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魔法使いの同居人
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何かがおかしい。
部屋の真ん中で存在感を放つ黒いグランドピアノを前に僕は小首を傾げる。幼少期より親しんでいるはずのピアノが、見知らぬ生物のようにどこかよそよそしく感じられた。
適当な鍵盤を人差し指で叩くと伸びのあるきれいな音が部屋中に響く。
一度触れてみれば、まるで親友だったかのような、あの頃の関係に蘇れるのではいか。そんな期待があったのだが、気持ちに変化はなかった。
「まいったなこれは」
ポツンとした空間で一人、途方に暮れる。
日中に行われたクラス会議で三カ月後の文化祭に実施されるクラスの出し物について話し合いが行われた。随分気が早いように思えたが、一部の女子が準備するのに早すぎることはないからと話題を持ち出したのだ。
昨年の文化祭で学年一に輝いた栄光が、彼女たちに火を付けたのかもしれない。男子生徒は乗り気じゃなかったが、女子を怒らせて得なことは一つもない。表面上だけのやる気を見せつつ、会に参加する運びとなった。
紆余曲折あり、今年は某アイドルグループの人気曲のメドレーにダンスアレンジを加えた出し物を行うことで話はまとまった。
そこまでは問題なかった。僕の悩みの種が生まれたのはその後だ。
話し合いが終わりかけ、ようやく解放されると男子共がほっと胸を撫でおろしていると、誰かが曲の合間にピアノソロを取り入れないかと提案したのである。
そのピアノの奏者として指名されたのが、ほかならぬ僕だった。
突然の指名に、ぼけっと成り行きを見守っていた僕は面食らってしまった。口をはさむ隙もなく、クラス中から「斬新」や「他のクラスとの差別化」といった言葉が飛び交う。
当の本人の意思はどこ吹く風といった様子で盛り上がり出したのである。
そうなってしまえば断るのは至難の業だ。
なんとか抵抗を見せる僕だったが、自分たちのアイディアに酔いしれる女子と、自身が巻き込まれないのであれば何だっていい男子の意見が一致し、僕は大役を押し付けられたのであった。
僕が選ばれたのには理由があった。
中学時代までピアノコンクールでは賞の常連であり、それはクラスメートたちにも知れ渡っていた。
高校に入ってからコンクールに参加することはなくなり、今では部屋に置かれたピアノもインテリアと化す始末だったが、それでもみんなからすると僕のイメージといえばピアノのようだった。
とはいえ、クラスの出し物の演奏程度、僕にとっては朝飯前のはずだった。
しかし、いざ勘を取り戻そうと自室のピアノに触れた僕は、ブランクというものが思った以上に深刻な問題であることを痛感した。
まず、楽譜を見ても理解できなかったのだ。
以前は楽譜を眺めれば、考える必要もなく自然と頭の中で音楽に変換されていたはずだ。それが十数年間ピアノを学んできた歴史消え失せたかのように頭の中が真っ白だった。余裕が体から抜けて、焦りに変わっていく。
呆然としていても仕方がない。僕は本棚を漁り、表紙のくたびれた初心者向け教材を手に取ると、再びグランドピアノと対面する。プライドは傷つくが一からやり直すしかない。
気づけば練習を開始してから一時間が経過していた。進捗状況は最悪だ。「猫ふんじゃった」をようやく最後まで通しで弾けるようになった程度である。それだって鍵盤を楽譜通りの順番に叩いているだけで、とても音楽と呼べる出来栄えではなかった。
「どこかで転んだ時に音感を落としたのかな」
冗談めかして言ってみたが、焦りと不安は増すばかりだった。深いため息をこぼしたとき、突然笑い声が聞こえた。
「では、拾いに戻らなくちゃいけませんね」
近くから聞こえた声に反射的に振り向く。同時に背筋に悪寒が走った。部屋には誰もいなかったはずだ。それどころか、いま家にいるのは僕だけだった。
声がした方向を必死に見回してみるが人影は見当たらない。どこかの死角に隠れているに違いない。
まず目についたのはベッドだった。ベッドの下のスペースは人が隠れるにはうってつけだ。
僕は細心の注意を払いつつベッドの下をのぞき込んだ。そこにも誰いなかった。
ほかに人が隠れられそうな死角はない。ピアノ演奏の不安から幻聴でも聞こえたのだろうか。
「ここですよ」
先ほどと同じ声が再び聞こえた。聞き間違いでも幻聴でもない。自分の耳で確かに聞いた実感があった。
ベッドの下に頭を半分入れていた僕はその声に驚き後頭部を強打する。悶絶するほどの痛みだが、今はそれどころじゃない。頭を押さえながら立ち上がるも、やはりそこに人の姿はなかった。
「凄い音がしましたけど頭大丈夫ですか?」
謎の声が僕を心配する。
見当はずれな心配だ。僕が恐怖しているのは、この声に対してなのだ。
「誰かいるの?」
威嚇の意味も込め、少し大きな声で問いかける。ターゲットの所在がわからないため視線が定まらず、あちらこちらに目が泳ぐ。
そのとき何かが空中で動いているのを視界の端で捉えた。全神経がその一点に集中する。
そこにあったのはマトリョーシカだった。以前父が出張先のロシアから買ってきてくれたおみやげで、窓際に置いていたものだった。それがいったいどういうことか、今は僕の目の先でぷかぷかと宙に浮いているのである。
何度か瞬きを繰り返してみた。しかし目に映る光景は変わらない。幻聴の後は幻覚でも見ているのだろうか。
「君が僕に話しかけているの?」
マトリョーシカに尋ねてみる。男子高校生が人形に話しかけている様を他人に見られたとしたら、気味悪がられるか心配されそうなものだが、そんなこと言ってられる状況ではなかった。
マトリョーシカが「ふふ」と笑う。
子供の見た目をしているが、声は大人びている。
「人形が話すわけないじゃないですか」
「なら僕と話している君はいったい誰なんだ?」
「私は人間ですよ。千花くんに私の姿は見えていないので、自分の場所を知らせるために人形を持ってお話ししています」
「姿が見えない? どうして?」
「それは追々お話しします」
マトリョーシカは長いまつ毛の下のつぶらな瞳で僕を無感情に覗いている。
「一応はじめましてになりますかね。私は紗月と言います」
声の主が名乗る。いまだマトリョーシカと話している気持ちが抜けない僕は、ロシアの人形が和名を名乗ったことに違和感がぬぐえなかった。
人形はこちらの反応を待つように黙り込む。
間が開くと何か会話を繋げなくてはと思うのは人間の習性なのだろうか。居心地の悪さを感じて僕は人形に向かって改めて問いかける。
「それで、紗月さんは一体何者なんでしょうか?」
「私は泥棒です」
部屋の真ん中で存在感を放つ黒いグランドピアノを前に僕は小首を傾げる。幼少期より親しんでいるはずのピアノが、見知らぬ生物のようにどこかよそよそしく感じられた。
適当な鍵盤を人差し指で叩くと伸びのあるきれいな音が部屋中に響く。
一度触れてみれば、まるで親友だったかのような、あの頃の関係に蘇れるのではいか。そんな期待があったのだが、気持ちに変化はなかった。
「まいったなこれは」
ポツンとした空間で一人、途方に暮れる。
日中に行われたクラス会議で三カ月後の文化祭に実施されるクラスの出し物について話し合いが行われた。随分気が早いように思えたが、一部の女子が準備するのに早すぎることはないからと話題を持ち出したのだ。
昨年の文化祭で学年一に輝いた栄光が、彼女たちに火を付けたのかもしれない。男子生徒は乗り気じゃなかったが、女子を怒らせて得なことは一つもない。表面上だけのやる気を見せつつ、会に参加する運びとなった。
紆余曲折あり、今年は某アイドルグループの人気曲のメドレーにダンスアレンジを加えた出し物を行うことで話はまとまった。
そこまでは問題なかった。僕の悩みの種が生まれたのはその後だ。
話し合いが終わりかけ、ようやく解放されると男子共がほっと胸を撫でおろしていると、誰かが曲の合間にピアノソロを取り入れないかと提案したのである。
そのピアノの奏者として指名されたのが、ほかならぬ僕だった。
突然の指名に、ぼけっと成り行きを見守っていた僕は面食らってしまった。口をはさむ隙もなく、クラス中から「斬新」や「他のクラスとの差別化」といった言葉が飛び交う。
当の本人の意思はどこ吹く風といった様子で盛り上がり出したのである。
そうなってしまえば断るのは至難の業だ。
なんとか抵抗を見せる僕だったが、自分たちのアイディアに酔いしれる女子と、自身が巻き込まれないのであれば何だっていい男子の意見が一致し、僕は大役を押し付けられたのであった。
僕が選ばれたのには理由があった。
中学時代までピアノコンクールでは賞の常連であり、それはクラスメートたちにも知れ渡っていた。
高校に入ってからコンクールに参加することはなくなり、今では部屋に置かれたピアノもインテリアと化す始末だったが、それでもみんなからすると僕のイメージといえばピアノのようだった。
とはいえ、クラスの出し物の演奏程度、僕にとっては朝飯前のはずだった。
しかし、いざ勘を取り戻そうと自室のピアノに触れた僕は、ブランクというものが思った以上に深刻な問題であることを痛感した。
まず、楽譜を見ても理解できなかったのだ。
以前は楽譜を眺めれば、考える必要もなく自然と頭の中で音楽に変換されていたはずだ。それが十数年間ピアノを学んできた歴史消え失せたかのように頭の中が真っ白だった。余裕が体から抜けて、焦りに変わっていく。
呆然としていても仕方がない。僕は本棚を漁り、表紙のくたびれた初心者向け教材を手に取ると、再びグランドピアノと対面する。プライドは傷つくが一からやり直すしかない。
気づけば練習を開始してから一時間が経過していた。進捗状況は最悪だ。「猫ふんじゃった」をようやく最後まで通しで弾けるようになった程度である。それだって鍵盤を楽譜通りの順番に叩いているだけで、とても音楽と呼べる出来栄えではなかった。
「どこかで転んだ時に音感を落としたのかな」
冗談めかして言ってみたが、焦りと不安は増すばかりだった。深いため息をこぼしたとき、突然笑い声が聞こえた。
「では、拾いに戻らなくちゃいけませんね」
近くから聞こえた声に反射的に振り向く。同時に背筋に悪寒が走った。部屋には誰もいなかったはずだ。それどころか、いま家にいるのは僕だけだった。
声がした方向を必死に見回してみるが人影は見当たらない。どこかの死角に隠れているに違いない。
まず目についたのはベッドだった。ベッドの下のスペースは人が隠れるにはうってつけだ。
僕は細心の注意を払いつつベッドの下をのぞき込んだ。そこにも誰いなかった。
ほかに人が隠れられそうな死角はない。ピアノ演奏の不安から幻聴でも聞こえたのだろうか。
「ここですよ」
先ほどと同じ声が再び聞こえた。聞き間違いでも幻聴でもない。自分の耳で確かに聞いた実感があった。
ベッドの下に頭を半分入れていた僕はその声に驚き後頭部を強打する。悶絶するほどの痛みだが、今はそれどころじゃない。頭を押さえながら立ち上がるも、やはりそこに人の姿はなかった。
「凄い音がしましたけど頭大丈夫ですか?」
謎の声が僕を心配する。
見当はずれな心配だ。僕が恐怖しているのは、この声に対してなのだ。
「誰かいるの?」
威嚇の意味も込め、少し大きな声で問いかける。ターゲットの所在がわからないため視線が定まらず、あちらこちらに目が泳ぐ。
そのとき何かが空中で動いているのを視界の端で捉えた。全神経がその一点に集中する。
そこにあったのはマトリョーシカだった。以前父が出張先のロシアから買ってきてくれたおみやげで、窓際に置いていたものだった。それがいったいどういうことか、今は僕の目の先でぷかぷかと宙に浮いているのである。
何度か瞬きを繰り返してみた。しかし目に映る光景は変わらない。幻聴の後は幻覚でも見ているのだろうか。
「君が僕に話しかけているの?」
マトリョーシカに尋ねてみる。男子高校生が人形に話しかけている様を他人に見られたとしたら、気味悪がられるか心配されそうなものだが、そんなこと言ってられる状況ではなかった。
マトリョーシカが「ふふ」と笑う。
子供の見た目をしているが、声は大人びている。
「人形が話すわけないじゃないですか」
「なら僕と話している君はいったい誰なんだ?」
「私は人間ですよ。千花くんに私の姿は見えていないので、自分の場所を知らせるために人形を持ってお話ししています」
「姿が見えない? どうして?」
「それは追々お話しします」
マトリョーシカは長いまつ毛の下のつぶらな瞳で僕を無感情に覗いている。
「一応はじめましてになりますかね。私は紗月と言います」
声の主が名乗る。いまだマトリョーシカと話している気持ちが抜けない僕は、ロシアの人形が和名を名乗ったことに違和感がぬぐえなかった。
人形はこちらの反応を待つように黙り込む。
間が開くと何か会話を繋げなくてはと思うのは人間の習性なのだろうか。居心地の悪さを感じて僕は人形に向かって改めて問いかける。
「それで、紗月さんは一体何者なんでしょうか?」
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