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第3章・比叡へ
第19話 鬼若
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八郎と重季が持ち込んだ山鳩、雉、鹿を見て孤児たちは歓声を上げた。
すぐに山刀を出してきて解体にかかる。
鳥の首を落として血を抜き、羽根を毟る。
鹿の臓物を取り出し、皮を剝ぐ。
洞窟の前には血と内臓、肉の臭いが漂った。
その中に一人、並外れて大きな男がいた。
歓声を聞き、洞窟の奥からのっそりと起き上がってきた男である。
蓬髪だが墨染めの僧衣を着て、なんと長薙刀を短く持って鹿を捌き始めたのだ。
とても子供には見えぬ。
重季が時葉に尋ねた。
「あれも孤児なのか」
「ああ、鬼若か」
「鬼若とは大層な名前ではないか。すると、元は武士か公家の出か」
「そうかもな。自身が言うには熊野の別当の子で、乱暴が過ぎて叡山に入れられたが、勉学が嫌いで全く修行をしない。それで僧兵に組み入れられたあげく、そこでも兄弟子と喧嘩になり、何人もを殴り倒して寺を追い出されたのだとか。まあ、本人が言っているだけだがな」
最後に時葉は、またその癖である冷笑を浮かべた。
地位や生まれを誇る者を憎んでいるのであろうか。
あの出会い以来、重季が時葉と言葉を交わすのは、これが初めてである。
重季は鬼若と呼ばれた僧衣の男を凝視する。
よほど気になったのだろう。
男も自分のことが話題にされているのが聞こえたか、ふと手を止めたが、また無言で鹿の解体に戻った。
時葉は鬼若の様子など、てんで気にせず話を続けた。
「まあ、ここでは生まれや経歴など無意味だからな。元が武士であろうと僧であろうと関係ない。私もこれでも公家の端くれの生まれぞ」
今度は八郎が合点した。
やはりそうか。
ならば、この娘の論や言葉の隠さずして巧みな洗練も、「時葉」という雅な名前も納得がいくというものだ。
しかし当の時葉は、
「ははは、信じたか! 嘘に決まっておろう」
と笑い飛ばし、続けた。
「とにかく、用心棒代わりに仲間に入れた。身体は人並外れて大きいが、あれでもまだ歳は十三だそうな」
「ほう」
この言葉に八郎も鬼若を注視する。
聞く者を翻弄するような時葉の言も言だが、それにしてもこの男だ。
自分と三つしか違わないではないか。
俺も歳の割に丈が高いとよく言われるが、こいつは遥かに大きそうだ。
浮浪児たちの例にもれず痩せてはいるが、骨組みは逞しく、その腕は筋肉隆々。
相当に鍛えておるな。
じっと眺めていると鬼若が大声を出した。
「終わったぞ。火を起こせ!」
すぐに火が焚かれ、肉が焼け、臓物が鍋で煮られる。
味付けは何もない。
貧しさを極める孤児たちの食事であるからには当然だ。
ここで八郎は塩と味噌を差し出した。
子供たちは狂喜した。
「塩じゃ!」
「味噌まであるぞ!」
肉に塩を振り、鍋に味噌を溶き入れて孤児たちの饗宴が始まる。
この頃の味噌はまだ貴重品である。初めて口にした子供もいただろう。
青白かった子供たちの顔が、腹が膨れるにつれて次第に紅潮し、歌や踊りまでが飛び出した。
八郎は思った。
やはり来て良かったな。
世の中にはまだ、俺の知らぬ世界が多くある。
それにしても、さすがは兄弟子だ。
俺の話を聞き、こういうこともあろうかと塩と味噌を持たせてくれるとは。
しかし、饗宴もなかばを過ぎて孤児たちの空腹も癒えかけた頃、不意に鬼若が立ち上がるや、八郎に向かって怒鳴った。
「貴様、なぜ食おうとせん。わしたちと同じ食事はできんというのか!」
「いや、決して若君は、そういうことではないのだ」
自分に代わって弁明しようとした重季をとどめ、八郎自らが答える。
「俺はこれでも寺に厄介になっている身だからな。まあ今は一応のところ仏弟子よ。だから少なくとも叡山にいる間は肉や魚を口にする訳にはいくまい」
これが鬼若の癪に障った。
寺を追われた自分の身と比べたのであろうか。
大音声で叫ぶように言った。
「気に入らん。わしと勝負せい!」
その声は山間の静寂を裂き、辺り一帯に轟いた。
「いいぞ」
八郎はいとも簡単に答える。
これに慌てたのは重季である。
「若君。このような下郎相手に勝負などと、御冗談が過ぎます」
下郎よばわりに鬼若の眉が逆立つ。
八郎は言った。
「冗談ではない。それに下郎とは何事じゃ。俺は寺に来て、人には上下の別など無いと教わったぞ」
「ですが、いきなりこんな場所で」
「武士ならば、いつどこで誰が相手であろうと、挑まれて逃げる訳にはいくまいよ」
だが、鬼若は八郎のこの軽い態度にますます怒りを募らせた。
「貴様、ふざけておるのか! わしは本気ぞ」
「別にふざけてなどおらぬが、腹が立ったなら謝ろう。俺はいつもこんな調子なのだ。よく兄弟子にも注意されるが、なかなか治らん。自分でも持て余しておる」
「つべこべ言わず、立て!」
鬼若は傍らに置いてあった薙刀を取り上げた。
木で作った稽古用のものではない。つい先ほど鹿の肉を捌いた抜身である。
重季と、そして時葉もさすがに驚く。
「待て待てい! 本身での勝負とは只事ではないぞ。正気か」
「鬼若、いい加減にせよ!」
鬼若は二人には取り合わず、また大声で八郎に問うた。
「わしはこの薙刀で戦う。お前の得物は何じゃ」
「得物といっても、そうだなあ」
八郎の口ぶりは相変わらず悠然としたものである。
軽く周りを見渡して、
「俺は木剣しか持っておらぬが、おお、そうだ。狩に使う短弓ならあるぞ。飛び道具でも構わぬなら、これで相手するが」
「構わん。それで勝負だ」
八郎は弓を持って立ち上がった。
重季は今度は逆の意味で危惧した。
若君の弓の腕は知っている。よもや悪僧崩れに後れを取ることはあるまい。
だが、万が一に殺めぬまでも、この聖域内で人を傷つければ、たとえそれが浮浪児のひとりでも面倒なことになろう。
ここはやはり自分が代わって相手をするべきではないのか。
しかし八郎は平然と重季に言う。
「心配するな。ちょっと遊んでやるだけさ」
二人はおよそ四間の距離を置いて相対した。
弓には近く、薙刀には僅かに遠い間合いである。
重季、時葉を始め、孤児たちも固唾を呑んでこれを見守る。
鬼若は真横に伸ばした右手に薙刀を持ち、仁王立ちの構えである。
よほど自身があるとみえ、顔にはもう薄笑いが浮かんでいる。
八郎の矢を避けきれると思っているのだ。
ふん。
多少は弓を使うとはいえ、鳥や獣を狩るのと戦いは違う。
矢が来ると知っていれば避けるのは簡単だ。
一の矢さえ凌げば、次の矢をつがえるまでには僅かの間が生じる。
そこで一気に距離を詰め、薙刀の峰か柄で叩き伏せてやれば終わりよ。
石突で胸か鳩尾に打突を喰らわせてやってもよい。
得物に弓を選ぶとは、飛び道具なら利があるとでも思ったか。
殺しまではせぬが、いささか痛い目をみて貰うぞ。
八郎は、きりきりと弓の弦を引き絞る。
猟師の使う丸木弓ではない。
山中で使いやすいように短弓に仕立ててはあるが、竹と木を何重にも張り合わせた強弓である。
かつて八郎の力に耐えきれずに次々と弓が壊れ、その度に重季が奔走して新調し、今のものはなんと三人張に達していた。
顔はいかにも楽し気な笑顔である。
そして弓手をゆっくりと下ろして構えを改め、正面を向き、ぴたりと狙いを定めた。
ここで鬼若は不審に思う。
(なんだ? 狙いがずれておるではないか。何を狙っているのだ)
しかしもう遅い。八郎は矢を放った。
その矢は恐るべき弓勢で、しかし鬼若の身体からは僅かに外れた方向へと飛んだ。
まさかの八郎の射違え、鬼若の勝ちと思われた。
だがその瞬間、甲高い金属音が響いた。
「あっ!」
鬼若自身が驚愕の声を上げた。
矢は薙刀の刃にしたたかに命中し、粉々に砕いたのである。
あまりの速度に、鬼若は一歩も動けなかった。
子供たちが歓声を上げる。手を叩く。
「ううむ」
鬼若は一声唸り、そして沈黙した。
心中では素直に八郎を認め、驚き感心する。
(よほどの速度と正確さがなければ成し得ることではない。これはまさに天狗の仕業だ)
そしてこの日から、八郎の新たな稽古相手ができた。
それも二人。
もちろん鬼若と、そして時葉である。
すぐに山刀を出してきて解体にかかる。
鳥の首を落として血を抜き、羽根を毟る。
鹿の臓物を取り出し、皮を剝ぐ。
洞窟の前には血と内臓、肉の臭いが漂った。
その中に一人、並外れて大きな男がいた。
歓声を聞き、洞窟の奥からのっそりと起き上がってきた男である。
蓬髪だが墨染めの僧衣を着て、なんと長薙刀を短く持って鹿を捌き始めたのだ。
とても子供には見えぬ。
重季が時葉に尋ねた。
「あれも孤児なのか」
「ああ、鬼若か」
「鬼若とは大層な名前ではないか。すると、元は武士か公家の出か」
「そうかもな。自身が言うには熊野の別当の子で、乱暴が過ぎて叡山に入れられたが、勉学が嫌いで全く修行をしない。それで僧兵に組み入れられたあげく、そこでも兄弟子と喧嘩になり、何人もを殴り倒して寺を追い出されたのだとか。まあ、本人が言っているだけだがな」
最後に時葉は、またその癖である冷笑を浮かべた。
地位や生まれを誇る者を憎んでいるのであろうか。
あの出会い以来、重季が時葉と言葉を交わすのは、これが初めてである。
重季は鬼若と呼ばれた僧衣の男を凝視する。
よほど気になったのだろう。
男も自分のことが話題にされているのが聞こえたか、ふと手を止めたが、また無言で鹿の解体に戻った。
時葉は鬼若の様子など、てんで気にせず話を続けた。
「まあ、ここでは生まれや経歴など無意味だからな。元が武士であろうと僧であろうと関係ない。私もこれでも公家の端くれの生まれぞ」
今度は八郎が合点した。
やはりそうか。
ならば、この娘の論や言葉の隠さずして巧みな洗練も、「時葉」という雅な名前も納得がいくというものだ。
しかし当の時葉は、
「ははは、信じたか! 嘘に決まっておろう」
と笑い飛ばし、続けた。
「とにかく、用心棒代わりに仲間に入れた。身体は人並外れて大きいが、あれでもまだ歳は十三だそうな」
「ほう」
この言葉に八郎も鬼若を注視する。
聞く者を翻弄するような時葉の言も言だが、それにしてもこの男だ。
自分と三つしか違わないではないか。
俺も歳の割に丈が高いとよく言われるが、こいつは遥かに大きそうだ。
浮浪児たちの例にもれず痩せてはいるが、骨組みは逞しく、その腕は筋肉隆々。
相当に鍛えておるな。
じっと眺めていると鬼若が大声を出した。
「終わったぞ。火を起こせ!」
すぐに火が焚かれ、肉が焼け、臓物が鍋で煮られる。
味付けは何もない。
貧しさを極める孤児たちの食事であるからには当然だ。
ここで八郎は塩と味噌を差し出した。
子供たちは狂喜した。
「塩じゃ!」
「味噌まであるぞ!」
肉に塩を振り、鍋に味噌を溶き入れて孤児たちの饗宴が始まる。
この頃の味噌はまだ貴重品である。初めて口にした子供もいただろう。
青白かった子供たちの顔が、腹が膨れるにつれて次第に紅潮し、歌や踊りまでが飛び出した。
八郎は思った。
やはり来て良かったな。
世の中にはまだ、俺の知らぬ世界が多くある。
それにしても、さすがは兄弟子だ。
俺の話を聞き、こういうこともあろうかと塩と味噌を持たせてくれるとは。
しかし、饗宴もなかばを過ぎて孤児たちの空腹も癒えかけた頃、不意に鬼若が立ち上がるや、八郎に向かって怒鳴った。
「貴様、なぜ食おうとせん。わしたちと同じ食事はできんというのか!」
「いや、決して若君は、そういうことではないのだ」
自分に代わって弁明しようとした重季をとどめ、八郎自らが答える。
「俺はこれでも寺に厄介になっている身だからな。まあ今は一応のところ仏弟子よ。だから少なくとも叡山にいる間は肉や魚を口にする訳にはいくまい」
これが鬼若の癪に障った。
寺を追われた自分の身と比べたのであろうか。
大音声で叫ぶように言った。
「気に入らん。わしと勝負せい!」
その声は山間の静寂を裂き、辺り一帯に轟いた。
「いいぞ」
八郎はいとも簡単に答える。
これに慌てたのは重季である。
「若君。このような下郎相手に勝負などと、御冗談が過ぎます」
下郎よばわりに鬼若の眉が逆立つ。
八郎は言った。
「冗談ではない。それに下郎とは何事じゃ。俺は寺に来て、人には上下の別など無いと教わったぞ」
「ですが、いきなりこんな場所で」
「武士ならば、いつどこで誰が相手であろうと、挑まれて逃げる訳にはいくまいよ」
だが、鬼若は八郎のこの軽い態度にますます怒りを募らせた。
「貴様、ふざけておるのか! わしは本気ぞ」
「別にふざけてなどおらぬが、腹が立ったなら謝ろう。俺はいつもこんな調子なのだ。よく兄弟子にも注意されるが、なかなか治らん。自分でも持て余しておる」
「つべこべ言わず、立て!」
鬼若は傍らに置いてあった薙刀を取り上げた。
木で作った稽古用のものではない。つい先ほど鹿の肉を捌いた抜身である。
重季と、そして時葉もさすがに驚く。
「待て待てい! 本身での勝負とは只事ではないぞ。正気か」
「鬼若、いい加減にせよ!」
鬼若は二人には取り合わず、また大声で八郎に問うた。
「わしはこの薙刀で戦う。お前の得物は何じゃ」
「得物といっても、そうだなあ」
八郎の口ぶりは相変わらず悠然としたものである。
軽く周りを見渡して、
「俺は木剣しか持っておらぬが、おお、そうだ。狩に使う短弓ならあるぞ。飛び道具でも構わぬなら、これで相手するが」
「構わん。それで勝負だ」
八郎は弓を持って立ち上がった。
重季は今度は逆の意味で危惧した。
若君の弓の腕は知っている。よもや悪僧崩れに後れを取ることはあるまい。
だが、万が一に殺めぬまでも、この聖域内で人を傷つければ、たとえそれが浮浪児のひとりでも面倒なことになろう。
ここはやはり自分が代わって相手をするべきではないのか。
しかし八郎は平然と重季に言う。
「心配するな。ちょっと遊んでやるだけさ」
二人はおよそ四間の距離を置いて相対した。
弓には近く、薙刀には僅かに遠い間合いである。
重季、時葉を始め、孤児たちも固唾を呑んでこれを見守る。
鬼若は真横に伸ばした右手に薙刀を持ち、仁王立ちの構えである。
よほど自身があるとみえ、顔にはもう薄笑いが浮かんでいる。
八郎の矢を避けきれると思っているのだ。
ふん。
多少は弓を使うとはいえ、鳥や獣を狩るのと戦いは違う。
矢が来ると知っていれば避けるのは簡単だ。
一の矢さえ凌げば、次の矢をつがえるまでには僅かの間が生じる。
そこで一気に距離を詰め、薙刀の峰か柄で叩き伏せてやれば終わりよ。
石突で胸か鳩尾に打突を喰らわせてやってもよい。
得物に弓を選ぶとは、飛び道具なら利があるとでも思ったか。
殺しまではせぬが、いささか痛い目をみて貰うぞ。
八郎は、きりきりと弓の弦を引き絞る。
猟師の使う丸木弓ではない。
山中で使いやすいように短弓に仕立ててはあるが、竹と木を何重にも張り合わせた強弓である。
かつて八郎の力に耐えきれずに次々と弓が壊れ、その度に重季が奔走して新調し、今のものはなんと三人張に達していた。
顔はいかにも楽し気な笑顔である。
そして弓手をゆっくりと下ろして構えを改め、正面を向き、ぴたりと狙いを定めた。
ここで鬼若は不審に思う。
(なんだ? 狙いがずれておるではないか。何を狙っているのだ)
しかしもう遅い。八郎は矢を放った。
その矢は恐るべき弓勢で、しかし鬼若の身体からは僅かに外れた方向へと飛んだ。
まさかの八郎の射違え、鬼若の勝ちと思われた。
だがその瞬間、甲高い金属音が響いた。
「あっ!」
鬼若自身が驚愕の声を上げた。
矢は薙刀の刃にしたたかに命中し、粉々に砕いたのである。
あまりの速度に、鬼若は一歩も動けなかった。
子供たちが歓声を上げる。手を叩く。
「ううむ」
鬼若は一声唸り、そして沈黙した。
心中では素直に八郎を認め、驚き感心する。
(よほどの速度と正確さがなければ成し得ることではない。これはまさに天狗の仕業だ)
そしてこの日から、八郎の新たな稽古相手ができた。
それも二人。
もちろん鬼若と、そして時葉である。
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