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一章、アリヤ
九話、欲望問答
しおりを挟む純白のネグリジュに、男性用のコートを羽織る姿はただただ不整合な魅力を醸し出す。
袖が余っており、指の先のみしか外に出ない。それは俗に萌え袖、と呼ばれるものだがある種の神聖さを持つアラカにはその表現は外れていると思わずにはいられない。
「元から一人だった一人が元の一人になった程度で、なぜ悔やむのか。
何故、この心は傷付くのか。人の心とはよく分からないや」
それはアラカの声。当たり前に嫌なことで心が傷付いたと、それだけのこと。
「今日の事件は……聞いた?」
「それは、はい……」
微笑みを前に固まるも、どうにかアリヤは声を絞る。
「君はどう思う?」
素直に感想を聞かれ、アリヤは脳裏で昼間の男を見た時のことを思い出す。
「……ッ」
歯を強く噛み締める。拳を強く握る。
「下心と悪意に満ちたそのニヤケ面を殺したくなりました。
あの顔、本当に不快で、気持ち悪い……お嬢様を殴った癖して善人ずらして、っ…!
〝アラカのためを思って〟だとか、その透けた悪意を殺したくてたまりませんでした」
正しく怒り。その発露を前にアラカは少しだけ笑んだ。
「悪意、悪意……か」
瞳を閉じて、少しだけ夢想気味にアラカは呟く。
背を向けて、穏やかに、精錬に歩を踏み。おかしそうにつぶやいた。
「悪意と善意に、どれほどの違いがあるのだろうね」
「お嬢様が苦しいと思えば、それは悪意じゃないですか」
怒りを覚えながらか、アリヤは少しだけ強い言い方をする。
それに対してハッ、と自覚するもアラカは特に気にせず言葉を続ける。
「ならばこの世の全てが悪意になってしまうね。
君の気遣いさえ悪意にしてしまうのは少しばかり悲しいな」
戯けたようにそう呟いて、
「だが、それまた悲しいことにそれは正解だよ」
その上で肯定した。悲しそうに、諦めたように。
「————善意は悪意だよ、アリヤ」
「————」
とても穏やかな表情で、とても優しげな瞳で、この世の全てが悪意で構築されているのだと嘲笑うように告げた。
「この世の善意は、全て平等に悪意なんだよ。
僕から見て、なんかじゃない。全てが悪意であり善意なんだよ」
その異質な魅力を秘めた少女を前に、アリヤは固まる。ただ固まるしかなかった。
「人の意思は全て欲望に帰結する。
そして欲望とは、当たり前に汚いものだ」
誰でも知っている当たり前。とても当然な世の残酷な真理を解くアラカ。
そう、これは当たり前のことだ。だと言うのに。
「相手を奪いたい、攫いたい、汚したい。
だから相手の心に忍び寄ろう、善人の皮を被ろうとする。
————僕も、そして君でさえも」
こんなにも、目の前の菊池アラカという少女が言うだけで重みが違ってくる。
そんな穏やかに話すことではない、荒んだ子供が荒んだ様子で言うようなことだ。
「なん、で」
それをこの少女は、心底穏やかに。あり得ないだろうが〝愉しそう〟とすら思わせる様子で。
「どうして……そんなことを、そんな風に」
ただただ不気味で、その奥に眠る闇の断片が垣間見えるような気がして……アリヤは気分が悪くなった。
「……」
等しく悪意の塊でしかないのだ、と。
全てに奉仕し、一人で世界を支えたような英雄が言うのだ。
その不整合さに気分が悪くなるのだ。
「その悪意を、善意と取るか。悪意と取るか。
その答えはアリヤが言ってくれた通りなのだろう。
————だから僕には、全てが平等に悪意なんだよ」
その上で変わらない様子で疑心暗鬼だと言う。
「————」
「全ては単なる人の営み。
それを悪意とするか、善意とするかは各々が秤を持てばいい」
ニッコリ微笑むアラカ。
————ぽた。
それに応えたのは雫の音だった。
「お願い、します」
全員が敵にしか見えない。
殺してしまうしか、安堵できる方法がない。
「お願い……します……っ」
ポタポタ、と無慈悲なほど冷たい床を滴が濡らす。
「私を救ってくれた英雄を……これ以上、傷付けないで…ください。
お願い、します……っ」
そして、アリヤは膝を着き。静かに涙を零した。
それは決壊、心の堤防がついに壊れたことを意味する。
それは涙、何処まで行っても自分本位の善意。
それは痛み、18歳の…まだ幼い少女が抱えてしまった大きな痛み。
「っ……す、みません…」
すぐにハンカチを取り出し、自分の頬を伝う雫を必死に吸い取る。
アラカに背を向け、アリヤは涙を堪えた。
「(ダメだ、泣いてはダメだ…っ)」
それはアラカには悪意でしかないから。
これ以上、アラカを自分の〝癒されてほしい〟という自分勝手な善意で傷付けるのは最低の行いだから。
だから背を向け、必死に、気丈な自分で上書きしようとアリヤはハンカチを強く握り締め
「————アリヤ」
その手は、幼く…けれども同時に酷く大きな手で簡単に解された。
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