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第1部 ルシフェルって? 教会って?
第26話 アスラとミシエル
しおりを挟む―――― 再び教会大聖堂にて。
「このような苦難の末、ホセア師と我々の祖は魔族の手を逃れ、主が御与えになった約束の地に住むようになったのです」
聴衆は皆が真剣に、咳一つさえせず耳を澄ます。
「それからは力を合わせて森を切り拓き、乾いた荒野を灌漑し、彼らの領地は、当初の住処であった山脈の麓から、西は大海を望む海辺の地まで数百マイルも広がり、南北の長さに至っては1000マイルを超える程に至りました。
地は豊かな実りを与え、山脈は魔族の大軍の侵入を防ぎ、ヒト族は、このイルミナ大陸の四半に満ちました」
ミシエルはここで口調を強める。
「そして900年の長きに渡って力を蓄え、初代ミシエル師の導きの下、ついに攻勢に転じ、大陸の中原部分に討って出た。主が我々の祖に命じられた魔族の殲滅がいよいよ本当に始まった」
万余の聴衆は揃って頷いた。
そうだ、その通りだ。
そしてヒト族は現在の繁栄に至ったのだ。
彼女の話は更に続く。
「彼らは勇敢に、魔族の住む街や村を次々と討ちました。補給線が整備されるにつれて軍勢は更に増強され、僅か数十年の後にはヒト族の版図は、この広大な大陸の半分近くにも届くほどでありました。民は歓喜し、軍はますます奮い立ったのです。
その後も長きに渡って代々の教皇聖下、そして枢機卿や司教・司祭の指導の宜しき、民の励みを得て、ヒト族の占める地は大陸の過半を超え、3分の2近くにもなった。討伐の当初は魔族や亜人たちが互いに相争い、結束して我らに向かうことが無かったのも幸いであったでしょう」
だが、語る内容の誇らしさにもかかわらず、彼女の声はなぜか次第に沈痛さを加えたものとなった。
「しかし…… この数百年というもの、魔族の討伐は遅々として進んでいない。彼らもまた様々な魔族の首領はもとより、各種の亜人までもが連合して『魔王』なる指導者を選び、力を束ねてヒト族に立ち向かうようになってからは、勢力が拮抗してしまっている。
特に今代の強大な魔王が君臨するようになってから、今までかろうじてヒト族優位に推移してきた戦況も、完全に膠着状態に陥り、むしろ各地で戦端が開かれる度に手痛い敗北を喫しています」
そして俯いて一呼吸置き、再び顔を上げると一気に、意を決したかのように言った。
「更には、つい先程に届いた報告によると、魔王を倒しヒト族の平和を守るのが使命の筈の勇者が、あろうことか新たな魔王に指名されたとのこと」
この言葉を聞き、万余の聴衆は激しくどよめいた。
近来の噂に聞く勇者といえば、ここ1、2年各地を巡り、凶悪な魔物を数多く、易々と倒してきたというあの少女しかあるまい。
何ということだ。
それは教会に、そしてヒト族全体に対する明らかな裏切り行為ではないか!
聴衆のざわめきを軽く右手を挙げて抑え、ミシエルは静かに言う。
「何故そのような事態に至ったのか、詳しい事は分かりません。ただ、このような不祥事を招いた我々指導層の力不足を思い、斬鬼の念に打たれるばかり、自らの不甲斐なさを陳謝するばかりです」
そして、ひときわ語調を強めて
「しかし、このような時だからこそ、私は皆様にお願いしたい。今こそヒト族の力を結集して邪悪な敵に当たらなくてはならない。
主の御力をもってさえも、地に広く蔓延する悪質な病原菌のような魔族を根絶することはできない。その街の大半を大いなる奇跡で滅ぼすことはできても、魔族全てを撃ち払うことは不可能なのです。
いっときは鳴りを潜めても、彼らの子孫係累はきっと何処かで命を永らえ、いずれまた、その勢力を盛り返し、この世界に害を為すでありましょう。
だからこそ主は我々ヒト族を創造された。
ホセア師の宣言された通り、我々は決して進化の偶然によって生まれ出た生物ではない。魔族を殲滅するという主の御意志を託された存在なのです。
その事を改めて心に刻み、日々励まなくてはならない。
そしてまた、教会史の伝える通り、主の御意志に従って行う者には、尊き護りと恩寵が常にある。そう信じて進めば、必ずや主はその御力を顕現させ給い、我々の援けとなって下さいましょう。
逆に、安逸に流れ、平和に堕すようなことがあれば、主は我々をお見捨てになり、その裁きは我々にこそ下ることになりましょう!」
と、最後は息つく間もなく一気に述べると、終わりの挨拶もせず、華麗な礼服を翻して壇上を離れたのだ。
残された聴衆は、いつになく激しいミシエルの言葉と、まるで主の怒りが乗り移ったような、その気迫に息を呑むばかりであった。
数分の後、彼女は教皇執務室に戻り、深い溜息と共に椅子に腰を下ろした。
そして帽子を脱ぎ、まとめていた髪を解く。
肩まで垂れたそれは、艶やかな黒髪であった。
「宜しかったのですか」
ノックと共に部屋に入ってきた黒衣の枢機卿ゾフィエルが、ねぎらいの言葉も無しに、いきなり尋ねた。
「何がです? ホセア師の苦難の話をしたことで、聴衆が、当時の堕落した指導者たちと現在の我々を重ね合わせて考えるとでも?」
「そのような心配は全くしておりません。信者たちは皆、ミシエル様の清廉な暮らしぶりを存じあげておりますから。私が申し上げているのは」
彼は言い難そうに、数瞬の間を置いた。
「アスラ様のことでございます」
そして更に言葉を続け
「あの様にはっきりと言ってしまわれて。あれでアスラ様は完全にヒト族の敵と見なされるようになってしまった」
「仕方がないでしょう。密偵の報告では、ガイアと戦った末、何やら懇意になってしまったが故に、次の魔王などに指名されたというではありませんか。教会が隠そうとしても、いずれ皆に知れ渡ります」
「しかしアスラ様は貴女様の」
ミシエルはそれを遮って言った。
「それが明らかにできないからこそ不憫に思い、いつかは何かの形で表舞台に出し、教会の要職にでもと考えていたのだが、まさかこの様な結果になるとは残念です。今更言っても詮無いことですが、養父の選択を誤りましたね。やはり分国の公爵家などではなく、もっと目の届く教会直轄領内の適切な家にすべきだった」
ゾフィエルは言葉に詰まった。
敬虔な信者であるとの報告を信じ、直轄領では目立ち過ぎると判断して選んだ分国の公爵家であったが、まさか教会から託された大切な娘を、あのように世俗の栄達の道具に使おうと図るとは。
そしてまた、アスラ様が公爵家を出奔してしまうとは。
「全く仰せの通りでございます。事前の調査が不備であったとしか」
ミシエルはそれには取り合わず
「それでも、冒険者となり、勇者と呼ばれるようになった辺りまでは良かったのです。皆の期待に応えて魔物を倒し続けるならば、ほどなく呼び戻して魔族討伐の責任者に任じることもできた。だからこそ、勝手な行動も敢えて黙認していたのです」
「しかしまだ、魔王の指名を受諾されると決まった訳では」
「ルシフェルの魂が宿っているのなら、事はそうは我々に都合良くは運ばないでしょう」
確かにその通りだ。
「仰る通り、あの方が我々の思うように動いて下さる訳はないでしょうな」
「そうです。あの者が教会に味方する筈はない。しかも、ガイアとは特別の関係ではないですか。だからこそ先刻、ルシフェルと同質、それでいてアスラのものに間違いない魔力を感じた時には、心底から愕然としたのです」
ミシエルは、ここで眉根を寄せ
「ルシフェルの魂がアスラに宿っていると分かっていれば、決してガイアに近付けなどしなかった…… しかし、事ここに至っては、あの娘のことは諦めるしかないでしょう」
溜息をつき、そしてすぐさま早口に尋ねる。
「今後の対応は?」
この言葉に救われたかのように、ゾフィエルもまた間髪を入れず答える。
「魔王の分国、亜人を煽って内乱を起こさせるのが上策かと存じます。以前から準備を進めておりましたので、この際一気に」
「獣王ですね」
「お察しの通りです。ですが、アスラ様は」
しかし、ミシエルは強い口調で言い放った。
「可能性は低いが、我らの意志に従うならばそれで良し。反するならば滅してしまいなさい。教会に敵対する者への当然の措置です」
「それで宜しいのですね」
「くどい!」
「分かりました。では早速、明日には実行に移ります。魔族の首都は大混乱に陥ることでしょう」
「それで良い。ただし、あの娘は手強いですよ。ましてやガイアやゼブルが一緒とあれば、簡単な戦いにはならないでしょう。決して油断などせぬように」
「承知しております。その様に術者たちにも命じますし、ウリエルも久々の出陣に何やら浮かれているようです」
「ほう。あのウリエルがですか」
「はい。ですから万が一にも討ち損じることはないかと。教皇聖下には早々の朗報をお待ちくださいますように」
そしてゾフィエルは部屋を出て行った。
ドアが閉まり足音が遠ざかる。
残ったミシエルは何かの思念を追い払うかのように首を何度も左右に振り、もう一度、更に深い溜息を吐いた。
そして机に両肘をついて手を組み、今度は厳しい眼で虚空の一点を見つめ続ける。
身じろぎもせぬその凝視はいつまでも続いた。
いったい何を観、あるいは想っているのか。
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