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序の巻 第1章・八郎誕生

第5話 頼長卿

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 保延七年は盛夏にみことのりがあり、永治と改元された。
 為義はもう四十七になっていた。

(飯が不味い!)

 箸を置き、今日も膳を中途で下げさせる。
 夏の暑さや蝉の声のうるささでも、身体の調子が悪いのでもない。猟官が思い通りにいかぬのに苛立っているのである。
 検非違使の官を失ってから、はや五年。当初は「いずれまた」と高をくくっていた為義も、このところの平家一門の隆盛に比べて我が身の不遇を嘆かずにはいられない。

 二男である義賢の件も痛恨事であった。一昨年、躰仁なりひと親王の立太子に際して、東宮を警護する帯刀の長という要職に任じられながら、翌年にはもう、さる不祥事のかどで罷免されてしまったのだ。
 関東に下した義朝に代わる嫡男として期待を寄せていた矢先の任官、そして早々の解官であっただけに、為義の落胆は傍目にも相当なものであった。

 このままでは自身も一門も衰退するばかり。
 為義は正直焦っていた。

(儂はこのまま朽ち果ててしまうのか?)

 様々な伝手を頼って官職への復帰を図るが、結果は全てかんばしからず。聞けば、三条殿におわす上皇様の勘気が未だ解けないのだとか。
 事態の打開のためには、やはり、河内源氏の旧主たる藤原摂関家に頼るしかないのか。

 そしてまた不快の原因はもうひとつ、八郎のことであった。
 八郎は、はや三歳になる。
 生まれた時から大柄な子であったが、三月みつきの頃には這い歩きを始め、半年も経つと二本の脚で達者に歩き回るようになった。しかも、初めての誕生日を過ぎる頃にはつたないながらも言葉を発し始めた。
 今ではもう、玉藻譲りのその顔つき身体つきも、立ち居振る舞いも、まるで六つや七つのさかし気な童子のように見える。
 驚くべき成長の速さである。

 親ならば喜び、将来に期待を抱くべきところであろう。
 しかし為義は八郎の出生に疑いを持っている。
 このまま知勇兼備の良将に育つ姿を思うよりも、兄たちを押しのけ蹴散らす傍若無人な様子が危惧されてならぬ。
 他者の子であるというあかしはない。我が子として育てていくうちに愛情を感じることもあろうと思わないでもない。
 だが八郎自身になつく様子が見えぬ。
 何かを恨んでいるかのように、大きな瞳で為義を睨んでいるかと思えば、話しかけても今度はそっぽを向いて生返事ばかりである。両手を広げて招いてみても近寄ろうともしない。

(こ奴も、儂のことを父親と感じていないのではあるまいか)

 為義には心の余裕がない。
 自らの疑念が八郎にも伝わり、それ故の反発であろうかとは思いもよらぬのだ。

 この春、八郎を堀川の源氏館に呼び、すぐ上の兄である七郎と会わせたことがあった。
 いかにも可愛げのない子供だが、七郎にとっては初めて会う弟である。興味津々でしきりに話しかけ、なんとか二人で一緒に遊ぶようになった。
 戯れに子供用の弓を与えてみると、七郎は予てからの鍛錬の甲斐あり器用に矢を放つ。
 八郎はといえば、幼児とは思えぬ力で弦を引いてみせたものの、いざ矢をつがえてみれば甚だぎこちなく、すぐ近くにしつらえた的を遠く外すばかり。
 七郎に笑われ悔し気にしていたのが、すぐに要領をつかんだのか、的の端に、やがては「ぱん!」と快音を立て、正中を立て続けに射貫くようになった。

(これで良し)

 と為義が目を離し、その場を家人達に任せて居室に戻ったのも束の間、甲高い悲鳴が庭先に響き、かの家人の一人が部屋に駆け込んできて叫んだ。

「申し訳ございません!」

 息子たちのいさかいだという。
 どうせ童ふたりの間の事、よくある子供の喧嘩だと思い込んで庭先に出てみれば、仰向けに地面に横たわった七郎は鼻からも口からもだらだらと血を流し、その顔は腫れ上がっている。既に気を失っているようだ。
 凄惨であった。
 血が飛び散り、背後から若党に取り押さえられた八郎の目は吊り上がり、子供ながらも鬼面と化していた。
 いったい何が起こったのか。
 当初に笑われたことの意趣返しに、今度は八郎が兄の技の拙さを鼻で笑い揶揄したのだという。怒った七郎が掴みかかり、八郎はそれを避けざま相手の顔面に一撃を加え、そして更に殴り倒したうえ、馬乗りになって右から左から顔に胸に拳撃を加えたのだ。

 これを聞いて為義は息を呑んだ。
 子供の喧嘩の仕様ではない。ならば仮に激しても単なる掴み合い、せいぜい幼稚な殴り合いに終わるはず。飼犬同士の喧嘩と同じで、相手を傷つけ過ぎない道理を無意識にわきまえているものだ。
 しかし、こ奴は違う。
 家人が必死で止めたから良かったものの、そうでなければ不具になるまで、いやきっと相手を殺すまで殴り続けたであろう。

 その夜、為義は玉藻に詰め寄った。

「ひとつ間違えれば取り返しのつかぬ事になるところぞ!」

 しかし玉藻は平然と微笑み、言い放つ。

「結構な事ではございませぬか。強者が弱者を喰らうは世の習い。その位の覇気がなくしては到底、乱世を渡っていくことも叶いませぬものを」

 為義は怒りを通り越し、不気味な心地になった。
 この女は八郎をして、何か恐ろしい者に育てようとしているのではあるまいか。
 儂は何かとんでもない厄災を家中に抱え込んでしまったのではないか。

 不安は晴れぬまま夏が過ぎる。
 そして九月になって涼しさが増し、十月に入った頃、このところ為義がよしみを通じようと図っている藤原忠実卿からの使者が源氏館を訪れた。
 その趣旨は特に怪しむべきことではなかった。宇治の邸で上皇様を、その他にも多数の公卿を招き宴を催すので、そこで評判の玉藻の舞を披露したいというのだ。
 似たような依頼はこれまでにもあった。
 ただ、今回は院の御高覧にあずかるという点が大きく異なる。
 上皇とはつまり今代の院、後に鳥羽とおくりなされる方であり、為義が嘗て北面の武士として仕えた主でもある。

 為義は打算する。
 勘気をこうむったままの自分は出席を控えざるを得まいが、玉藻が儂の想い者であるということは多数の知るところである。院のお耳にも届かぬ筈はあるまい。
 ならば世俗の芸事にも関心の深いあの方のこと、これ程の白拍子を抱える儂を見直して下さり、あわよければ再び。
 また、忠実卿は先の関白。嫡男の忠通殿にその地位を譲って隠居なされているとはいえ、今も摂関家の長老であることに変わりはない。河内源氏と摂関家の旧縁を頼るには絶好の年長の重鎮である。
 加えて、寵愛ただならぬ三男・頼長殿は古今稀な秀才。十六の歳には内大臣、今では二十歳はたちを過ぎたばかりにして右近衛大将と東宮博を兼ねておわす。

(些細な事ながら、ここで貸しを作っておくにくはなし)

 忠実卿の申し出を即座に受諾した。
 そして宴はつつがなく終わり、数日の後、二条にある頼長邸まで来て貰いたいという知らせがあった。内密の話だそうだが、それが何なのか一向に思い当たるところがない。
 頼長は自分よりはるかに年若とはいえ、昨今世上にて稀代の切れ者との評が高い相手である。為義は何か嫌なものを感じながら、とりあえず馬を走らせ頼長邸に向かう。
 板戸を巡らした暗い離れの間で対面するなり頼長は言った。

「端的に言う。要件はたった一つじゃ」
「は、何なりと」

 為義は次の言葉を待つ。
 すると頼長は貴公子らしい権高さで告げた。

「上皇様においては、宇治の催しにおいて御高覧なされた玉藻殿の謡と舞をいたくお気に入りになり、是非ともに側に置きたいと内々に麿まろに仰せである」

 我が耳を疑った。まさかこのような話になるとは。
 頼長は更に言う。

「もちろん院は御存じの上だが、為義殿の妾という身分での昇殿には差し障りがある。それ故、一計を案じたのだ。麿の学問の友に高階通憲という者がおる。元は藤原南家に生を得たが、幼い時に大学頭であった父御が急死したため、縁戚であった高階家の養子となった。その者の養女として院の御側に遣わしたい」

 有無を言わせぬ口調であった。
 立て続けの予想外な話に為義は混乱する。訳が分からぬまま反駁した。

「高階家とか大学頭とか、我には無縁の話でございます。それがなぜ玉藻のことに関わってくるのか、さっぱり合点がゆきませぬ」
「ふう」

 頼長は軽く溜息をつき、

「まだ話は途中じゃ。よく聞いて貰いたい。高階家に養子に行ったため、通憲は父祖伝来の位階にも付けず不遇をかこっておる。だからこそ、この話に乗ってきたのだ。上首尾なれば通憲は藤原に復姓も叶い、今まで望んで得られなかった道が開けるであろうて」

 一瞬の間を置き、ゆっくりと続ける。

「もちろん其方そなたもな」

 為義はやっと理解した。
 そうか。そういう事か。自分の想い者と承知の上で院は玉藻を強く御召しなのだ。高階通憲などという者を通すのは、事情を知る多くの者の口をつぐませるための只の方便。そしてこの頼長という若造は、栄達を望むならば当然に院の思し召しに従うべしと言っておるのだ。
 さすがに即答しかねていると、追い打ちをかけるように頼長は言い放った。

「この頃、高野山に出向き、院が御尊崇の覚鑁かくばん僧正に名簿みょうぶを提出して、伺候と任官のための祈祷を嘆願したとか。そのような手段では院の御勘気は解けはせぬぞ」

 これには唖然とした。なんと、祈祷の件まで知れておるのか。
 だが、頼長が次に明かしたのは更に為義を驚かせる一件であった。

「先年、永らく懸案であった西国における海賊の討伐があらためて朝議に上ったことは覚えておられよう」

 為義の眉根に一気に皺が寄る。
 覚えておるかだと。忘れるはずがあろうか。
 この為義と平家の忠盛のいずれが適任か論じ合われた末、かつて僅かのあいだ備前守であった経歴をして、「忠盛は西海に有勢の聞こえあり」などという虚言を弄する公卿に推され、場は定まったという。
 なんたる不審きわまる議決であることか。あれによって儂は甚だ面目を失い、いっぽう平家は朝廷公認のもと大手を振って西国に勢を伸ばすことを得たのだ。
 思い起こすにつれ為義の表情は険しさを加えていく。
 だが頼長はそんな様子には構わず、

「その議の折、院が何と仰せになったかだが……」

 と続ける。為義は戸惑った。他ならぬ院の御言葉だと?

「其方をして、あの者を遣わさば路次の国々おのずと滅亡かと、おんみずから強く反対されたのだ。追討に名を借りた略奪への御懸念じゃな。そのようにして議定は決した。唯一この件からしても、院が源家とその棟梁をどう思われておるか知れようて」

 愕然とする。
 治天の君である院の御勘気が、まさかそれ程とは!

「そしてまた、その後も相続いた為義殿の乱暴狼藉に院の不信は増した。検非違使の官も解かれ、再び任官の当てもなく、このままでは河内源氏の行く末もどうなることやら」

 頼長の最後の言は冷笑をも含むものであった。
 もはや為義にできることはただひとつ、あれこれの苦しい言い逃れを並べ立てて返事を保留し、ひとまず邸を辞すばかり。
 そして帰りの馬上にて天を仰ぐや、これまでの生にない程の深い息を吸い、肺の奥底から全て吐き出した。

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