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20(ソレーヌ)

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女ばかりが苦しい思いをして命懸けで血を流さなければ子孫を残せないというのは、全く不平等だと思う。

アレクシウスの時は出産ごときで死ぬのが悔しくて泣き喚いた。
男に生まれたかったと本気で思ったものだ。

「……」

いけない。
思い出したくない。

「私は、フェラレーゼ伯爵夫人」

もう新しい人生を歩んでいる。
もう、違う人生に生きている。

せり出した腹部に手を当てて、自分が誰の胤を宿したかを意識する。
この腹の中の子の父親は、可愛い年下の夫。ガイウス。光の中で呑気に生きてきた優しい伯爵。

「私は……伯爵夫人」

今度は、戦場と比べれば格段にまともな主治医が私の体を管理している。
私の健康の為ではなく、腹の中の子を生きたままこの世に迎える為にそうしている。そうしなければならないから、必ず成し遂げなくてはならないから。

失敗は、ないだろう。
私も随分、楽ができるかもしれない。

私はフェラレーゼ伯爵家の跡継ぎを産む女として、生き残る。生き続ける。
生き続けるならば、生き残った私はフェラレーゼ伯爵夫人として相応しく生きるべきだ。過去を思い出さない為に。

アレクシウスなど忘れてしまえばいい。
あの子の顔など二度と見たくない。

私はアレクシウスの母親として生きたくはない。
思い出したくはない。

ガイウス……

「私の夫は、ガイウス……」

せり出した腹部に手を当てるのは、身篭った女がとるべき態度であるから。型を守ることから全ての技術は発達する。
つい最近、善人として周知されている女が身篭って産み落とすまでを間近で見てきた。

私はフェラレーゼ伯爵夫人として良い妊婦でいなければならない。

「ガイウス?」

用がある。
私がガイウスの妻で在る為に、ガイウスの妻としての行いを心掛けなければならない。

探してみると、夫は執務室で領主としての仕事をしていた。軟弱でお人好しの可愛い年下の夫と色眼鏡で見ようとも、私には真似できない生粋の貴族としての生き方をきちんとこなしているのだ。

「ガイウス」

呼ぶと夫が顔を上げた。
私は腹部を撫でながら夫の仕事の手を止める。ガイウスが己の子を孕んだ女に甘いことくらい、私でなくてもわかる。

「どうかしました?」

二人の姿が消えてからというもの、ガイウスは落ち込み、消えた女と産ませた子どもに気を取られ、私への態度はやや余所余所しいものに変わっている。
子ども好きなガイウスにとって、我が子の消失は苦悩の極みでしかないだろう。

可哀想なガイウス。
ヴェロニカは酷い裏切り者。

だから私は、優しさを忘れないよう努めている。
いつも私の腹の中に己の子がいることを見せつけ思い出させてあげている。

「教えてほしいの」
「はい」
「領内の子どもたちの為に騎士学校を作るとしたら、実際、期間としてはどれくらいかかるものなのかしら」

何不自由なく育った可愛い夫は、金と土地をどう都合すればいいかを躊躇いなく思索する。

「規模にもよるが……あなたが実際にその手で子どもたちを育てたいということなら、此処でもいい。それなら今からでも始められるよ」

控えめな笑顔で私を見上げ、ガイウスは私の計画を聞きたがっている。
私は机に浅く腰を下ろし、片手で腹部を撫でながら、片手で体を支えてガイウスの気を引きつける。

「これからあなたの子を産むのよ?産んで、乳母に任せるとしたってせいぜい三ヶ月は身動きが取れないでしょう」
「ああ、乳母を探さないとね」
「ええ。だから、私が動けるようになるまでに環境が整うかどうかが知りたいの」
「なるほど」

ガイウスは暫し黙り込み、冷静な目付きで幾つかの状況を思い巡らしていた。
どのような答えを導き出すにしろ、決定権はガイウスにある。此方としては私の希望がある程度叶えられるものであればなんでもよかった。

動き出せば、後はどうにでもできる。

「寄宿舎のような本格的な学校を建てるとなれば、公の教育期間として認知される為にも理解を求める期間が必要になるよ。その過程で寄付金や協力者が集まる可能性もある」
「日帰りできる場所で自由に教えたい。外泊なんて、誰に何を言われるかわからないわ」
「それは騎士を目指す子たちにも言えることだよ。あなたが教師として町に通うか、此処に小規模な離れを建てて寝起きさせ、教育を施すのがスマートだ」

私は頷いた。

「あの武闘会の延長くらいが丁度いいわ」
「ちなみに、生徒は男女ともに募集するのかい?」
「……」
「あなた一人で何人の生徒を見ることができる?他にも教師を招くかい?あなたの信頼するかつての仲間を呼ぶなら、此処で暮らしてもらって構わないよ」
「考えるわ。あなたが寛大に許してくれて、驚いた」
「あなたにも生き甲斐が必要だ」

ガイウスが優しい笑顔で投げた一言は、激しく私を斬りつけ傷を抉った。ただそれは私の問題であってガイウスに責任はない。
だから私はただ微笑んで礼を伝えた。

「ありがとう」
「具体的な希望はすぐ教えてほしい。用意する都合があるからね」
「わかったわ」
「ただ男女どちらも引き受けるというなら宿舎は分ける必要がある」
「そう」
「私的な騎士学校だから領地経営の優先事項としては進められない。最短で二年、長くて四年見て欲しい。それでもいいかい?」
「ありがとう、ガイウス」

私は机に浅く腰をかけたまま前屈みになり、感謝のキスを送ろうとした。併しせり出した腹部が邪魔をした。
可愛い夫は私の肩に触れてそっと押し戻し、自ら腰を上げ、私の額に労わるようなキスをする。

「名前は、もう考えた?」

努めて明るく問いかけると、ガイウスは微笑み、細めた目を輝かせた。

「顔を見てから、あなたと決めたい」
「わかった。楽しみね」

可愛い年下の夫は、今の私の人生を明るく照らしてくれる。
ガイウスの待ち望む跡継ぎを産む幸福は、私の心もあたたかく弾ませる。

私は夫を解放し自室に引き上げた。
私は身篭っている。静かに時を待つだけだ。退屈でも、耐える価値はある。

「……ガイウス……」

産まれてしまえば、あの女の為に思い悩む暇もなくなるだろう。
産み落とした庶子など、すぐに忘れる。

そう信じていた私は、まさか、この時まだガイウスがヴェロニカの行方を探し続けているなど、想像もしていなかった。すっかり諦めたと思い込んでいた。

時が満ち、私は、手厚い看護を受け男の子を産み落とした。
待望の跡継ぎだ。

私とガイウスは、この子にミカエルと天使の名を付けた。
ミカエルはガイウスに似ていた。

父親に、似た息子が生まれた……

ガイウスがミカエルをつれてヴェロニカの住処へと通うようになったのは、ミカエルが四才になった夏の日の事だった。
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