37 / 52
誘拐少女と探偵
5話
しおりを挟む
「はい、これ」
事務所に戻った僕は、来客対応用の三人掛けソファーに座っていた。このソファーを僕はベッド替わりに使っていて、仕事以外の時間はここで過ごすことが多い。
喫茶店から戻った僕が定位置であるソファーの真ん中に座っていると、自分の部屋から出てきた紅坂さんが一枚の紙を差し出してきた。
「帰ってきてから手を洗いましたか?」
渡された紙を確認するより先に僕は言う。外出時につけていた手袋は外したみたいだが、きちんと手洗いをしていることの確認ができていなかった。
「失敬だな。洗ったよ。真雪くんにはあたしが不潔な女に見えているわけ?」
紅坂さんはムッとして言い返してきた。女性に対して失礼だったかもしれないとは思うものの、気になるのだから仕方がない。
「そんなことはないですけど」
「真雪くんって潔癖症なの?」
「どうですかね。もしかしたら記憶を失う前の僕はそうだったのかもしれません」
記憶にはないが、身体が覚えているというやつなのだろうか。他人だけではなく、自分の汚れも気になって仕方がなく、外から帰ったときや掃除をした後には、何度も手洗いをしなければ気が済まない。
紅坂さんの言葉を信じ、僕は彼女から紙を受け取ると改めて中を確認する。そこには住所と思しき文字が書かれていた。どこかピンとこないが、県外だということだけはわかった。
「これは?」
「昼に真雪くんが話しかけた女性が子供を匿っている場所」
ああ、と僕は頷いた。
例の女性に声をかけたのは仕事のためだった。
その仕事というのは、とある男性から受けたもので、妻が隠している子供の居場所を調べてほしいという内容だった。依頼人と女性はすでに別居しており、奥さんが子供を連れて出て行ったらしい。離婚することは避けられないということだが、親権だけは諦められない依頼人は弁護士に相談をしたらしい。
しかし相手側の有責でもない場合、男親が親権を取ることは難しく、さらには奥さんが子供を連れた今の状態で離婚調停が進むと、子供の環境がころころ変わることを良しとしない調停委員の判断が、奥さん側へ傾く可能性が大きいという話のようだ。
それを阻止するため子供を連れ戻したい依頼人だったが、奥さんの現住所にも実家にも子供の姿はなく、手の打ちようがなくなった結果たどり着いたのがこの探偵事務所だったのである。
「僕があの女性と会話しただけで、子供の居場所がわかってしまうんですね」
「そうだよ。凄いでしょ」
「紅坂さんの超能力の話、本当だったんですね」
紅坂さんは他人の思考が読めるらしい。冗談や比喩ではなく、文字通り人の考えがわかるのだという。クレアエンパシーの一種だと彼女は言っていたが、そんな言葉聞いたことがなかった。
相手の思考を紅坂さんが読み取るのみで、その逆はできない。また、対象となる人物の正確な位置がわかっていなければいけないという制約もある。
紅坂さんと過ごした時間はわずかだが、仕事やプライベートの時間の中で、僕はその能力が本当である証拠を何度も見せられてきた。
今回の依頼もそうだ。僕は女性が子供のことを考えるように、紅坂さんの指示に従って話を進めたに過ぎない。遠くから僕たちの様子を窺っていた紅坂さんが超能力を使って子供の居場所を探り当てたのだった。
僕は住所が書かれた紙を見ながら、確かに探偵こそ彼女にとって天職だと思った。相手の思考が読めるのであれば、調査なんてお手のものに違いない。
子供の情報を依頼主の渡せば仕事は完了となる。自分が手伝った仕事が終わる安心感はあったものの、奥さんに対する罪悪感は消えずにいた。今日僕がしたことは、彼女から子供を取り上げるための手伝いだ。スカッとするはずもない。
「十七時までに依頼主に電話で伝えてね。それを過ぎたら時間外労働になっちゃうから。残業は、この世で最も忌むべきものだということを忘れないように」
僕は返事をできなかった。胸のわだかまりが解けずに、気が付くと「連絡しなくちゃだめですよね?」と口にしていた。
「どういうこと?」
「やっぱり子供は母親が引き取るべきだと思うんです。昼に見た女性の顔、凄く疲れているみたいで、ここで子供まで失ったら彼女生きる気力を失ってしまうんじゃないかって、そう思うんです」
「駄目だよ、引き受けた仕事は最後までやり遂げなくちゃ。社会経験のない君にはわからないのかもしればいけどね、世の中納得のいかないことなんてたくさんあるの。そんなことに一々心を痛めてたら生きづらくてしょうがないよ。何かを決断するときに感情は考慮しない、これは社会人としての大事な教訓だから、真雪くんもよく覚えておくこと」
「紅坂さんはどんな仕事にも傷ついたりしないんですか?」
「しないよ」
あまりに無機質な紅坂さんの回答に、僕は何も言い返せなかった。
これだけ世話になっておいて申し訳ないと思いながらも、彼女のことを冷たい人間だと思ってしまった。
事務所に戻った僕は、来客対応用の三人掛けソファーに座っていた。このソファーを僕はベッド替わりに使っていて、仕事以外の時間はここで過ごすことが多い。
喫茶店から戻った僕が定位置であるソファーの真ん中に座っていると、自分の部屋から出てきた紅坂さんが一枚の紙を差し出してきた。
「帰ってきてから手を洗いましたか?」
渡された紙を確認するより先に僕は言う。外出時につけていた手袋は外したみたいだが、きちんと手洗いをしていることの確認ができていなかった。
「失敬だな。洗ったよ。真雪くんにはあたしが不潔な女に見えているわけ?」
紅坂さんはムッとして言い返してきた。女性に対して失礼だったかもしれないとは思うものの、気になるのだから仕方がない。
「そんなことはないですけど」
「真雪くんって潔癖症なの?」
「どうですかね。もしかしたら記憶を失う前の僕はそうだったのかもしれません」
記憶にはないが、身体が覚えているというやつなのだろうか。他人だけではなく、自分の汚れも気になって仕方がなく、外から帰ったときや掃除をした後には、何度も手洗いをしなければ気が済まない。
紅坂さんの言葉を信じ、僕は彼女から紙を受け取ると改めて中を確認する。そこには住所と思しき文字が書かれていた。どこかピンとこないが、県外だということだけはわかった。
「これは?」
「昼に真雪くんが話しかけた女性が子供を匿っている場所」
ああ、と僕は頷いた。
例の女性に声をかけたのは仕事のためだった。
その仕事というのは、とある男性から受けたもので、妻が隠している子供の居場所を調べてほしいという内容だった。依頼人と女性はすでに別居しており、奥さんが子供を連れて出て行ったらしい。離婚することは避けられないということだが、親権だけは諦められない依頼人は弁護士に相談をしたらしい。
しかし相手側の有責でもない場合、男親が親権を取ることは難しく、さらには奥さんが子供を連れた今の状態で離婚調停が進むと、子供の環境がころころ変わることを良しとしない調停委員の判断が、奥さん側へ傾く可能性が大きいという話のようだ。
それを阻止するため子供を連れ戻したい依頼人だったが、奥さんの現住所にも実家にも子供の姿はなく、手の打ちようがなくなった結果たどり着いたのがこの探偵事務所だったのである。
「僕があの女性と会話しただけで、子供の居場所がわかってしまうんですね」
「そうだよ。凄いでしょ」
「紅坂さんの超能力の話、本当だったんですね」
紅坂さんは他人の思考が読めるらしい。冗談や比喩ではなく、文字通り人の考えがわかるのだという。クレアエンパシーの一種だと彼女は言っていたが、そんな言葉聞いたことがなかった。
相手の思考を紅坂さんが読み取るのみで、その逆はできない。また、対象となる人物の正確な位置がわかっていなければいけないという制約もある。
紅坂さんと過ごした時間はわずかだが、仕事やプライベートの時間の中で、僕はその能力が本当である証拠を何度も見せられてきた。
今回の依頼もそうだ。僕は女性が子供のことを考えるように、紅坂さんの指示に従って話を進めたに過ぎない。遠くから僕たちの様子を窺っていた紅坂さんが超能力を使って子供の居場所を探り当てたのだった。
僕は住所が書かれた紙を見ながら、確かに探偵こそ彼女にとって天職だと思った。相手の思考が読めるのであれば、調査なんてお手のものに違いない。
子供の情報を依頼主の渡せば仕事は完了となる。自分が手伝った仕事が終わる安心感はあったものの、奥さんに対する罪悪感は消えずにいた。今日僕がしたことは、彼女から子供を取り上げるための手伝いだ。スカッとするはずもない。
「十七時までに依頼主に電話で伝えてね。それを過ぎたら時間外労働になっちゃうから。残業は、この世で最も忌むべきものだということを忘れないように」
僕は返事をできなかった。胸のわだかまりが解けずに、気が付くと「連絡しなくちゃだめですよね?」と口にしていた。
「どういうこと?」
「やっぱり子供は母親が引き取るべきだと思うんです。昼に見た女性の顔、凄く疲れているみたいで、ここで子供まで失ったら彼女生きる気力を失ってしまうんじゃないかって、そう思うんです」
「駄目だよ、引き受けた仕事は最後までやり遂げなくちゃ。社会経験のない君にはわからないのかもしればいけどね、世の中納得のいかないことなんてたくさんあるの。そんなことに一々心を痛めてたら生きづらくてしょうがないよ。何かを決断するときに感情は考慮しない、これは社会人としての大事な教訓だから、真雪くんもよく覚えておくこと」
「紅坂さんはどんな仕事にも傷ついたりしないんですか?」
「しないよ」
あまりに無機質な紅坂さんの回答に、僕は何も言い返せなかった。
これだけ世話になっておいて申し訳ないと思いながらも、彼女のことを冷たい人間だと思ってしまった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
【毎日20時更新】アンメリー・オデッセイ
ユーレカ書房
ミステリー
からくり職人のドルトン氏が、何者かに殺害された。ドルトン氏の弟子のエドワードは、親方が生前大切にしていた本棚からとある本を見つける。表紙を宝石で飾り立てて中は手書きという、なにやらいわくありげなその本には、著名な作家アンソニー・ティリパットがドルトン氏とエドワードの父に宛てた中書きが記されていた。
【時と歯車の誠実な友、ウィリアム・ドルトンとアルフレッド・コーディに。 A・T】
なぜこんな本が店に置いてあったのか? 不思議に思うエドワードだったが、彼はすでにおかしな本とふたつの時計台を巡る危険な陰謀と冒険に巻き込まれていた……。
【登場人物】
エドワード・コーディ・・・・からくり職人見習い。十五歳。両親はすでに亡く、親方のドルトン氏とともに暮らしていた。ドルトン氏の死と不思議な本との関わりを探るうちに、とある陰謀の渦中に巻き込まれて町を出ることに。
ドルトン氏・・・・・・・・・エドワードの親方。優れた職人だったが、職人組合の会合に出かけた帰りに何者かによって射殺されてしまう。
マードック船長・・・・・・・商船〈アンメリー号〉の船長。町から逃げ出したエドワードを船にかくまい、船員として雇う。
アーシア・リンドローブ・・・マードック船長の親戚の少女。古書店を開くという夢を持っており、謎の本を持て余していたエドワードを助ける。
アンソニー・ティリパット・・著名な作家。エドワードが見つけた『セオとブラン・ダムのおはなし』の作者。実は、地方領主を務めてきたレイクフィールド家の元当主。故人。
クレイハー氏・・・・・・・・ティリパット氏の甥。とある目的のため、『セオとブラン・ダムのおはなし』を探している。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
アリシアの恋は終わったのです。
ことりちゃん
恋愛
昼休みの廊下で、アリシアはずっとずっと大好きだったマークから、いきなり頬を引っ叩かれた。
その瞬間、アリシアの恋は終わりを迎えた。
そこから長年の虚しい片想いに別れを告げ、新しい道へと歩き出すアリシア。
反対に、後になってアリシアの想いに触れ、遅すぎる行動に出るマーク。
案外吹っ切れて楽しく過ごす女子と、どうしようもなく後悔する残念な男子のお話です。
ーーーーー
12話で完結します。
よろしくお願いします(´∀`)
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
冤罪! 全身拘束刑に処せられた女
ジャン・幸田
ミステリー
刑務所が廃止された時代。懲役刑は変化していた! 刑の執行は強制的にロボットにされる事であった! 犯罪者は人類に奉仕する機械労働者階級にされることになっていた!
そんなある時、山村愛莉はライバルにはめられ、ガイノイドと呼ばれるロボットにされる全身拘束刑に処せられてしまった! いわば奴隷階級に落とされたのだ! 彼女の罪状は「国家機密漏洩罪」! しかも、首謀者にされた。
機械の身体に融合された彼女は、自称「とある政治家の手下」のチャラ男にしかみえない長崎淳司の手引きによって自分を陥れた者たちの魂胆を探るべく、ガイノイド「エリー」として潜入したのだが、果たして真実に辿りつけるのか? 再会した後輩の真由美とともに危険な冒険が始まる!
サイエンスホラーミステリー! 身体を改造された少女は事件を解決し冤罪を晴らして元の生活に戻れるのだろうか?
*追加加筆していく予定です。そのため時期によって内容は違っているかもしれません、よろしくお願いしますね!
*他の投稿小説サイトでも公開しておりますが、基本的に内容は同じです。
*現実世界を連想するような国名などが出ますがフィクションです。パラレルワールドの出来事という設定です。
〖完結〗王女殿下の最愛の人は、私の婚約者のようです。
藍川みいな
恋愛
エリック様とは、五年間婚約をしていた。
学園に入学してから、彼は他の女性に付きっきりで、一緒に過ごす時間が全くなかった。その女性の名は、オリビア様。この国の、王女殿下だ。
入学式の日、目眩を起こして倒れそうになったオリビア様を、エリック様が支えたことが始まりだった。
その日からずっと、エリック様は病弱なオリビア様の側を離れない。まるで恋人同士のような二人を見ながら、学園生活を送っていた。
ある日、オリビア様が私にいじめられていると言い出した。エリック様はそんな話を信じないと、思っていたのだけれど、彼が信じたのはオリビア様だった。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
旧校舎のフーディーニ
澤田慎梧
ミステリー
【「死体の写った写真」から始まる、人の死なないミステリー】
時は1993年。神奈川県立「比企谷(ひきがやつ)高校」一年生の藤本は、担任教師からクラス内で起こった盗難事件の解決を命じられてしまう。
困り果てた彼が頼ったのは、知る人ぞ知る「名探偵」である、奇術部の真白部長だった。
けれども、奇術部部室を訪ねてみると、そこには美少女の死体が転がっていて――。
奇術師にして名探偵、真白部長が学校の些細な謎や心霊現象を鮮やかに解決。
「タネも仕掛けもございます」
★毎週月水金の12時くらいに更新予定
※本作品は連作短編です。出来るだけ話数通りにお読みいただけると幸いです。
※本作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
※本作品の主な舞台は1993年(平成五年)ですが、当時の知識が無くてもお楽しみいただけます。
※本作品はカクヨム様にて連載していたものを加筆修正したものとなります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる