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56(ミスティ)
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社交界デビューを果たしてからというもの、この二年程は不毛といえる不躾な求婚が立て続き、私はやや辟易している。
何故か眼鏡が不評であり、令嬢らしくないとのこと。
私には母を介し王家の血か流れているのだが、それを目当てに白々しい愛を囁く者についてはこちらからきっぱりと断固拒否の姿勢を貫いていた。
こちらから拒否せずとも、私に流れる王家の血や、更には眼力に敬意を払う一派がいて、彼ら彼女らは私を妙な異名で崇めている。
そのせいでまともと思える適齢の貴族がそちらに含まれてしまい、結果、不毛な求婚者しか現れない事態に陥っているというのが私の見解だ。
今日もとある晩餐会から夜通しの馬車の旅を経て城へと帰って来た。母が欠伸しながら歩いていくのを見送り、私は父と目配せをしてから祖父の住まう塔へ向かう。
母の膝で一晩ぐっすり眠った私にはやるべきことがある。
「お祖父様、只今帰りました」
私が声を掛けると、ベッドで体を起こしていた祖父が笑顔で迎えてくれた。
もうすっかり喋らなくなり、立派な髭だけでなく立派な白い眉毛が目元まで隠していて表情も定かではないが、私には祖父の心がいつも伝わってくる。
長く祖父に仕えてくれているケネス夫人も私の帰還を喜んでくれて、すぐに席とお茶を整えてくれた。
「お待たせしました。晩餐会に行ってきましたの。料理や音楽は素晴らしかったのですが求婚は断りました。でも面白いこともありました。ある令嬢が飼い慣らしていた兎が厨房に迷い込んだとかで、危うくお皿に乗るところだったとか。それにこんなこともありました。私がもぎたてのオレンジに手を伸ばした時──」
一通り雑談を交わす。
祖父はこちらを向いて、頷きはしないが嬉しそうな空気を漂わせていた。私が何か話しかけていれば喜んでくれるのだ。
目ぼしい話題が尽きたところで日課に移る。
「お祖父様が大好きなメレヤワゼ記の続きをお読みしますね。32章18節からでしたね」
椅子に腰かけ書物を開く。
その時、祖父の肩に掛けられていたバラクロフ侯爵家の紋章入りの掛物がずり落ちたので、私はそれをかけ直した。
私が初期に編んだものを祖父は愛用してくれている。
膝にも肩にも掛けられ、靴下や腹巻は覆い隠されているだけで未だ祖父の老体を寒さから守るのに一役買っているのだ。外出しなくなり帽子はその役目を終えた。たまにベッドで身を起こした祖父が手で揉んでいたり、被ったりしているのを見ると嬉しくなる。
さて。
「──〈収穫の時が来た。王は村々へと使者を送りその年の──〉……おさらいに32章の頭からにいたしましょうか」
「……」
私が提案すると、祖父は震える左手を上げ私に伸ばした。
私は書物を置き祖父の手を両手で包み、しっかりと握った。
「ええ。帰りましたよ。ミスティです。此処にいます」
老いて枯木のようになった細い祖父の手は変わらない温もりで私を癒し、満たしてくれる。
「……」
見えているのか定かではないが、私は祖父に心からの微笑みを注いだ。
顔を近づけたから生い茂る白い眉毛の奥で微笑む優しい目が判別できた。私の胸に喜びと安堵が広がる。
祖父に会えた喜び。
祖父が今日もまた目覚めたという安堵。
祖父の手に痛みが走らないよう丁重に角度を変え、私は前屈みになって自身の頭を寄せやや強制的に撫でてもらった。これもまた日課だ。
手を離し、私はメレヤワゼ記の朗読を再開する。
32章の頭から読み直し、18節も通り越し、25節に差し掛かった時、私は異変に気付いた。
「……お祖父様?」
嫌な予感に書物を放り出し、椅子から転がり落ちるようにして枕元に跪き祖父の腕の辺りを掴む。
「お祖父様!?」
ベッドに縋る私の傍に慌ててケネス夫人が駆け寄った。
私は両手で祖父の体を揺さぶった。
「お祖父様!?お祖父様……!!」
ケネス夫人が白い髭の中に指を差し込み、呼吸の有無を確認する。
「……っ」
涙が溢れた。
「お疲れ様でした……ありがとうございました」
ケネス夫人の祖父への囁きは、私に認めがたい事実を教える。
私の涙は更に溢れた。
「お祖父様……ああ、そんな……っ」
「お嬢様を待っていらっしゃったんですわ。最期まで、お幸せでした」
「嫌……!」
芯から体が震え、途方もない寂寥感と孤独と哀しみに私は祖父の亡骸に縋りついて号泣する。
ケネス夫人も傍ですすり泣いていたが私より簡単に事実を受け止めていた。それは祖父の看護にあたっていた日々の実績が彼女の心に準備をさせていたのかもしれない。
私には受け入れ難かった。
やがてケネス夫人は静かに祖父の寝室を出た。
父に知らせる為、或いは私と祖父の別れの時間を確保する為だったはずだ。
頭の隅ではこれが動かし難い現実だと理解していた。
だが感情は、溢れる涙は、慟哭は、止められはしなかった。
私は祖父を愛していた。
その祖父は今、永遠の眠りに就いたのだ。
何故か眼鏡が不評であり、令嬢らしくないとのこと。
私には母を介し王家の血か流れているのだが、それを目当てに白々しい愛を囁く者についてはこちらからきっぱりと断固拒否の姿勢を貫いていた。
こちらから拒否せずとも、私に流れる王家の血や、更には眼力に敬意を払う一派がいて、彼ら彼女らは私を妙な異名で崇めている。
そのせいでまともと思える適齢の貴族がそちらに含まれてしまい、結果、不毛な求婚者しか現れない事態に陥っているというのが私の見解だ。
今日もとある晩餐会から夜通しの馬車の旅を経て城へと帰って来た。母が欠伸しながら歩いていくのを見送り、私は父と目配せをしてから祖父の住まう塔へ向かう。
母の膝で一晩ぐっすり眠った私にはやるべきことがある。
「お祖父様、只今帰りました」
私が声を掛けると、ベッドで体を起こしていた祖父が笑顔で迎えてくれた。
もうすっかり喋らなくなり、立派な髭だけでなく立派な白い眉毛が目元まで隠していて表情も定かではないが、私には祖父の心がいつも伝わってくる。
長く祖父に仕えてくれているケネス夫人も私の帰還を喜んでくれて、すぐに席とお茶を整えてくれた。
「お待たせしました。晩餐会に行ってきましたの。料理や音楽は素晴らしかったのですが求婚は断りました。でも面白いこともありました。ある令嬢が飼い慣らしていた兎が厨房に迷い込んだとかで、危うくお皿に乗るところだったとか。それにこんなこともありました。私がもぎたてのオレンジに手を伸ばした時──」
一通り雑談を交わす。
祖父はこちらを向いて、頷きはしないが嬉しそうな空気を漂わせていた。私が何か話しかけていれば喜んでくれるのだ。
目ぼしい話題が尽きたところで日課に移る。
「お祖父様が大好きなメレヤワゼ記の続きをお読みしますね。32章18節からでしたね」
椅子に腰かけ書物を開く。
その時、祖父の肩に掛けられていたバラクロフ侯爵家の紋章入りの掛物がずり落ちたので、私はそれをかけ直した。
私が初期に編んだものを祖父は愛用してくれている。
膝にも肩にも掛けられ、靴下や腹巻は覆い隠されているだけで未だ祖父の老体を寒さから守るのに一役買っているのだ。外出しなくなり帽子はその役目を終えた。たまにベッドで身を起こした祖父が手で揉んでいたり、被ったりしているのを見ると嬉しくなる。
さて。
「──〈収穫の時が来た。王は村々へと使者を送りその年の──〉……おさらいに32章の頭からにいたしましょうか」
「……」
私が提案すると、祖父は震える左手を上げ私に伸ばした。
私は書物を置き祖父の手を両手で包み、しっかりと握った。
「ええ。帰りましたよ。ミスティです。此処にいます」
老いて枯木のようになった細い祖父の手は変わらない温もりで私を癒し、満たしてくれる。
「……」
見えているのか定かではないが、私は祖父に心からの微笑みを注いだ。
顔を近づけたから生い茂る白い眉毛の奥で微笑む優しい目が判別できた。私の胸に喜びと安堵が広がる。
祖父に会えた喜び。
祖父が今日もまた目覚めたという安堵。
祖父の手に痛みが走らないよう丁重に角度を変え、私は前屈みになって自身の頭を寄せやや強制的に撫でてもらった。これもまた日課だ。
手を離し、私はメレヤワゼ記の朗読を再開する。
32章の頭から読み直し、18節も通り越し、25節に差し掛かった時、私は異変に気付いた。
「……お祖父様?」
嫌な予感に書物を放り出し、椅子から転がり落ちるようにして枕元に跪き祖父の腕の辺りを掴む。
「お祖父様!?」
ベッドに縋る私の傍に慌ててケネス夫人が駆け寄った。
私は両手で祖父の体を揺さぶった。
「お祖父様!?お祖父様……!!」
ケネス夫人が白い髭の中に指を差し込み、呼吸の有無を確認する。
「……っ」
涙が溢れた。
「お疲れ様でした……ありがとうございました」
ケネス夫人の祖父への囁きは、私に認めがたい事実を教える。
私の涙は更に溢れた。
「お祖父様……ああ、そんな……っ」
「お嬢様を待っていらっしゃったんですわ。最期まで、お幸せでした」
「嫌……!」
芯から体が震え、途方もない寂寥感と孤独と哀しみに私は祖父の亡骸に縋りついて号泣する。
ケネス夫人も傍ですすり泣いていたが私より簡単に事実を受け止めていた。それは祖父の看護にあたっていた日々の実績が彼女の心に準備をさせていたのかもしれない。
私には受け入れ難かった。
やがてケネス夫人は静かに祖父の寝室を出た。
父に知らせる為、或いは私と祖父の別れの時間を確保する為だったはずだ。
頭の隅ではこれが動かし難い現実だと理解していた。
だが感情は、溢れる涙は、慟哭は、止められはしなかった。
私は祖父を愛していた。
その祖父は今、永遠の眠りに就いたのだ。
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