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15話
しおりを挟む部屋に戻るとイルネギィアがまだ起きて待っていて、足音から察して扉を開けてくれた。キースは自分の寝室に直行するとバタンとそこにつっぷした。
着替えをしていただかないと、とイルネギィアはてきぱきと彼の服を脱がせ始めた。キースはされるままになっている。
少しお酒の匂いがするので、酔っているのかもしれない、とイルネギィアは思った。
ガウンを持ち寄りこちらに、と手を通すように頼む。ああ、とキースはようやく身を起こしてベッドにガウンを羽織った姿で座りなおした。イルネギィアは冷たい水を持ってくる。気の利く子だ、とキースはそれを一気に飲んだ。
「疲れた…。なにもかも面倒だ…」
先の母親との会話でもうすっかりHPは0だ。ありえない。
「なんでかなー。母上はもうなにがしたいかわからない」
「大丈夫ですか?」
ありがとう、と水の入ったグラスを返す。
「今日は疲れた…。イリー、面倒だから、もう今日はキスで済ませたい」
えっ? とイルネギィアは なにを、と思ったが、いつもの儀式と気がついて ああ、と頷いた。
そうだ、それにいつも指に傷をつけるのは正直あまりいいことだとは思えなかった。恥ずかしいが はい、とイルネギィアは素直に答えた。
それで眼鏡を外して近づくキースの端正な顔にドキリとしたが、そのまま彼の口付けを受けて 思ったものと違って硬直した。
最後にイルネギィアの下唇を軽く噛んで彼女を離したキースは呆れる。
「体液だって言っただろう…」
ふ、ふわぁいっと泣きそうな声をあげるイルネギィアの頭をポンポンと軽くなでると きみも もう休みなさい、とベッドにもぐった。
それにまた、ふぁい、と滑舌の悪い返事をしてイルネギィアは自分の部屋に戻っていった。それを聞いて、キースはくくっと笑って先より少し気持ちが軽くなって眠ることが出来た。
翌日、テオドールの隣はバレリーではなくなっていた。
朝、シャワーの後バルコニーに出るとそこには腕を組み優雅に歩く兄と、赤毛の令嬢エミリーがいた。
――行動がすばやいな、エミリー嬢は。
感心しながら見ているとテオドールと目があったので キースは肩をすくめて部屋に戻る。部屋には朝食の準備をしている部屋付女中とイルネギィアがいた。
キースが椅子に座るとイルネギィアは女中に目配せして彼女を部屋から退室させた。
イルネギィアはもうとうに朝食を済ませている。
テーブルの上には木いちごのムースと卵が鮮やかな色を見せている。
クロワッサンからはバターの香りが醸されていて、たちまち、食欲をそそる。サラダに乗せられているのは独特の苦味のある香草で、イルネギィアも食べたが知らない味だと言った。キースはそれの名前を教えてやり、このマキュスの港に届く外国の珍しい野菜なのだと言った。
夏に咲く頼りなく広がる白い花は清廉な瑞々しさを食卓に彩る。
イルネギィアが朝早くに摘んできたもので、キースが白を好むことに気がついていたから。一人のテーブルでも気持ちが沈まないようにという彼女の配慮だ。
キースが出された皿の中身を全て平らげたので、彼女はホっとした顔を見せた。顔に出る子だ、とキースはその人形のようなポーカーフェイスで思った。
食後の珈琲を淹れると部屋全体にいい香りが満ち溢れる。キースがその眼鏡の奥の灰色を緩めた。
「きみはいい子だね、イリー」
言われてイルネギィアは少し顔を赤らめた。
「…マーネメルト男爵には公爵が融資することになったよ。安心していい」
ポツと言った言葉にイルネギィアは目を見開いた。そして、良かった、とほにゃと笑う。ありがとうございます、と。
キースはそれを見てもう一度、きみはいい子だ、と言った。
――…悪意、というものに初めて触れるとき、人はどんな反応をするものだろう?
そこに起こる事柄が信じられないと思うものではないだろうか。
悪意のレベルはそれぞれだが、自分の想像の範疇を越えた時、きっと、人が自分の想像の範囲を越えた生き物であると実感するのだろう。
テオドールにとってバレリーは大切な幼馴染だった。ふたつ年下の弟と同じ歳の少女は知らぬうちに大輪の花を咲かせ、彼にとって眩しいほどの輝きを放っていた。
ただ、自分がそれに魅了されなかっただけで。
彼女の好意はわかってはいたが、大学に入る前に彼が受けた他の女性からの手痛い仕打ちは彼の矜持を傷つけた。
バレリーが同じ種類の女ではないと思ってはいても、それまで女性というものにそんな扱いを受けたことのない彼にとっては彼女らに不信を持つには充分だったのだ。
もともと、母親によって無意識に植えつけられていた女性への偏見も手伝って、彼はここ数年 彼の貴族としての存在意義である結婚問題を据え置きしていた。
だが、大学の卒業を前にしてそれから逃げてもいられない状況になった。
未来の公爵としてその身分に相応しい相手を、と思っていたが。
今日ここに集まった母の選んだ令嬢たちは彼の気持ちを台無しにするものだった。
少なくとも、自分の妻になる女性の出身は侯爵家より上でなければ――と思っていたのに、母の集めた娘達は違った。
赤毛の淑女エミリーは男爵家の次女だし、朝早くに庭を案内して欲しいと言われて一緒に歩いたが その甘ったるい話し方に閉口した。
カードで負けてばかりの金髪のヴィクトリア嬢は子爵家の出だし、何度か話した事はあるが自分の意見を持たない女性だ。
染めた銀髪のベティ・アンは伯爵令嬢だが幼い印象が強すぎる。それに地色ではないのは丸かりだ。いったい、誰のために染めたのか、と疑いたくなる。キース目当てなのは明瞭だった。
…女なら誰でもいい弟と同じと母が思ったのなら少々腹が立った。それでも、魔力もちであると聞けば少しは自分の心情を悟ってはくれたのだろうと思うことが出来たが。
バレリーが魔力もちであれば、と思うことは多い。
以前はそんなことを思うことはなかったが、こう社交界で様々な女性と会うと、なおさら思う。彼女は貴族の令嬢として完璧だった。
だが、と胸のうずきをふと覚える。
――あの方は、もっと気高かった、と。
自分にひどい仕打ちをしたあの方を彼は今も忘れていない。いつかバレリーは恋ではないと否定したが、少なくとも自分は彼女に執着していた。母が連れてきた令嬢たちがどこか同じ印象なのも、儚い仕草のあの方を母も意識しているのだろう。
そう思いながらテオドールが、己のいる書斎の窓の外に視線を渡せば庭木の向こう、草地の影で女がひとり、なにかを持ってきていた。
テオドールは眉をひそめる。
女は「それ」を土も露な小道にばらまくと、ギリと靴で踏みしめ立ち去った。
裏庭に続く細道なので、死角と信じてそうしたのだろう。
テオドールはその女の服装が公爵家のお仕着せでないことに気がついた。では、客人たちの使用人か。不快を面に表した。トラブルの種を持ち込まれて不愉快な気分以外にない。いったい、なにをしたのだと外に出ようとしたなら、そこに娘が一人、現れた。
キースが一緒に連れてきた、魔力もちの少女だった。
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