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母に父を説得してもらうなどお門違い。
これは私と兄の問題だ。

私は涙を拭き、踵を返した。併し広間へは戻らなかった。

修復に迫られているのは隠し通路から崖側の部分だけであり、これまでの生活に支障はない。自室に戻った私は入浴し汚れと疲労を洗い流した。

使用人の中には動揺している者もいたが、古参が多い為に統率が乱れることはなかったようだ。私は清潔にした顎に傷薬を塗りガーゼを当てた。

私が身支度を整えた分、兄もまた一日の整理をつけているはずだった。
もしかすると王子に同行しヴァルカーレ監獄へと出発してしまったかもしれなかったが、自室で座って考えているだけでは無意味な為、素直に兄の自室を訪ねる。

「……」

扉を叩いても返事はない。

廊下を引き返したところで兄付の使用人とすれ違った。聞くと、兄はマスグレイヴ城に留まっているらしい。王子から次期伯爵令息としてまずは事後処理と修繕工事に集中するよう言われたとのことだ。

求婚さえなければ、窮地を救ってくれた、善い王子だったのに。

「……」

王子の求婚について考えていると気が沈み鬱屈とした怒りが蓄積されていく。不愉快でもあり、それらの負の感情はすぐに兄への抗議へと姿を変える。

とにかく、城内にはいるらしい。
見つけ出して締め上げなくては。

疲労は酷いものだったが気が経ってしまい目は冴えていた。夜更けと呼ぶにはまだ早い。

庭やバルコニー、私がニックスを困らせた木立の辺りなどを歩き回り、結局、図書室で兄を見つけた。

兄はチェス盤を挟む椅子の片方に足組して深く座っている。
駒を操るでもない。戦略を練るでもない。あれは、ただ私との遊戯の時間を反芻しているだけ。

腹が立つ。

「お兄様」

戸口から声を掛けた。
感情そのままの怒気を含んだ低い声で、もう一度呼びかける。

「バレット」
「大変な一日だったな」

どうやら世間話を始めるつもりらしい。兄は微かに口元に笑みを刻む。

「ゆっくり休め」

私は扉を閉めて奥へ進んだ。

「私がおやすみを言いにわざわざ探し回ったと思っているの?」
「探したのか?ずっと此処にいた」
「可愛い妹とチェスに興じた思い出に浸っていたというわけ?」
「ああ。こんなに早く父親気分を味わうとは思っていなかったよ」

私は兄の横に立ち、精悍な横顔を見下ろしたまま、兄の座る椅子を蹴った。兄が笑った。

「悪かったよ。親父は、俺が責任持って絞め殺しておく」
「当然ね。でも、今はその話がしたいわけじゃないのよ」
「座れよ」

兄は脱力し、余裕さえ感じさせる態度で私に座すよう促す。
苛立ちに任せて一つ鼻息を吐いてから、今までと同じように向かいに座った。

今までの対戦の中で今夜は各段に旗色が悪い。併しそれは降伏する理由にはならない。

「聞いて欲しい話があるの」

説き伏せたい気持ちはあれども激情に任せて喚き散らすほど幼稚ではない。

兄は緩慢に頷きながら駒に指を伸ばした。
私は盤上の駒を薙ぎ払った。

無残に散った駒達が悲鳴を上げている。王も騎士も関係ない。

兄は驚いて目を瞠り、指を彷徨わせた。

「お兄様。私の目を見て」
「……」

私もいつしか薄笑いを浮かべていた。
愛しているから怒り狂い、愛しているから憎らしい。このまま兄を八つ裂きにして食べてしまいたいくらいだ。

深呼吸で己を整える。

そしてやはり、意地の悪い笑みを浮かべて兄を見つめた。

「うしろめたくて直視できない?そうよね。妹にキスをして、妹を一晩中抱いて眠ったお兄様だもの。求婚者が現れて、現実が押し寄せてきたせいで目を背けたくてたまらないのかしら」
「……」

兄は答えずに手を引き、組んだ足の上で拳を握る。

「言った通り、ニックスが身を挺して私を守ってくれたのだけど……」

私は母から聞いた過去の経緯や、ニックスが実の父親であることを簡潔に伝えた。兄が誕生した日に私たちの公の父親マスグレイヴ伯爵アーネストが嫌悪感に屈し嘔吐したことと、翌朝にビアトリスが永眠したこと、この二つだけは伏せておいた。

「お兄様はアンブロシウスとソニアから産まれ、私はカレブ・ニックスとローレルから産まれた。私たちは全く血の繋がらない一人の男と女なのよ。私は、あなたの妹じゃない」
「……そうか」

兄の表情を注意深く観察していると、やはり安堵したように見えた。

私と深いキスをしながらも、ドレスを脱がそうとはしない。私と深く愛し合おうとしなかった理由は、私を大切にしてくれているからではなかった。躊躇っていたのだ。
親たちの用意した前提通りに半分血の繋がった兄妹だったとしたら、私たちの愛は呪われた悦楽に墜ちる。

併し、兄一人に苦悩を押し付けるなど本望ではない。

私はチェス盤の上で手を伸ばし、兄の腕に触れた。

「私、どこも似ていないって言ったでしょう?私の勝ちよ、お兄様」
「……」
「愛してる。求婚は断ります」

兄の腕を掴む。

「兄妹のふりをして、此処で、あなたと生きていく。嘘に守られた城ではなんでもありなのよ」
「……」
「それとも、私が邪魔なの?嫌いになった?私を追い出してマスグレイヴ伯爵家を掌握したい?」

挑発する為だけに戯言を口にする。
塞ぎ込んだ兄が碌でもないことを考えたから、私が求婚されても黙って見ているなどという過ちを犯したのだ。弱腰になるのも仕方ない。自分の両親が襲撃の首謀者で、私たち一家全員を皆殺しにしようと攻め込んで来たのだ。落ち込みもする。

そこへ王子からの求婚。
表向きには兄妹。
諦めたくもなるというものだ。

私が兄だって〝よかったなお前は王子と結婚しろ〟と一度は言うかもしれない。

そんなこと気にするものか。
母が言っていた。ニックスでさえ一度は母との人生から身を引いたのだ。

私より重荷を背負っているのだから、私が傍にいて、一緒に背負って何が悪い。

「ここは私の城でもあるの。何処へも行かない。お願い、お兄様。王子に言ってよ。妹は、やらないって」
「フランシスカ……」

溜息まじりに私を呼んだ兄が身を乗り出してくる。その声は低く呻るようでいて痛々しくもあり、怒気や憎悪を孕んでさえいた。私でさえ、怖気づいた。

兄がチェス盤に肘を突き、間近で私の目を覗き込んでくる。

「此処はもう俺の城だ」
「──!」

信じられない一言だった。
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