【本編完結】ベータ育ちの無知オメガと警護アルファ

リトルグラス

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ズレたヒート

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「チュ、ーーじゃ、行ってきまーす」

 永井は、今日も慶介の頬に「行ってきますのチュー」をした。

 昨日も一昨日もして、酒田に殴られ、今日こそしないだろうと信じていた慶介は「もう、どんなにゴネたって見送りはしないッ!」と決意した。
 しかも、あいつ、禁止だって言ってる誘引フェロモンを僅かに乗せてキスしてきやがる。そのせいで、こっちがどれだけ体の反応を抑え込むのに苦労してるか理解してないんだ。くそ、ぼけ、あほ!

 ちょっと動悸がする気もするけど、誘惑フェロモンが出ないように自制はできていると思って、自習室へ向かった。


 宿題は終わらせ、昨日の続きの問題集を借りようとしたらアルバイト講師から「誘惑フェロモンが漏れてるよ」と言われた。近くに座っていたアルファにも聞くと「君だろうと思ってた」と、同じく誘惑フェロモンが僅かに出ていたことを指摘された。
 手早く荷物をまとめて避難スペースに入った。追加の抑制剤で収まるだろうか?と、薬の効果に自信がなかったが、不安なら飲んで良いと言われているのだから、と飲んでおいた。酒田には「自習室の近くの避難スペースに迎えに来て」と伝言を残し、ベッドに横になった。

 しかし、抑制剤が効かなかったのか、慶介の体はゾクゾクとした寒気と、軽い微熱がでてきて、心臓も平時より早い。風邪の初期のような、発情の症状とは少し違う体の反応に慶介は決断しかねていた。
 そのうち、下腹部がズーンと重ダルくなってきて、時々ぐりっと痛みがでてきてトイレに籠もった。下痢かと思ったが出しても腹痛は終わらない。時々だった痛みが断続的になって不安になってきた。痛み止めの薬でもないだろうか?と部屋を漁るがあるのはカロリーバーのような食料とゼリー飲料だけ。
 痛みの波が激しいと動けなくなってきたので緊急通報ボタンを押す決意をした。


**

 避難場所からの通報を受けた保険医は、中に入って床に倒れてうずくまる慶介を見つけて驚き、追加の応援要員を呼んだ。避難スペース内は濃厚な誘惑フェロモンで充満していたので緊急抑制剤が打たれた。

 保険医は慶介の状態をヒートに入ったと判断し、酒田が呼び出される。

「ヒート?!そんな、予定は2週間後です!」

 酒田が焦るのはヒートがズレたからではない。家のシェルターの準備ができていないからだ。

 今週末に準備をする予定だった。一般的な家庭と違って慶介の家はヒート中にシェルターに入れる者がいないので籠城準備が万全でなければ慶介をシェルターに入れられない。
 酒田はトラブル発生の連絡を飛ばし、景明には電話をかけた。電話先に一緒にいるらしい水瀬が問題視したのは慶介が腹痛を起こしている事だった。準備はすぐにでも可能だが、ヒートと病気が被っている場合、家では対応がワンテンポ遅れる。
 結論として学校のヒートシェルターを利用する事になった。

 酒田が学校のシェルターを利用すると伝えると、シェルター職員と教員によって、カプセル担架で慶介が運び出された。
 その姿を見送りきる前に申請用紙の記入を頼まれる。申請さえ出してしまえば、もう、酒田に出来る事は無い。緊急連絡先にも名前は書けず、景明から迎えに行けと言われるまで待機だ。

(電話がかかってくることもないしな・・・。)



**

 ズクズクと鈍く痛む腹を押さえながら、決まりだというシェルター利用規約を口頭で聞かされる。
 要するに、慶介がシェルターから出るには自分の足と意志で出ていくか、医師が外部の医療機関の利用を判断した時だけ、という事。ヒート中は最低でも1日1回は職員が食事と健康状態の管理のために入室する、という事。
 薬の処方と管理もしてくれるので、電子お薬手帳を送信してビジネスホテルのような、こじんまりとした部屋に案内されて速攻でベッドに丸くなる。


 緊急抑制剤が切れてくるとキリキリと腹痛が襲ってくる。うめき声を上げる慶介にシェルター職員のサポーターが言った。

「あなた、運命の番がいるんですって?」

 否定したいが声が出せない慶介にサポーターと医師が畳み掛ける。

「運命の番がいるなら相手をしてもらう方が楽にヒートを過ごせます。運命の番ならその腹痛も直せるでしょう。むしろ、運命の番と離されたから腹痛が出ているのかもしれません。」
「オメガの本能が運命の番を呼んでいるんですよ。」
「我々は番がいるので反応することはありませんが、君が出している誘惑フェロモンはものすごく濃いですよ。緊急抑制剤を打っているのに、です。」

 運命の番という単語に反応するように、ギリ、ギリ、と腹が絞られるように痛む。
 もう黙って、放っといて、1人にして、思っている言葉は1つも音にならず、はくはくと口が動くだけ。医師から見れば、何か伝えたいことがあるように見えるので、余計に声掛けが続き、見当違いな質問を投げかけられるのだ。
 薬が本当に切れてしまうと、一層強まった痛みに叫び、弱音を吐き、滲み出る涙を枕に押し付けて耐えた。
 2時間空けたらもう一度、緊急抑制剤を打って、それでも腹痛が収まらなければ別の薬を試しましょうと言われたのを希望に絶え間なく襲ってくる痛みに負けまいと気を張った。


 2時間後、医師は痛み止めの薬を出しただけで、緊急抑制剤は打たないと言った。
 慶介の中の張り詰めていた糸が、ぷつ、ぷつ、と切れて、最後は医師の発言で完全に引き千切られた。

「一番の薬はアルファです。誰か相手を頼みたい相手はいませんか?」

 慶介は喚いた。ーー運命の番なんていない。アルファは呼ばない。1人で良い。出ていけ。と。
 そして泣いた。ーーいたい。なんとかして。くすりちょうだい。くるしい。おればっかり。ながいはどこ。さびしい。と。

 医師は、今の慶介は一種の錯乱状態だとして、発言の一つ一つを本人の意志とは取らない。だが、サポーターは慶介の泣き言をいちいち拾い上げて「ながい君という子を呼びましょう」と言う。
 その発言は慶介の癇にさわり、怒りは慶介に理性を取り戻させる。痛みを引き起こした原因に怨嗟の言葉を言い連ね、サポーターには「永井を呼んだら自殺する」と脅し黙らせた。


 しかし、どんなに慶介が拒否しようが一向に腹痛は収まらない。
 医師が、外部の医療機関に搬送して鎮痛剤を投与するかの判断に迷っていたら、サポーターが独断専行して永井を呼び出していた。

「私は医師として、彼の発言はせん妄だと判断しました!『ながい君』の呼び出しを指示した覚えはありません!勝手なことをしないでください!」
「せめて運命の番のフェロモンがあればと思ったんです!『ながい君』を呼んだのではなく、ヒートの巣材を依頼しただけです!」

 こんなやり取りを目の前でされた永井は、流石に期待していた「ヒートのお相手」ではなかった事を察してガッカリしたが、着ていた服を全て提供し、体操服を着て帰った。


 医師が慶介の意志を確認するため、緊急抑制剤を打つ。
 医師は慶介に2つの選択肢を提示した。1つ、医療機関に搬送して鎮痛剤を点滴し病院でヒートを過ごす。2つ、届けられた永井の服を試す。

 病院に行けば、オメガの医療費控除を受けてても10万円ほどの費用がかかる。また、経過観察のために次のヒートも病院で過ごさなければならないのでさらに10万、合計20万ほどかかる。
 一方、服は善意で提供されたので、破損しても弁償する必要もない。念書も書かせたので何の気兼ねもいらない。ただ、服でも腹痛が治らなければ、やはり病院に搬送するので、一度試してみてはどうか?と医師は控えめに提案した。

「じゃぁ、試すだけ、試してみる。」


 慶介は医師から渡されたチャック付きの密閉袋に手をかけて、深く深呼吸をする。
 中には永井の服。フェロモンの慣らしを思い出してしまうが、今回は耐える必要が無い。自然に、川の流れに乗るように、本能に委ねてしまうように、と理性を遠くに押し出して、指に力を入れた。

 チャックを開けると、永井のフェロモンがふわりと広がる。白とピンクの幻想的なイメージフィルターが目にかかったようになる。こじんまりとした少し古いビジネスホテルのような部屋がキラキラと光って素敵に可憐な印象に変わってしまった。
 攣ったようにガチガチに緊張していた筋肉が解けて緩み、痛みの塊が、水に溶ける角砂糖の様に崩れて消えていく。
 緩んでいく体と心、全身の隅々まで甘いフェロモンが浸透していく感覚に、息を付いてパタリと上体を倒した。

 医師が慶介の顔を覗き込み聞いてきた。「大丈夫ですか?」と。慶介の頭は大丈夫ではない。このまま本能に身を委ねたらどうなってしまうだろう?という不安から、慶介はふるふると頭を横に振った。

「お腹は痛いままですか?」

 そうだった、お腹が痛かったんだ。だから、永井の服を試したのだった。と思い出した。慶介はまた、ふるふると頭を横に振った。

「痛くないんですね?」

 コクンとうなずいた。
 医師は、深い長い溜息をついた。それは安堵のため息だったのだが、慶介はそれが素直に答えなかったことを怒られていると勘違いして必要以上の説明を始める。

「せんせ、痛くない。フェロモン、気持ちいいです。あの、ここ・・・お腹がな、痛くなくなったん、気持ちいぃ。ここ、ポカポカするん。あちゅあちゅ。・・・こんなかクチュクチュしたい。」

 医師は慌てて緊迫感から出た厳しい雰囲気を改め、優しい態度と言葉遣いに変えた。

「ーーっ、わ、わかった。そっか、痛いの無くなって良かったね。これ、分かるかな?病院にあるナースコールと同じやつだから、またお腹痛くなったらすぐに呼んでね。先生が外に出るまで、もう少ーし待っててね。」

 ペンやメモ帳をサッとポケットに仕舞って扉に向かう。医師が最後の確認に振り向いたタイミングに、慶介は僅かに残った理性で感謝を告げた。


「せんせ、ぁりがと」

 医師がいなければ自分は苦痛の中、悶絶し、のたうち回っていたことだろう。それに、緊急抑制剤を使ってちゃんと慶介の意志を確認してくれた。信頼に値する人だ。1週間続くヒートをこのお医者先生が担当してくれたら良いのにな。と、小さく手を振った。



**


 医師は、慶介に手を振り返してドアを閉める。施錠を指差しで確認して事務室に向かいながら、心の内で呟いた。

(いやー、可愛い子だなー)

 学校のシェルターは、今や利用者もほとんどいないローテーションで回ってくるクソほど暇な強制勤務で手当は数百円というハズレ仕事。オメガ患者の担当になるための登竜門なんて呼ばれていた。
 利用者がいるだけでも「アタリ」なのに、医師として活躍できて、それがまたあんな可愛いイイ子だとは、今回の勤務は「大当たり」だ。
 事務室に戻ったら、勤務延長申請を出さなければ。と、頭の中のやることリストに追加した。









***

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