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10話
しおりを挟む「魔法使いの仕事は知っている?」
青年が聞く。ふるふるとイルネギィアは首を横に振る。
「たいていは軍に所属して、表の部隊では出来ない仕事をする。僕は王室直属だ。外国で仕事することが多い」
月明かりもない、とイルネギィアは思った。
「僕の仕事では魔力をひどく消耗する。なので、僕に魔力を提供してくれる人間が欲しい。ただ、〝魔法使い〟は貴重だし、魔力もちは身分の高い人間が多いからこの危険な仕事に付き合える人間がいない。きみは正直、理想的だと思った」
…天涯孤独で心配する人間がいないからだろう。
イルネギィアは鼻の奥がツンとなった。
「…仕事と割り切ってもらえるとありがたいね。報酬は払うし、魔力のコントロール方法も教えてあげる。それまでは僕がきみを完全に支配下におくけど」
「支配下…?」
「きみはもう魔法をきみの意志では使えないってこと。多分、世界が一変するよ。今までのように人に紛れてはいられないだろう。きみはとっても綺麗な子だから」
「よくわかりません…。あたしは魔法を使っていたんですか…?」
ああ、無自覚だったっけと青年は言う。
「そう。ずっと、使い続けていた。きみは周囲に対して、ずっと自分の印象の操作をしていたんだよ。なのに魔力を持っている人間にも気がつかせない巧妙な魔法だった。きみは素質がある」
「それって人を騙す素質ってこと…?」
イルネギィアの手にぽたりと涙が落ちる。
――あたしは馬鹿だ。皆、あたしのことが好きだったわけじゃなくて、あたしが好きにさせていたんだ。嫌われないように、と思っていた。でも、違う。あたしは皆に嫌う自由も与えなかったんだ。それなのに、ずっとなんにも知らずにいたんだ。
少し困ったような気配がした。
「僕は人の心の声を聞いてることに気がついている?」
イルネギィアはその言葉に首をかしげる。
それから、ああ、とため息した。
そうか、昼間もあたしの気持ちがこの人に聞こえていたのか、と。
「言われるまで気がつきませんでした…。あたし、それで笑われていたんですね…」
ひどく惨めだった。
それに青年は いや、ごめん、と謝った。随分、真摯な声で驚いた。
「世界が変わるというのは あたしにはもう、自由がなくなるってことですよね…」
「そうだね。でも、〝魔法使い〟だからって楽しいことがひとつもないわけじゃない」
青年を見た。今度は自分が謝る番かもしれない。でも、なにも言わないことを選択した。
無音の闇。
静寂は穏やかさを取り戻す。
さっき、彼が言った言葉をなんとはなしに思い出す。
――きみの無心が心地良い
少し理解した。
「心を覗くのはいつもじゃないよ。ただ、どうしても拾ってしまうことがあるけど。危険が近いと感じたときとか」
そうか、と思った。
なんとなく、ほにゃ、と笑った。
頬が緩んだ。でも、涙も出てくる。あれれ、と自分でびっくりしてしまう。
「…怖がらせたね。ごめんね」
そうか、あたし、怖かったのか。そうだ、怖かった。怖かった、とても。
この人の優しい声が怖かった。
優しい声で、あたしのしていた事を突きつけたこの人が。
「あたし…、このままだと、他人にとって危険なんですね?」
彼は黙っていたが、こくりと頷いたのが気配でわかった。
「…助けてください…」
どうしようもなく、頼った。
「同意してくれてありがとう。――で、きみを僕の支配下に置くために必要な手続きだけど」
なんでもする、とすがった目で見上げた。
「キスするか、僕の血をなめるかどっちにする? 支配下に置くには体液を与える必要があるんだけど」
…頭の中が真っ白だ…。
そして、耳まで赤くなったのが自分でわかった。イルネギィアはもう、どうしようもないと顔を手で覆う。泣いているけど、もう、別の意味で泣きそう。
「え、エッチじゃない方にしてくださぁい…!」
勇気を搾り出して言ったけど、後悔でここから走り出したい。もう、どこでもいいから逃げたい。
彼はわかった、と言って細い銀のナイフで自分の人差し指をプツ、と刺しそこに小さな血玉をぷくりと作る。
どうぞ、と彼はその指をイルネギィアに差し出した。
イルネギィアはそれをおそるおそる口に含むと彼が軽く息をつめたのがわかった。
ギクリとなる。
口から出そうと顎をひいたが その時彼の指は器用に動かされ、彼女の上顎の裏をこすって抜かれた。
血の味が舌に残っている。
抜かれた指はまだ眼前にあって、またそこに血玉が出来ているのが見えた。思ったより深い傷らしい。もう一度口に含んだ方がいいのか、と思ったが彼はもういいよ、と手を引いてホっと安心した彼女の目の前でその指を自分でペロリとなめた。
今度、息をつめたのは彼女だった。
ゆ、指の方がエッチだったぁーーー!
顔色の変わらない青年に一方的に羞恥を覚えた。恥ずかしくってもう、それこそ、助けて欲しい。
「僕はキース。オーティス伯爵を名乗っている。エストア公爵の次男だ。きみのことはイリーと呼んでいいかい?」
「もう、好きにしてくださぁい…」
「イリー。うん、どう呼ぼうかずっと考えていたんだ」
彼が楽しそうに笑っているのがわかる。無神経なのか、それともイルネギィアに気を遣っているのかわからない。多分、前者だろう。
彼はあたしをペットかなにかだと思っているんだ――。
そう思ったが特に腹立たしさは覚えなかった。
ただ、ずっと考えていたというのがなんとなく嬉しかった。
その夜は彼が魔法をかけてくれた。ぐっすりと眠れる魔法を。
イルネギィアはなにも考えずに ただひたすら眠りの中に安らぎを求めた。
明日から、新しい日々が始まる。
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