上 下
6 / 46
序の巻 第1章・八郎誕生

第6話 玉藻の昇殿

しおりを挟む
 頼長との対面以来、為義はいっそう鬱々として楽しむところがない。
 いかに先の関白御寵愛の息子とはいえ、あの若造め、この儂に向かって妾を差し出せとは何たる言い草ぞ。
 しかも任官を餌にしての雑言だけに腹が煮える。祖父・義家公以来の武勇を誇り、摂関家にも忠義を尽くしてきた我が家を何と心得ておるのだ。
 などと繰り返し憤慨はするものの、ただの悔し紛れである。
 任官に対する己の渇望の程を見透かされたのも恥辱だったが、院の予想以上に激しいお怒りを改めて知った時は愚かにも、あからさまに狼狽した。

(我ながらなんたる失態ぞ! 何とか為すすべはないのか)

 為義の焦燥は傍目にも明らかな程であった。
 玉藻を差し出すという選択には故意に考えを巡らさぬようにし、更に数日が過ぎる。
 すると頼長邸から意外な知らせがもたらされた。占術の結果が不吉だとして、玉藻の昇殿に権陰陽博士が異を唱えているらしい。
 当代の権陰陽博士は安倍泰親。天文密奏者を兼ね、かの安倍晴明の嫡流である。院自ら召し出された逸材であり、その占卜は神技に迫り、十のうち八は的中する。位階は低いものの、この者の言を誰も無下にはできないのだという。

 為義はこれを聞いて余裕を取り戻す。
 嘲笑すべし。わざわざ人を呼び出し迫っておいて、この始末とは。
 たかが占いではないか。そんな戯れ事に振り回されるとは、世に名高い俊才も底が知れるわい。
 この源為義ともあろうものが、官位欲しさに家名に恥じる真似をしてなるものか!
 気の晴れる思いがした。

 そして初めて玉藻にも事の次第を話す。
 これまでは秘しておいた、いや、話す気になれなかったのである。
 しかし今宵、為義は上機嫌であった。ぐいぐいと杯を空けながら、頼長邸に呼び付けられたこと、先方の申しよう、陰陽師の異論までを立て続けに語った。

「そのあげくが、このていたらくよ。腰砕けとはこのことじゃ。呆れてしまって怒る気にもなれんわい」

 玉藻は一部始終を黙って聞いていたが、最後にひとつだけ尋ねた。

「それで貴男あなた様は、はっきりとお断りにはならなかったのですね」
「ああ。摂関家の顔を立て、一応のところ返事は保留しておいた。しかし同じことじゃ。何せ向こうから不都合を知らせてきたのじゃからな」
「そうですか」

 玉藻は立ち上がった。無言のまま出て行こうとする。
 その後ろ姿に為義は問うた。

「何処へ行くのじゃ」

 玉藻は振り返り、微笑んだ。

「いささか御酒が過ぎました。庭の風に当たって参ります」

 そしてこの夜、帰らなかった。
 権陰陽博士・安倍泰親変死の報が伝えられたのは翌早朝である。源氏館に帰るなり頼長邸からの使者が訪れたのだ。
 人払いをした上で聞いた使者の言に為義は驚愕した。

「何じゃと! 急な病か何かか」

 使者は小声で答えた。

「いいえ。表向きには伏せられておりますが、昨夜自室で首を吊ったとかで」

 昨夜といえば、まさか……
 夜明けまで玉藻を待っていた為義は、なかば朦朧とした頭を叩いて考える。
 玉藻は昨夜から帰ってきていない。
 庭の風に当たってくると言ったまま、行先も告げず屋敷を出て、いきなりその夜のうちの泰親の変死である。
 しかし、女の細腕で大の男を絞殺し、その上で自ら首を吊ったと見せかけるなどできるものか。それこそ妖の術でも用いぬ事には。
 考え過ぎであろうか。いや、あの女ならあり得る。

 そう思い至った時、為義の思考は言い知れぬ不安に変じた。
 もしかして、儂が始終腹を立てながら、それでもあの女にこれほど魅了されるのも、何かの呪術、妖術ではないのか。
 その上、一介の女の身で高名な陰陽師を殺めるとは。
 さては院のお側に上がるのが望みか。いや、それだけではあるまい。身の栄達などには常々から何の興味も無さそうな女なのだ。いったい何を企んでおるのか。
 ここまで思って慄然とした。

(とにかく、これ以上あの女を自分のもとに置いておき、源家に関わらせるのは危うい!)

 玉藻を手放す気になったのはこの時である。
 すぐに頼長邸を自ら訪れ、承諾の旨を告げる。
 為義はひとつだけ確認した。

「実は玉藻には子供がおります。このことは御存知でしょうな」
「もちろん承知の上じゃ。だからこそ一旦は高階家の養女となし、その子とは無関係として、全く新たに院の下に召すことにしたのだ」

 承知とは院の御存念か、それとも頼長自身のことか。
 とにかく頼長は上機嫌であった。邪魔な陰陽師もいなくなり、才を誇る自分の目論見通りに全てが進むと思えたからである。

 夕刻になり、下女が館に来て玉藻の帰りを知らせた。
 為義はすぐに玉藻の邸に向かい、権陰陽博士の急死と、院の思し召しに従うと決めたことを告げる。昨夜来のことは何も問いたださなかった。手放すと決めた以上、今やどんな返事を得ても無意味と判断したのだ。
 玉藻もまた、院に召されることについて特に何も言わなかった。
 やがて玉藻は高階邸に移り、十一月早々には院の御側に上った。
 こうしてたま藻前ものまえと呼ばれる寵姫が誕生し、為義の元には玉藻が嘗て下げていた太刀だけが残された。さすがに剣をたずさえて昇殿することは許されなかったのである。

 その翌月七日にはもう、世を仰天させることが起こる。まだ二十三になられたばかりの今上のみかどが、異母弟のなりひと親王に突然と譲位なされたのだ。新帝は御年おんとし僅か三歳。八郎と同い年である。
 これ以降、今まで単に院と呼ばれていた御方は「本院」または「一院」と通称され、新たに退位なされた帝は「新院」、後の世では崇徳院と呼ばれることになる。
 京雀はかしましい。いつしか洛内外に幾つもの噂が飛び交った。

「この度、上皇様に仕えることになった女御にょうごは、古今の和歌や三国の故実に大層お詳しく、知らぬことはないらしい」
「上皇様はいたくお気に召して、片時も側からお離しにならないのだ」
「何でも、それぞれにけんを競う殿中の女どもの中でも格別な、誰しも恋焦がれてしまう程の美しさだとか」
「殿中にて夜に催された歌会で、不意に灯りが消えて真っ暗になったのが、その女御の身体が眩しく光り始め、真昼のように明るくなったというぞ」
「今回の突然の譲位も、件の女御が院に働きかけ、帝に強いてのことらしい」
「傾国の妖女じゃ。からの国に伝え聞く妲己や褒娰の類である」

 面白半分の噂は、その数と度を増していった。
 しかし八郎はこれらの噂を全く知らずにいた。今や堀川の源氏館では玉藻について語るのはきつく禁じられ、八郎は江口の名もなき遊女の産んだ子として育てられることになったからである。

しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

浅井長政は織田信長に忠誠を誓う

ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

日本には1942年当時世界最強の機動部隊があった!

明日ハレル
歴史・時代
第2次世界大戦に突入した日本帝国に生き残る道はあったのか?模索して行きたいと思います。 当時6隻の空母を集中使用した南雲機動部隊は航空機300余機を持つ世界最強の戦力でした。 ただ彼らにもレーダーを持たない、空母の直掩機との無線連絡が出来ない、ダメージコントロールが未熟である。制空権の確保という理論が判っていない、空母戦術への理解が無い等多くの問題があります。 空母が誕生して戦術的な物を求めても無理があるでしょう。ただどの様に強力な攻撃部隊を持っていても敵地上空での制空権が確保できなけれな、簡単に言えば攻撃隊を守れなけれな無駄だと言う事です。 空母部隊が対峙した場合敵側の直掩機を強力な戦闘機部隊を攻撃の前の送って一掃する手もあります。 日本のゼロ戦は優秀ですが、悪迄軽戦闘機であり大馬力のPー47やF4U等が出てくれば苦戦は免れません。 この為旧式ですが96式陸攻で使われた金星エンジンをチューンナップし、金星3型エンジン1350馬力に再生させこれを積んだ戦闘機、爆撃機、攻撃機、偵察機を陸海軍共通で戦う。 共通と言う所が大事で国力の小さい日本には試作機も絞って開発すべきで、陸海軍別々に開発する余裕は無いのです。 その他数多くの改良点はありますが、本文で少しづつ紹介して行きましょう。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...