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第4章・玉藻ふたたび
第24話 信西入道
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八郎はすぐさま立ち上がり、無言のまま門前へと走る。
異変を感じ取り、善弘あらため法然坊もそれに続く。
門前に駆け付けてみると、やはり鬼若であった。
なんと血まみれの姿で、例の叡山の孤児たち数人に支えられ、息も絶え絶えに立っているではないか。
そして八郎の顔を見るや、
「おお、八郎か! 救けよ。時葉を救けよ!」
また大きく叫び、その場で昏倒した。
全身の傷も痛ましいが、うつ伏せに倒れたその背中には、一目見て刀傷と明らかな深い斬撃の跡があった。
八郎は血相を変え、即座に門番に命じる。
「すぐに家人の者共を呼び、傷の手当をせよ!」
そして孤児たちに尋ねた。
「いったい何が起こったのだ」
しかし、孤児たちは瀕死の鬼若のことが気に掛かるあまり、無言で八郎と鬼若を交互に見やるばかり。
門番もまた、事態を把握できぬまま、どうすべきかと立ち尽くすばかりである。
八郎は苛つき、ついに怒鳴った。
「これは俺の叡山での知己じゃ。何をしておるのだ。急げ!」
慌てて門番のひとりが家人を呼びに走り出す。
それを見届けて、八郎は今度は努めて表情をやわらげ、孤児たちに言った。
「これで鬼若はきっと大丈夫だ。致命の傷ではない。すぐに郎党が駆け付け、応急の手当てをするであろう。おっつけ薬師もやって来る。だから、気を落ち着けて何があったか話すのだ」
この言葉にやっと、仲間の中で最も年長の男児が応じた。
「信西入道じゃ」
「何だと? 信西がどうしたのだ」
「分らぬ。なぜか、わしらの住処を突然多くの公家侍が襲ってきて、何人もの仲間が斬られ、殺されたのじゃ。鬼若は応戦したのだが、相手は多数なうえ、太刀を持っておる。鬼若は稽古用の木の薙刀しか持っておらぬので」
「それで鬼若ほどの者が、いいように切り刻まれたのか」
「うん」
これを聞き、八郎は愕然とする。
しまった! 自分が矢で薙刀の刃を砕いたのが仇となったか。
なぜ護身用の新たな薙刀を渡しておかなかったのか。
今更ながらに悔やまれた。
「時葉はどうした」
「時葉も暫くは木剣で応じたが、終いには網で絡め捕られて」
「攫われたのか」
「うん。わしらは怖ろしゅうて隠れておったので、傷つかずに済んだのだが、去り際に奴らのひとりが、『これで信西様もお喜びになる』と笑っておった」
「それで信西か!」
八郎は察した。
藤原信西といえば、出家をしても俗界から離れる気などさらさら無く、今では少納言のまま本院の寵臣の地位に上り、あげくは政治を壟断する奸物である。
ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心を染めぬ ことをしぞ思ふ
などという歌を恥ずかしげもなく詠んでは都の噂となり、一部では嘲笑を買ったほどの生臭坊主。
つまり、出家して墨染めの衣に着替えても名ばかりのことで、心まで染めるつもりはないというのだ。
また、その権勢を背景に女色にも盛んに手を出し、法体にしてあるまじきことに、側女として召し、すぐに飽き、捨てた女は両手の指では数え切れぬという。
だからこそ傷を付けぬよう、網で絡め捕ったか。
時葉の運命は容易に予想できる。
しかし、比叡の山麓に住む時葉にまで何故ゆえに目をつけた。
ましてや信西入道は、俺の母である玉藻が昇殿した際の名目上の養父だったはず。
これは、俺自身に関わる何かの裏がある。
八郎の直感が、そう知らせていた。
館内へ運ばれた鬼若の下へと孤児たちを送り出すや、法然坊に向かって告げた。
「兄弟子、そういう訳で、俺には行かねばならぬ所ができたようだ。また会いましょうぞ」
法然は常と変わらぬ穏やかさで答える。
「そのようですね。ただ、お別れの前にひとつだけ無心して宜しいでしょうか」
「無心とは」
「先ほども申しました通り、これから鳥羽の離宮におわす新院様の所に行かなくてはならないのです。ここから一里あまり、徒歩で行けない距離ではありませんが、比叡から歩いて来ましたので、できれば馬をお貸し願えませんでしょうか。帰路には必ずやお返ししますから」
「そんなことなら、お安い御用じゃ」
八郎は厩番を呼び、法然に自分の馬を貸し与えるように命じた。
年かさの厩番は訝った。
「このお坊様が馬にお乗りになるので?」
この歳にして初めて聞く、僧と駿馬の組み合わせが信じられなかったのである。
しかし八郎は、
「ああ。兄弟子ならきっと大丈夫じゃ」
言い切るなり、自室に向かって飛ぶように走り去った。
厩番は仕方なく法然を案内し、八郎の乗馬に鞍を乗せ轡をつける。
そして、引き出したその馬に法然が跨った瞬間、馬は棹立ちになり大きく嘶いた。
初めて乗せる相手を警戒し、興奮したのだ。
(振り落とされる!)
厩番がそう思って目を覆った時、法然は上体を屈めて鐙をしっかりと踏み、手綱を引き締めて姿勢を安定させた。
馬が少し落ち着いたと見るや、首筋を掌で優しく叩く。
それから背を正し、館の敷地内をゆっくりと歩ませ、門の外に出た。
厩番は唖然としてそれを見送る。
六条から朱雀大路へと、人の行き交いを見計らいながら次第に速度を上げていく。
久しぶりとはいえ手慣れた騎乗である。
黒衣の僧が馬を走らせる姿はいかにも異様であり、否が応でも人々の目を引いた。
しかし法然は全く気にしない。
考えることはたったひとつ。
あの様子では八郎様はすぐさま信西館に乗り込み、大事をしでかすに違いない。
止めても無駄である。
ならば、寸時でも早く田中殿の新院様の下へ赴き、その力で事を収めて頂かねば。
寺ではなく離宮のこと、お会いするにも簡単にはいくまい。
急ぎに急ぐのだ。
法然は全身全霊で馬を駆った。
いっぽう自室に戻った八郎は、まず太刀を帯びる。
玉藻の残した長刀ではない。それは今また為義の所にある。
元服の儀に際して与えられた、それなりに名のある刀工の手になるとはいうものの、普通の太刀である。
うむ、これだけではやはり少し心もとないな。
そう思った時、法然の持ってきた弓が目に入った。
おお、これがあったか!
喜び、持てるだけの矢を箙に立てて腰に下げ、弓を持って走り出す。
信西入道の館は左京三条二坊にあり、同じく左京に位置する源氏館は六条二坊。
八郎の脚ならば急げばすぐの距離である。
堀川第から六条大路を東へ僅か一町、西洞院大路に出るや左に曲がり、八郎はひたすら疾走した。
ちょうどこの時刻、信西宅の奥の間には信西自身、後ろ手に縛られた時葉、そして長身の女人がいた。
なんと、玉藻である。
もう歳は三十に届いているはずだが、とてもそうは見えぬ。
若さはそのままに、浮世離れした妖艶さだけが増した風情である。
時葉は思った。
頭を剃り上げた老年の男は間違いなく信西であろうが、この高位らしき女はいったい誰なのだ。
「本当に、迎え撃って宜しいのですな」
「くどい! 申したでしょうに。八郎が来ぬならばそれで良し。だが、もしもこの娘を救いに来るようならば、これから先、わたくしたちの成そうとしている事にとって最大の邪魔となる。ここで討ち取ってしまいなさい」
信西は養父、玉藻は義理の娘のはずが、各々の口ぶりは、あたかも玉藻の方が上位のようであった。
「ただし、おそらく八郎は手強いですよ。心して掛かり、打ち漏らすことのなきように」
「畏まりました。手前の屋敷に雇い置く公家侍だけではなく、今日は他にも加勢がおりますれば」
信西の言う「加勢」とは、清盛と義朝である。
異変を感じ取り、善弘あらため法然坊もそれに続く。
門前に駆け付けてみると、やはり鬼若であった。
なんと血まみれの姿で、例の叡山の孤児たち数人に支えられ、息も絶え絶えに立っているではないか。
そして八郎の顔を見るや、
「おお、八郎か! 救けよ。時葉を救けよ!」
また大きく叫び、その場で昏倒した。
全身の傷も痛ましいが、うつ伏せに倒れたその背中には、一目見て刀傷と明らかな深い斬撃の跡があった。
八郎は血相を変え、即座に門番に命じる。
「すぐに家人の者共を呼び、傷の手当をせよ!」
そして孤児たちに尋ねた。
「いったい何が起こったのだ」
しかし、孤児たちは瀕死の鬼若のことが気に掛かるあまり、無言で八郎と鬼若を交互に見やるばかり。
門番もまた、事態を把握できぬまま、どうすべきかと立ち尽くすばかりである。
八郎は苛つき、ついに怒鳴った。
「これは俺の叡山での知己じゃ。何をしておるのだ。急げ!」
慌てて門番のひとりが家人を呼びに走り出す。
それを見届けて、八郎は今度は努めて表情をやわらげ、孤児たちに言った。
「これで鬼若はきっと大丈夫だ。致命の傷ではない。すぐに郎党が駆け付け、応急の手当てをするであろう。おっつけ薬師もやって来る。だから、気を落ち着けて何があったか話すのだ」
この言葉にやっと、仲間の中で最も年長の男児が応じた。
「信西入道じゃ」
「何だと? 信西がどうしたのだ」
「分らぬ。なぜか、わしらの住処を突然多くの公家侍が襲ってきて、何人もの仲間が斬られ、殺されたのじゃ。鬼若は応戦したのだが、相手は多数なうえ、太刀を持っておる。鬼若は稽古用の木の薙刀しか持っておらぬので」
「それで鬼若ほどの者が、いいように切り刻まれたのか」
「うん」
これを聞き、八郎は愕然とする。
しまった! 自分が矢で薙刀の刃を砕いたのが仇となったか。
なぜ護身用の新たな薙刀を渡しておかなかったのか。
今更ながらに悔やまれた。
「時葉はどうした」
「時葉も暫くは木剣で応じたが、終いには網で絡め捕られて」
「攫われたのか」
「うん。わしらは怖ろしゅうて隠れておったので、傷つかずに済んだのだが、去り際に奴らのひとりが、『これで信西様もお喜びになる』と笑っておった」
「それで信西か!」
八郎は察した。
藤原信西といえば、出家をしても俗界から離れる気などさらさら無く、今では少納言のまま本院の寵臣の地位に上り、あげくは政治を壟断する奸物である。
ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心を染めぬ ことをしぞ思ふ
などという歌を恥ずかしげもなく詠んでは都の噂となり、一部では嘲笑を買ったほどの生臭坊主。
つまり、出家して墨染めの衣に着替えても名ばかりのことで、心まで染めるつもりはないというのだ。
また、その権勢を背景に女色にも盛んに手を出し、法体にしてあるまじきことに、側女として召し、すぐに飽き、捨てた女は両手の指では数え切れぬという。
だからこそ傷を付けぬよう、網で絡め捕ったか。
時葉の運命は容易に予想できる。
しかし、比叡の山麓に住む時葉にまで何故ゆえに目をつけた。
ましてや信西入道は、俺の母である玉藻が昇殿した際の名目上の養父だったはず。
これは、俺自身に関わる何かの裏がある。
八郎の直感が、そう知らせていた。
館内へ運ばれた鬼若の下へと孤児たちを送り出すや、法然坊に向かって告げた。
「兄弟子、そういう訳で、俺には行かねばならぬ所ができたようだ。また会いましょうぞ」
法然は常と変わらぬ穏やかさで答える。
「そのようですね。ただ、お別れの前にひとつだけ無心して宜しいでしょうか」
「無心とは」
「先ほども申しました通り、これから鳥羽の離宮におわす新院様の所に行かなくてはならないのです。ここから一里あまり、徒歩で行けない距離ではありませんが、比叡から歩いて来ましたので、できれば馬をお貸し願えませんでしょうか。帰路には必ずやお返ししますから」
「そんなことなら、お安い御用じゃ」
八郎は厩番を呼び、法然に自分の馬を貸し与えるように命じた。
年かさの厩番は訝った。
「このお坊様が馬にお乗りになるので?」
この歳にして初めて聞く、僧と駿馬の組み合わせが信じられなかったのである。
しかし八郎は、
「ああ。兄弟子ならきっと大丈夫じゃ」
言い切るなり、自室に向かって飛ぶように走り去った。
厩番は仕方なく法然を案内し、八郎の乗馬に鞍を乗せ轡をつける。
そして、引き出したその馬に法然が跨った瞬間、馬は棹立ちになり大きく嘶いた。
初めて乗せる相手を警戒し、興奮したのだ。
(振り落とされる!)
厩番がそう思って目を覆った時、法然は上体を屈めて鐙をしっかりと踏み、手綱を引き締めて姿勢を安定させた。
馬が少し落ち着いたと見るや、首筋を掌で優しく叩く。
それから背を正し、館の敷地内をゆっくりと歩ませ、門の外に出た。
厩番は唖然としてそれを見送る。
六条から朱雀大路へと、人の行き交いを見計らいながら次第に速度を上げていく。
久しぶりとはいえ手慣れた騎乗である。
黒衣の僧が馬を走らせる姿はいかにも異様であり、否が応でも人々の目を引いた。
しかし法然は全く気にしない。
考えることはたったひとつ。
あの様子では八郎様はすぐさま信西館に乗り込み、大事をしでかすに違いない。
止めても無駄である。
ならば、寸時でも早く田中殿の新院様の下へ赴き、その力で事を収めて頂かねば。
寺ではなく離宮のこと、お会いするにも簡単にはいくまい。
急ぎに急ぐのだ。
法然は全身全霊で馬を駆った。
いっぽう自室に戻った八郎は、まず太刀を帯びる。
玉藻の残した長刀ではない。それは今また為義の所にある。
元服の儀に際して与えられた、それなりに名のある刀工の手になるとはいうものの、普通の太刀である。
うむ、これだけではやはり少し心もとないな。
そう思った時、法然の持ってきた弓が目に入った。
おお、これがあったか!
喜び、持てるだけの矢を箙に立てて腰に下げ、弓を持って走り出す。
信西入道の館は左京三条二坊にあり、同じく左京に位置する源氏館は六条二坊。
八郎の脚ならば急げばすぐの距離である。
堀川第から六条大路を東へ僅か一町、西洞院大路に出るや左に曲がり、八郎はひたすら疾走した。
ちょうどこの時刻、信西宅の奥の間には信西自身、後ろ手に縛られた時葉、そして長身の女人がいた。
なんと、玉藻である。
もう歳は三十に届いているはずだが、とてもそうは見えぬ。
若さはそのままに、浮世離れした妖艶さだけが増した風情である。
時葉は思った。
頭を剃り上げた老年の男は間違いなく信西であろうが、この高位らしき女はいったい誰なのだ。
「本当に、迎え撃って宜しいのですな」
「くどい! 申したでしょうに。八郎が来ぬならばそれで良し。だが、もしもこの娘を救いに来るようならば、これから先、わたくしたちの成そうとしている事にとって最大の邪魔となる。ここで討ち取ってしまいなさい」
信西は養父、玉藻は義理の娘のはずが、各々の口ぶりは、あたかも玉藻の方が上位のようであった。
「ただし、おそらく八郎は手強いですよ。心して掛かり、打ち漏らすことのなきように」
「畏まりました。手前の屋敷に雇い置く公家侍だけではなく、今日は他にも加勢がおりますれば」
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