。
優しさとは、こういう気持ちなのか。
おばあちゃんの本棚を読破したら、おばあちゃんは図書館へ連れて行ってくれた。街で一番大きな図書館だ。
――あたり一面の、本、本、本。
宝の山のように見えた。
これを、全部無料で読んでいいのか。
私はすっかり本の虫だった。夢中になって本を読んでいくうちに、私は自分の感情の扱い方を覚えた。
喧嘩は売られない限り買わなくなった。
中学の卒業が近づいた頃、私はある決心をした。
――高校では、喧嘩っ早い自分を隠して、なるべく目立たないように生きよう。
銀縁の伊達メガネを買った。みつあみの編み方はおばあちゃんが教えてくれた。
これで、見た目だけはパッとしない、冴えない文学少女の完成である。
そして、私は同じ中学の子がいなさそうな高校を選んだ――。
図書館の空気は、いつ来てもいいものだ。
私は大きく息を吸う。
古い紙の匂い。本屋も好きだが、この大きな図書館は蔵書数の多さゆえか、格別な匂いがする。
ドミノのように立ち並ぶ本棚を覗きながら、ぶらぶらと散歩するように歩く。
普段から借りる本は事前には決めない。一期一会、面白そうなタイトルであったり、装丁の珍しいものには惹かれる。あとは気分。
気に入った本は何度も借りることもある。ああ、貸し出し期限が憎い。いっそ買ってしまった本もあった。
ふと、推理小説のコーナーに入って、目に入ったものがあった。
私の好きな推理小説のシリーズ、その最新巻。図書館なのに随分仕入れるのが早い。誰かからの寄付だろうか。
当然読みたい。手を伸ばすと、誰かの手と重なった。
「あ……」
男の子だ。私と同じくらいの年齢だろうか。恥ずかしそうに手を引っ込めたその少年は、おずおずと私に話しかける。
「あの、お先にどうぞ」
お先に、というのは本を借りていいということだろうか。
「い、いえ、あなたが先に本に触れていたので……」
「いえ、いいんです。別の本も借りる予定なので」
見れば、結構な数の本を小脇に抱えていた。彼もかなりの読書家らしい。
「……えーと、同じ高校の制服?」
「みたいですね。私は一年A組」
「あ、僕B組です。お隣さんですね」
少年は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「僕は、中島猫春っていいます」
「文月栞です」
「本がお似合いの、素敵な名前ですね」
言ってしまってから口説いているようで恥ずかしくなったのか、猫春は顔を赤らめた。
――可愛い。
男の子に向かって可愛いと思ったのは初めてだった。中学まで男というのは私に襲いかかる喧嘩相手だった。
こんなに攻撃性の感じられない男の子はなかなか見ない。
「猫春くん、今時間ありますか?」
私と猫春は本を借りる手続きを済ませてから、一旦図書コーナーを出て、図書館内にあるカフェに入った。
「猫春くんもこの小説のシリーズ好きなんですか?」
「はい。小説は自分でも買ってるんですけど、最新巻だけ持ってないからここで試し読みしようかなと思って」
わかる。学生はお小遣いが限られているから、まず無料で読める図書館で試しに読んでみてから決める場合がある。
「なんか、同じ学年なのに敬語っていうのも変ですかね?」
「あ、すみません、なんとなくいつも敬語になっちゃう癖があって」
「じゃあこのままでも大丈夫ですね」
なんとなく二人でくすくす笑う。
そして私達は自然と本の話で盛り上がった。
猫春の家も、本で溢れかえっていて、本好きな父の影響で読み始めたらしい。
私も、喧嘩に明け暮れていたことは伏せて、おばあちゃんがきっかけだという内容を話した。
――猫春に、喧嘩をしていたことは知られたくない、と思った。
夕方まで、本の話を延々と続けた。帰宅時間さえなければ、一晩中でも語り明かせただろう。猫春はそれほどに本の知識が豊富だった。おそらく私とインテリジェンスレベルが同じくらいなんだ。
「それじゃ、また明日、学校で」
私も猫春も、名残惜しそうだった。
「あ、そうだ。私、図書委員やってるんです。よかったら図書室に遊びに来てください」
「図書室なら喜んで」
そう言って別れた。
こんなに晴れやかでいい気分なのは久しぶりのことだ。
話の合う他人というのは貴重なものである。しかもそれが、私の憎んでいた男だったなんて。
私は明日が楽しみで仕方なかった。
翌日、放課後。
猫春は早速図書室に来てくれた。
「猫春くんは図書委員じゃないんですね」
私は図書室の静寂を破らないように、小さな声で話す。自然と、距離が近くなる。
「はい、実は委員を決める日に、僕、風邪を引いて休んじゃったんです……」
しょんぼりしている猫春が可愛くて、思わず微笑んで――というか、にやけてしまう。
「それは残念ですね。それじゃ、何の委員をしてるんですか?」
「保健委員です。昨日は包帯の巻き方を習いました」
「じゃあ、もし私が怪我したら、頼りにしてますね」
私が猫をかぶってニコッと微笑むと、猫春はカーッと顔を赤くする。
うーん、可愛い。
今まで出会ってきた男というのはみんな私を敵視していて、すぐ女をバカにしたり殴りかかってくるようなゴリラみたいな図体の奴らばかりだったから、猫春みたいなタイプはなんだか新鮮だ。
――ところで、私はすっかり忘れていたことがあった。
「……栞ちゃん、誰、そいつ」
曽根崎の存在である。
図書委員なので当然コイツもついてくるわけだ。
「あっ、『学園一のイケメン』って言われてる曽根崎逢瀬さん……!?」
どうやら猫春もその異名は知っているらしい。
「ちょっと、曽根崎くん。あなたまで受付を離れたら貸出業務ができる人いなくなっちゃうじゃないですか。受付に戻ってください」
私は、しっしっと手で追い払う。
「いいの? そういう態度とって。君の過去、そいつに教えてあげようか?」
「なっ……!?」
こ、コイツ……! 密約を破る気だ!
かといって、猫春の目の前でコイツの顔面をボコボコにすることも憚られる。それをわかっていて、曽根崎は勝ち誇った顔をしている。ムカつく。
「……じゃあ、猫春くん。そろそろ受付に戻りますね。何のお構いもできませんが、ゆっくりしていってください」
苦渋の末、私は猫春くんに笑いかけてその場をあとにする。
「…………おい、どういうつもりだ」
受付に戻って、私はドスの利いた低く誰にも聞こえない程度の声量で曽根崎に問う。
「ちょっと嫉妬しちゃっただけだよ、怒らないで」
曽根崎は馬鹿正直にそう答えてイケメンスマイルを浮かべる。
普通の女子ならその笑顔ですべてを許してしまうのだろうが、あいにく私は普通の女子じゃない。
「嫉妬だぁ? 付き合ってもいないのにブッ飛ばされたいのかテメェは」
「だから付き合ってよ」
「ぜってぇヤダ」
『だから』ってなんだ、『だから』って。
「強情だね……ここまでしてオチなかった女なんて今までいなかったのに」
「そこまでくると一種のナルシストだな……」
「事実だよ」
そろそろ頭を抱えたくなってきた私の頬を、曽根崎が撫でる。
「栞ちゃん……あんなやつ見ないで、俺だけ見て。俺だけの栞ちゃんになって」
そう言って、曽根崎は私の顔を覗き込む。
「気安く触るんじゃねえよ、タコスケ」
「いてて」
私の頬に触れる手の甲を思い切りつねると、曽根崎はやっと手を離した。
「あの……」
私はビクリと肩を震わせた。曽根崎に気を取られて、他の利用者のことをすっかり忘れていた。
しかも、その声は――
「貸し出し手続き、お願いしてもいいですか?」
猫春が本を抱えて小首をかしげる。その仕草がとても可愛い――じゃなくて。
「あ、は、はい、手続きしますね」
私は慌てて業務に戻る。曽根崎は機嫌が良さそうに片肘をついて私を眺めている。いや、お前も手伝えよ。
「……こんなこと訊いていいのかなって思うんですけど」
私が貸出カードに期限の日を書いているときに、猫春が遠慮がちに口を開く。
「文月さんと曽根崎さん、さっきかなり仲良さそうでしたけど、付き合ってるんですか?」
「付き合ってません」
「付き合ってるよ」
私と曽根崎、同時に答えたので声が混ざって猫春にはうまく聞き取れなかったらしい。
私はなにより、猫春に曽根崎と付き合っているのではないかと思われていることにショックを受けていた。
……自覚はあったが、私は猫春にかなり好意を抱いているらしい。
「文月さん、夜道には気をつけたほうがいいですよ。曽根崎さん、人気だから嫉妬とかあるだろうし……」
知ってる。すでに襲撃されてる。
「あと、曽根崎さんは魅了の力で女の子を自在に操れるらしいですから」
「俺は異能者か何かだと思われてるのかな?」
真剣な顔をして話す猫春に、曽根崎がツッコむ。
でもまあ、間違ってはいないんだよなあ。
学園一のイケメン、その魅力はあらゆる女子生徒を骨抜きにしてしまう。多分昼休みに「パン買ってきて」と一声かければ一日三食、一ヶ月分のパンが献上されるレベルだ。
……みんな、こんなチャラいやつのどこがいいんだろ。
「お前、名前なんていうの?」
不意に、曽根崎が猫春に問いかける。
「あ、申し遅れました、中島猫春と申します」
留年しているとはいえ、本来は二年生になるはずだった相手だ。猫春は少し緊張気味に答える。
「中島、お前に栞ちゃんは渡さないからな」
「!?」
曽根崎の突然の宣言に、私は思わず拳を固める。
もうこれ以上余計なことを言う前に、仕留めたほうがいいのでは――?
「……失礼ですが」
猫春は、そのクリクリとした大きくて丸っこい目でキッと睨んでいる――つもりらしい。
「曽根崎さんは充分女の子に恵まれているので、文月さんくらいは僕に譲ってくれてもいいんじゃないでしょうか……?」
と、宣戦布告をしたあと、カーッと顔を真赤にする。
――か、かわ、かわ……
あまりのひたむきさと可愛さに、私は思わず口に手を当てる。
「……へえ……」
猫春の宣戦布告と私の反応を見て、面白くないといったふうなひきつった顔をする曽根崎。
「君、いい度胸してるね」
「ありがとうございます」
「いや、褒めてないからね?」
猫春のどこかズレた反応に、曽根崎は苛立った表情になる。
「――おもしれーじゃん。じゃあ、どっちが栞ちゃんと付き合えるか、勝負と行くか?」
「が、がんばります!」
いや、猫春くん可愛すぎか?
私の中ではすでに猫春に軍配が上がっていた。
趣味の話合うし、優しいし、可愛いし。
っていうか、今まで猫春の可愛さで気づかなかったけど、猫春も私の事好きじゃん。両思いじゃんこれ。
「私は猫春くんと付き合いたいですけど」
思わず口から漏れてしまった。
「――え?」
猫春はキョトンとした表情の後、またカーッと顔を真赤にし、曽根崎は絶望の表情を浮かべる。
「じゃ、じゃあ、僕と付き合ってくれますか?」
「喜んで」
目の前でトントン拍子に小学校からの想い人を奪われ、呆然とする曽根崎。ザマァ見ろ。
こうして、私、文月栞と、中島猫春の交際がスタートしたのであった。
〈続く〉
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