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*(ビアトリス)
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幼い頃から病弱だった私は、社交界にデビューした年の冬に主治医から余命を宣告された。無慈悲にも、この冬を越せたとしてもという前提付きだった。
もう長くは生きられない。
私は死ぬのだ。もうすぐ。遠くない未来に。
違う。
未来など、ない。
「……」
私は悲しみに暮れ泣いたけれど、号泣する程の体力も残されていなかった。
冬を生き延びた私は、春に予てから招かれていたある伯爵家の宴を静かに楽しんでいた。
私は腫れ物のように扱われていたものの、周囲の優しさに感謝していた。
それでも……私は、私の夢を捨てられなかった。
私は夢見ていた。
愛する人と結ばれて、幸せに生きる人生を。
若きマスグレイヴ伯爵アーネスト卿はその人間離れした美貌から男女問わず絶大な人気があり、手の届かない存在だった。併し、死を前にした私は恐れや恥じらいをとうに捨ててしまっていた。
隙を見つけて、声を掛けた。
「マスグレイヴ伯爵。お願いがあります。私と結婚してください」
天から舞い降りた天使のように、マスグレイヴ伯爵は無垢な瞳で食い入るように私を見つめた。
「少しの間だけ結婚してくださるだけでいいのです。お願いします」
「……君は……」
私が余命いくばくもないのは周知の事実であり、マスグレイヴ伯爵も承知していた。私の短い言葉の意味を正確に捉えたらしかった。
数秒後、彼は、優しく微笑んだ。
「ああ、いいとも」
彼は人前で改めて私に求婚し、私を、幸せな花嫁にしてくれた。
期限付きの、華やかな彼の月日を少しだけ独占する権利。
私は我儘だった。
彼は──夫アーネストは全てを受け入れ、許してくれた。
誓いの通り、病める全ての時も、僅かに健やかな時も、私に愛情を持って接してくれた。持参金も受け取らなかったのだ。ただ私を引き受け、私に愛される妻の暮らしを与えた。
彼がどうだったかは、わからない。
けれど、私は彼に恋をしなかった。ただ深く感謝し、愛した。
独特ではあったけれど、アーネストは私に夫婦の絆を感じさせてくれた。
彼はきっと、私が死んでも寂しくはないだろう。
それが私には嬉しかった。
私は幸せだった。
始めから長く続かないとわかっていた。
私が死ぬ日は、明日かもしれず、明後日かもしれず、一年後かもしれず、今日かもしれない。そんな毎日。
結婚後も只でさえ乏しい体力が徐々に落ちていき、ついに私は病床に就いた。二度と起き上がれない予感があった。
アーネストは変わらず優しかった。
私が散歩したいと言えば部屋を森の小径のように飾り付けてくれたり、海が見たいと言えば崖の裏側の海の水を浴槽に貯めて砂を撒いてくれた。
ある夜、体中から痛みが引いてふわりと浮いたような気がした。
気分も穏やかで、満たされている。
時が来たのだと悟った。
夫を呼んでもらった。
すると、彼は珍しく体調が優れないようだった。蒼白い顔をして、私に見せまいとしているけれど息をするのも苦しそうだった。
「来て……アーネスト……」
彼は微笑み、枕元に跪いて私の手を握り髪を撫でてくれる。いつものように。
でも私にはわかった。
とても苦しいことがあったのだ。
彼は身も心も傷ついていた。そんなアーネストを初めて見た。
私は彼の頬に触れた。
「どうしたの……?」
「なんでもないよ。君は?今日は、どんな夢を見ていた?」
「辛いのね……あなた……の……苦しみを……私が、持って行ってあげられたらいいのに……」
「……ビアトリス」
心が通じる。
アーネストも私の死を悟ったのだ。
私は微笑んだ。
それだけで、私がどれだけ感謝しているか伝えられると思った。
彼も微笑みを崩さなかった。
けれどとにかく、顔色が悪い。
恍惚を伴う倦怠感がふわりと私を包み込んだ。
「ふふ……酷い顔色……まるで、吸血鬼みたい……」
私は彼の頬を、唇を、最期の力を振り絞ってなぞる。
「私の優しい吸血鬼さん……」
アーネストが私の手を取り、恭しいキスをしてくれる。
私の夫。私の優しい、愛する人。大好きな人。
私を幸せな妻にしてくれた、アーネスト。
「アーネスト……」
「うん。なに?」
「天国に……私、行けるかしら……」
「行けるよ」
「……天使に、会えたら……きっと……あなたのほうが……」
ふいに耐え難い寂しさと恐怖が押し寄せる。
私は必死にアーネストの手に縋り、身を寄せた。アーネストが捕まえてくれる。私が此処にいるとわからせてくれる。
「アーネスト……お願い……」
「うん」
「一緒に、祈って……神様のところへ……行ける……よう、に……」
アーネストが私を抱きしめ、そっと、優しく歌い始める。
それは天使の歌声だった。
私は声にならない声で祈りの歌を重ねる。
美しく優しい旋律が、私の恐れを溶かしていく。
「…………──」
あたたかくて大きな光が天から舞い降りて、私を掬い上げ、包んだ。
私は幸福感に満たされ、目を、閉じた。
幸せだった。
アーネスト。
どうか、あなたも幸せに…………
もう長くは生きられない。
私は死ぬのだ。もうすぐ。遠くない未来に。
違う。
未来など、ない。
「……」
私は悲しみに暮れ泣いたけれど、号泣する程の体力も残されていなかった。
冬を生き延びた私は、春に予てから招かれていたある伯爵家の宴を静かに楽しんでいた。
私は腫れ物のように扱われていたものの、周囲の優しさに感謝していた。
それでも……私は、私の夢を捨てられなかった。
私は夢見ていた。
愛する人と結ばれて、幸せに生きる人生を。
若きマスグレイヴ伯爵アーネスト卿はその人間離れした美貌から男女問わず絶大な人気があり、手の届かない存在だった。併し、死を前にした私は恐れや恥じらいをとうに捨ててしまっていた。
隙を見つけて、声を掛けた。
「マスグレイヴ伯爵。お願いがあります。私と結婚してください」
天から舞い降りた天使のように、マスグレイヴ伯爵は無垢な瞳で食い入るように私を見つめた。
「少しの間だけ結婚してくださるだけでいいのです。お願いします」
「……君は……」
私が余命いくばくもないのは周知の事実であり、マスグレイヴ伯爵も承知していた。私の短い言葉の意味を正確に捉えたらしかった。
数秒後、彼は、優しく微笑んだ。
「ああ、いいとも」
彼は人前で改めて私に求婚し、私を、幸せな花嫁にしてくれた。
期限付きの、華やかな彼の月日を少しだけ独占する権利。
私は我儘だった。
彼は──夫アーネストは全てを受け入れ、許してくれた。
誓いの通り、病める全ての時も、僅かに健やかな時も、私に愛情を持って接してくれた。持参金も受け取らなかったのだ。ただ私を引き受け、私に愛される妻の暮らしを与えた。
彼がどうだったかは、わからない。
けれど、私は彼に恋をしなかった。ただ深く感謝し、愛した。
独特ではあったけれど、アーネストは私に夫婦の絆を感じさせてくれた。
彼はきっと、私が死んでも寂しくはないだろう。
それが私には嬉しかった。
私は幸せだった。
始めから長く続かないとわかっていた。
私が死ぬ日は、明日かもしれず、明後日かもしれず、一年後かもしれず、今日かもしれない。そんな毎日。
結婚後も只でさえ乏しい体力が徐々に落ちていき、ついに私は病床に就いた。二度と起き上がれない予感があった。
アーネストは変わらず優しかった。
私が散歩したいと言えば部屋を森の小径のように飾り付けてくれたり、海が見たいと言えば崖の裏側の海の水を浴槽に貯めて砂を撒いてくれた。
ある夜、体中から痛みが引いてふわりと浮いたような気がした。
気分も穏やかで、満たされている。
時が来たのだと悟った。
夫を呼んでもらった。
すると、彼は珍しく体調が優れないようだった。蒼白い顔をして、私に見せまいとしているけれど息をするのも苦しそうだった。
「来て……アーネスト……」
彼は微笑み、枕元に跪いて私の手を握り髪を撫でてくれる。いつものように。
でも私にはわかった。
とても苦しいことがあったのだ。
彼は身も心も傷ついていた。そんなアーネストを初めて見た。
私は彼の頬に触れた。
「どうしたの……?」
「なんでもないよ。君は?今日は、どんな夢を見ていた?」
「辛いのね……あなた……の……苦しみを……私が、持って行ってあげられたらいいのに……」
「……ビアトリス」
心が通じる。
アーネストも私の死を悟ったのだ。
私は微笑んだ。
それだけで、私がどれだけ感謝しているか伝えられると思った。
彼も微笑みを崩さなかった。
けれどとにかく、顔色が悪い。
恍惚を伴う倦怠感がふわりと私を包み込んだ。
「ふふ……酷い顔色……まるで、吸血鬼みたい……」
私は彼の頬を、唇を、最期の力を振り絞ってなぞる。
「私の優しい吸血鬼さん……」
アーネストが私の手を取り、恭しいキスをしてくれる。
私の夫。私の優しい、愛する人。大好きな人。
私を幸せな妻にしてくれた、アーネスト。
「アーネスト……」
「うん。なに?」
「天国に……私、行けるかしら……」
「行けるよ」
「……天使に、会えたら……きっと……あなたのほうが……」
ふいに耐え難い寂しさと恐怖が押し寄せる。
私は必死にアーネストの手に縋り、身を寄せた。アーネストが捕まえてくれる。私が此処にいるとわからせてくれる。
「アーネスト……お願い……」
「うん」
「一緒に、祈って……神様のところへ……行ける……よう、に……」
アーネストが私を抱きしめ、そっと、優しく歌い始める。
それは天使の歌声だった。
私は声にならない声で祈りの歌を重ねる。
美しく優しい旋律が、私の恐れを溶かしていく。
「…………──」
あたたかくて大きな光が天から舞い降りて、私を掬い上げ、包んだ。
私は幸福感に満たされ、目を、閉じた。
幸せだった。
アーネスト。
どうか、あなたも幸せに…………
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