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桜の精にさらわれて(1話読み切り)
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雲ひとつない澄み渡った青空に、風にさらわれた桜の花びらが舞い上がっていく。
私の家の近くには、桜の名所と呼ばれている公園がある。
私はその道すがら、老舗の和菓子屋で桜餅を買い、ベンチに座って桜を眺めながら食べようと思い立って家を出た。
公園に行ってみると、実に活気がある。ジョギングコースを走るランナー。らんちき騒ぎをしている花見客。中にはスケッチブックを持って風景画を描きに来た学生もいるようだ。桜は満開で、風に吹かれるたびに薄桃色の花びらが宙に舞う、美しい光景が広がっていた。
空いているベンチに座って、早速和菓子屋で購入した桜餅を口に含むと、あんこの甘みと桜の葉の塩漬けの風味が見事なハーモニーを奏でる。やはり桜餅は和菓子屋で買うに限る。
おそらく、一度これを味わってしまえば、もうスーパーやコンビニで大量生産されているものには戻れないだろう。
そんな至福のひとときを過ごしていると、ふと、視線を感じた。
その大本を目で追うと、一本の桜が目についた。
――厳密には、その木の根元で独り、酒を飲んでいる女性が視界に入ったのである。
その女は、顔立ちも整っており、烏の濡れ羽色の髪を後ろでひとつ縛りにしているだけのシンプルな髪型でありながら、人の目を引くような華やかさがあった。
おそらく、その手に日本酒の一升瓶さえ握られていなければ、そして上下の赤いジャージ姿でなければ、ナンパしてくる男は星の数ほどいるだろう。
――なんだ、この女は。
なぜ、こんな真っ昼間から酒を飲んでいるのだろうか。
私は訝しんだ。
いや、昼間から酒を飲むのは花見だからまあわかる。
しかし、その女性はレジャーシートすら敷いておらず、他の花見客と一緒にどんちゃん騒ぎというわけでもない。
ただ、独り静かに地べたに座って日本酒を空けているのだ。
そんな女性の磨かれた黒曜石のような艶やかな目が、ベンチに座って彼女を眺めている私をじっと見つめ返していた。
――これは、なにか面倒事に巻き込まれそうだぞ。
私は嫌な予感がしていた。
「お兄さん、こっちに来て一緒に飲まないか?」
こちらに声をかけてくる女性は一升瓶を半分空にしているにもかかわらず、顔色ひとつ変わっていない。
酔っ払いというわけではなさそうだが……。
「この公園にひとりでいるのは危険だよ。特に今の時期はね」
「どういう意味ですか? 不審者でも出るのですか?」
私が尋ねると、女性は「下手したら不審者よりもタチの悪いものさ」と不可思議な話をし始めた。
彼女の言うには、この公園の桜はひとりで楽しそうに花見をしている人間を狙って連れ去ってしまうらしい。
そのため、今ひとりでベンチに腰掛け、桜餅を食べながら花見を楽しんでいる私は一番危険な状態なんだそうだ。
この女性が酒を飲んでいるのは、桜の精の気を引いて、他の花見客を守るためだとか。
彼女いわく、これまでに桜にさらわれた人間を、毎年奪還するのに苦労しているだのなんだのと、実に酔狂な話をしていた。
……この女性、顔に出てないだけでだいぶ酔ってらっしゃるな。
正直、まったく信憑性を感じない。私は相手にしないほうがいいと判断した。
そのまま無視して、桜餅を食べ続ける。
しかし、この妙な女性のせいで、あまり美味しく感じなくなってしまった。
じろじろと見つめられながら食事をするのも落ち着かない。
――やれやれ、せっかく至福の時間を過ごしていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
そろそろ帰ろうか、と思い、腰を上げたそのときである。
突然視界がピンク色に染まった。
桜吹雪が私の周りを激しく渦巻いているのだ。
花びらの嵐の中に閉じ込められた私へ、女性が「お兄さん!」と叫ぶが、もう彼女の姿すら視界に入れることが出来ない。
……そうして、私は不思議な現象をその身に味わうこととなったのだ。
花吹雪がやむと、公園の様子は一変した。
公園の外周をジョギングしているランナーもいなければ、つい先程まで馬鹿騒ぎをしていた花見客もいなくなっている。人っ子一人、犬の一匹すらいないのだ。
さすがにこの不気味なほど静まりかえった公園の様子に異常を感じてうろたえている私の手を、そっと握る小さな手の感触に、思わずバッと勢いよく振り返った。
それは、たいそう美しい容貌の幼い少女であった。
芸能界デビューしたらさぞかし人気子役になるだろうな、などという俗っぽい考えしか私には出てこないが、その少女は落ち着き払っていて、顔に感情を感じさせるような表情はない。長いストレートの黒髪と、クリクリとした大きな黒い目、桜色の着物を着た姿は、まるで人形のようだった。見たところ、小学校低学年くらいの年齢に見える。
「君は……? もしかして迷子かな?」
私はそっとしゃがんで、少女と目線を合わせる。
「ええと、お父さんやお母さんとはぐれたのかな?」
「いない」
迷子のわりには、泣き叫ぶわけでもなく、不安がっている様子もない。
もしかしたら、この子も例の桜にさらわれた子供なのかもしれないと思った。
今の状況がうまく理解できておらず、戸惑っているのかもしれない。
――とにかく、この子の親を探そう。それだけでなく、他の人間や手がかりも探したい。
私はそっと少女の手を握り返し、公園内を捜索することにした。
しかし、相変わらず公園には人の影すらも見当たらない。
ならば、警察に届ければ迷子の扱いはなんとかしてくれるだろう、と今度は公園を出ようとするが、それもなんだか様子がおかしい。
――公園から出ることが出来ない……?
公園の出口を目指し、どこまで歩いても、桜並木が延々と続くばかりで、まるで道がループしているようだった。
私は歩き疲れて、さすがにクタクタになってしまった。
「ごめんね、手間取ってしまって。もう少しでパパやママに会わせてあげるからね」
私は少女を安心させようと優しく声をかけた。
しかし、彼女は静かに首を横に振る。
「パパやママも、警察も探さなくていいよ」
「どうして?」
「お兄ちゃんに、一緒にいてほしいの」
その途端、少女と私の周りを取り囲むように、桜吹雪が渦を巻いた。
「ずっとここにいてほしい」
「君は――」
「さびしいの」
私は少女の言葉を聞くたびに、催眠にかかったようにどんどん意識が重く遠のいていく――。
そのときだった。
「お兄さん! ここにいたか!」
不意に桜吹雪の壁が一部剥がれた。
そこにぽっかり空いた空間を見やると、あの酒を飲んでいた女性が私に向かって手を差し出していた。
「私の手を取って!」
まぶたも体も自分のものではないかのように重く、ノロノロとした動きではあったが、私はなんとか手を伸ばし、女性の手を握った。
すると、桜吹雪は私から離れていき、少女の方へと集まっていく。
少女は桜吹雪に紛れて消えていき、最後にちらりと見えた表情は、とても寂しそうなものだった。
「いやぁ、危ないところだった。もう少しで君は帰り道を見失うところだったね」
女性が言うには、あの少女が『桜の精』らしい。
「これで少しは私の忠告を聞く気になったかい?」
私は二度と桜にさらわれないよう、女性とふたりで酒を酌み交わすことにした。
近所の神社で巫女をしているという彼女は、私のおすそ分けした桜餅をつまみに、満足そうに酒を飲んでいた。
なんでも、ボランティアで毎年こうして公園を見回り、桜の精が人間をさらおうとするのを阻止しているらしい。
私が酒を飲みながら、ふと空を見上げれば、風に吹かれて青空の遙か高くを桜吹雪が飛んでいた。
「あの子、『ともだち』を探しているんじゃないですかね」
「ふむ。しかし、そのために人間がひとり行方不明になるというのは大変なことだよ」
そこで、私がある提案をすると、巫女は「なるほど、一考の価値はあるかもしれない」とうなずいてくれた。
私は後日、手作りのぬいぐるみを持って公園に足を運び、桜の木の根本に置いて、手を合わせた。桜の精にお供え物をすることにしたのだ。
桜吹雪はぬいぐるみをあっという間に覆い尽くし、それが晴れた頃にはぬいぐるみは跡形もなく消えていた。
あの少女がぬいぐるみを気に入ってくれれば、そして、寂しさを少しでも紛らわせることができれば幸いである。
それ以来、その公園の桜が人をさらうことはなくなったそうだ。
〈了〉
私の家の近くには、桜の名所と呼ばれている公園がある。
私はその道すがら、老舗の和菓子屋で桜餅を買い、ベンチに座って桜を眺めながら食べようと思い立って家を出た。
公園に行ってみると、実に活気がある。ジョギングコースを走るランナー。らんちき騒ぎをしている花見客。中にはスケッチブックを持って風景画を描きに来た学生もいるようだ。桜は満開で、風に吹かれるたびに薄桃色の花びらが宙に舞う、美しい光景が広がっていた。
空いているベンチに座って、早速和菓子屋で購入した桜餅を口に含むと、あんこの甘みと桜の葉の塩漬けの風味が見事なハーモニーを奏でる。やはり桜餅は和菓子屋で買うに限る。
おそらく、一度これを味わってしまえば、もうスーパーやコンビニで大量生産されているものには戻れないだろう。
そんな至福のひとときを過ごしていると、ふと、視線を感じた。
その大本を目で追うと、一本の桜が目についた。
――厳密には、その木の根元で独り、酒を飲んでいる女性が視界に入ったのである。
その女は、顔立ちも整っており、烏の濡れ羽色の髪を後ろでひとつ縛りにしているだけのシンプルな髪型でありながら、人の目を引くような華やかさがあった。
おそらく、その手に日本酒の一升瓶さえ握られていなければ、そして上下の赤いジャージ姿でなければ、ナンパしてくる男は星の数ほどいるだろう。
――なんだ、この女は。
なぜ、こんな真っ昼間から酒を飲んでいるのだろうか。
私は訝しんだ。
いや、昼間から酒を飲むのは花見だからまあわかる。
しかし、その女性はレジャーシートすら敷いておらず、他の花見客と一緒にどんちゃん騒ぎというわけでもない。
ただ、独り静かに地べたに座って日本酒を空けているのだ。
そんな女性の磨かれた黒曜石のような艶やかな目が、ベンチに座って彼女を眺めている私をじっと見つめ返していた。
――これは、なにか面倒事に巻き込まれそうだぞ。
私は嫌な予感がしていた。
「お兄さん、こっちに来て一緒に飲まないか?」
こちらに声をかけてくる女性は一升瓶を半分空にしているにもかかわらず、顔色ひとつ変わっていない。
酔っ払いというわけではなさそうだが……。
「この公園にひとりでいるのは危険だよ。特に今の時期はね」
「どういう意味ですか? 不審者でも出るのですか?」
私が尋ねると、女性は「下手したら不審者よりもタチの悪いものさ」と不可思議な話をし始めた。
彼女の言うには、この公園の桜はひとりで楽しそうに花見をしている人間を狙って連れ去ってしまうらしい。
そのため、今ひとりでベンチに腰掛け、桜餅を食べながら花見を楽しんでいる私は一番危険な状態なんだそうだ。
この女性が酒を飲んでいるのは、桜の精の気を引いて、他の花見客を守るためだとか。
彼女いわく、これまでに桜にさらわれた人間を、毎年奪還するのに苦労しているだのなんだのと、実に酔狂な話をしていた。
……この女性、顔に出てないだけでだいぶ酔ってらっしゃるな。
正直、まったく信憑性を感じない。私は相手にしないほうがいいと判断した。
そのまま無視して、桜餅を食べ続ける。
しかし、この妙な女性のせいで、あまり美味しく感じなくなってしまった。
じろじろと見つめられながら食事をするのも落ち着かない。
――やれやれ、せっかく至福の時間を過ごしていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
そろそろ帰ろうか、と思い、腰を上げたそのときである。
突然視界がピンク色に染まった。
桜吹雪が私の周りを激しく渦巻いているのだ。
花びらの嵐の中に閉じ込められた私へ、女性が「お兄さん!」と叫ぶが、もう彼女の姿すら視界に入れることが出来ない。
……そうして、私は不思議な現象をその身に味わうこととなったのだ。
花吹雪がやむと、公園の様子は一変した。
公園の外周をジョギングしているランナーもいなければ、つい先程まで馬鹿騒ぎをしていた花見客もいなくなっている。人っ子一人、犬の一匹すらいないのだ。
さすがにこの不気味なほど静まりかえった公園の様子に異常を感じてうろたえている私の手を、そっと握る小さな手の感触に、思わずバッと勢いよく振り返った。
それは、たいそう美しい容貌の幼い少女であった。
芸能界デビューしたらさぞかし人気子役になるだろうな、などという俗っぽい考えしか私には出てこないが、その少女は落ち着き払っていて、顔に感情を感じさせるような表情はない。長いストレートの黒髪と、クリクリとした大きな黒い目、桜色の着物を着た姿は、まるで人形のようだった。見たところ、小学校低学年くらいの年齢に見える。
「君は……? もしかして迷子かな?」
私はそっとしゃがんで、少女と目線を合わせる。
「ええと、お父さんやお母さんとはぐれたのかな?」
「いない」
迷子のわりには、泣き叫ぶわけでもなく、不安がっている様子もない。
もしかしたら、この子も例の桜にさらわれた子供なのかもしれないと思った。
今の状況がうまく理解できておらず、戸惑っているのかもしれない。
――とにかく、この子の親を探そう。それだけでなく、他の人間や手がかりも探したい。
私はそっと少女の手を握り返し、公園内を捜索することにした。
しかし、相変わらず公園には人の影すらも見当たらない。
ならば、警察に届ければ迷子の扱いはなんとかしてくれるだろう、と今度は公園を出ようとするが、それもなんだか様子がおかしい。
――公園から出ることが出来ない……?
公園の出口を目指し、どこまで歩いても、桜並木が延々と続くばかりで、まるで道がループしているようだった。
私は歩き疲れて、さすがにクタクタになってしまった。
「ごめんね、手間取ってしまって。もう少しでパパやママに会わせてあげるからね」
私は少女を安心させようと優しく声をかけた。
しかし、彼女は静かに首を横に振る。
「パパやママも、警察も探さなくていいよ」
「どうして?」
「お兄ちゃんに、一緒にいてほしいの」
その途端、少女と私の周りを取り囲むように、桜吹雪が渦を巻いた。
「ずっとここにいてほしい」
「君は――」
「さびしいの」
私は少女の言葉を聞くたびに、催眠にかかったようにどんどん意識が重く遠のいていく――。
そのときだった。
「お兄さん! ここにいたか!」
不意に桜吹雪の壁が一部剥がれた。
そこにぽっかり空いた空間を見やると、あの酒を飲んでいた女性が私に向かって手を差し出していた。
「私の手を取って!」
まぶたも体も自分のものではないかのように重く、ノロノロとした動きではあったが、私はなんとか手を伸ばし、女性の手を握った。
すると、桜吹雪は私から離れていき、少女の方へと集まっていく。
少女は桜吹雪に紛れて消えていき、最後にちらりと見えた表情は、とても寂しそうなものだった。
「いやぁ、危ないところだった。もう少しで君は帰り道を見失うところだったね」
女性が言うには、あの少女が『桜の精』らしい。
「これで少しは私の忠告を聞く気になったかい?」
私は二度と桜にさらわれないよう、女性とふたりで酒を酌み交わすことにした。
近所の神社で巫女をしているという彼女は、私のおすそ分けした桜餅をつまみに、満足そうに酒を飲んでいた。
なんでも、ボランティアで毎年こうして公園を見回り、桜の精が人間をさらおうとするのを阻止しているらしい。
私が酒を飲みながら、ふと空を見上げれば、風に吹かれて青空の遙か高くを桜吹雪が飛んでいた。
「あの子、『ともだち』を探しているんじゃないですかね」
「ふむ。しかし、そのために人間がひとり行方不明になるというのは大変なことだよ」
そこで、私がある提案をすると、巫女は「なるほど、一考の価値はあるかもしれない」とうなずいてくれた。
私は後日、手作りのぬいぐるみを持って公園に足を運び、桜の木の根本に置いて、手を合わせた。桜の精にお供え物をすることにしたのだ。
桜吹雪はぬいぐるみをあっという間に覆い尽くし、それが晴れた頃にはぬいぐるみは跡形もなく消えていた。
あの少女がぬいぐるみを気に入ってくれれば、そして、寂しさを少しでも紛らわせることができれば幸いである。
それ以来、その公園の桜が人をさらうことはなくなったそうだ。
〈了〉
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