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「フランシスカ。オペラ座で新曲だって。聞いてみるかい?」

歓談しながら歩いていると婚約者のウォルトンが笑顔で私を誘った。
私は笑顔で頷いた。

「ええ。行ってみましょう」

それが地獄の始まりだった。

私たちは賑わう人の流れの中で踵を返し、オペラ座の方へと早足に向かう。
この時まで私は優しい幸せの中にいた。
幸せの中で何不自由なく暮らし、只一つの疑いも抱かずに未来を信じていた。

後に憎しみ合うことになるとは思いもしないままに私はウォルトンによって楽譜売りの少女の前に導かれた。

新人は新曲が出る度にこうして売り子と呼び子の役割を担い、日が暮れるまで往来に立っている。
彼女たちは楽譜売りや歌売りと呼ばれており、未来のパトロンの目に留まり出世することも野望のひとつとして抱いているものだ。

私は一瞬だけ警戒した。
しかしウォルトンは日頃から笑顔を絶やさずに優しく愛を囁き続けてくれる婚約者であり、彼の愛を疑う理由が私には一つもなかったのだ。

だから私は楽譜売りの少女の目をまっすぐに見つめた。

美しい少女だった。

艶のある黒髪と宝石のような琥珀色の瞳が印象的なコントラストで見る者の目を引き寄せる。
どんな才能があってオペラ座の楽譜売りをしているのだろうか。

結婚を控え幸せ真っただ中の私は、彼女が未来に成功するよう願いすらした。

「一つ貰うよ」
「はい!」

少女が丸めてリボンの掛けられた筒を一つウォルトンに手渡し、ウォルトンは彼女の腕に掛けられた小さな籠にコインを入れる。

私はウォルトンから筒を受け取り、リボンを解いて歌詞に目を落とした。
美しい愛の歌詞は私の心を代弁するかのようだった。

「歌ってみてくれないかい?」

ウォルトンが楽譜売りの少女に言った。
私は期待を胸に顔を上げた。

彼女の歌声が全てを壊した。

「素晴らしい歌声だね!君はきっと歌姫になれるよ!」
「ありがとうございます、旦那様。旦那様のような素敵な方に褒めていただけると、どんなに辛い日々でも頑張ろうと思えます。私、頑張ります!」
「ああ、なんて可愛いことを言ってくれるんだ。僕は感動したよ。ねえ、君、名前はなんていうんだい?」
「はい、旦那様!キャロルです!」

頑張ってね、キャロル。応援しているよ。
ウォルトンはそう言うのだと思って、信じて、私は婚約者の横顔を見上げた。私に愛を囁くときと同じ優しい笑顔を。

でも、ウォルトンは言ったのだ。

「キャロル!気に入った!結婚したら愛人にしてあげよう!」
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