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14(ヴェロニカ)
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静かな夜。
あまりにも突然、はっきりと目が覚めた。
「……」
足元の違和感に半身を起こして目を凝らすと、人影があった。
恐怖で体が強張る。
無意識に息も止めていた。
ただ、揺り籠で眠る小さな息子の心配をしなかったのは、相手が誰かわかっていたからだ。
月灯りが彼女の姿を映し出していた。
「……」
声が出ない。
呼び掛けることも、できない。
ソレーヌは此方に背を向けて、私が寝ているベッドの端に座っていた。
彼女が、肩越しに振り向いた時。
それは月灯りを受けて鋭く光った。
「!」
かつて女騎士であったフェラレーゼ伯爵夫人ソレーヌ。
その生きた証を、剣を、彼女は抜き身のまま私の寝室に持ち込み、床に突き立て、座っていたのだ。
そして初めて、女騎士ソレーヌが私を見た。
その横顔には優しさや愛情など一欠けらもなく、殺意のみがあった。
「妊娠した」
ソレーヌが低く囁いた。
続く囁きはこんなものだった。
「三百」
「……!」
私はベッドから飛び出し、眠っているオリヴァーをブランケットに包み、更にシーツを結んでオリヴァーを体に括りつけ、外套を掴み走り出した。
フェラレーゼ伯爵夫人は妊娠した。
全てが覆った。
私は、夫が抱いた他所の女。
息子は、彼女の産む子どもからあらゆる権利を奪いかねない邪魔な存在。
ソレーヌが剣を持って現れたのは「今、目の前から消えなければ殺す」という意思表示だ。そして私に与えられた猶予は、彼女が三百から零までを数えるほんの短い時間だけ。
ガイウスに助けを求める余裕はない。
声を出すことはできるだろう。助けを求めることはできるだろう。
でも、ソレーヌは歴戦の元女騎士で、剣を携えている。
叫んだ私が、助けを求めた相手が、助けようと駆けつけてくれた誰かが、その剣で刺し貫かれない保証など何処にもない。
まずは姿を消す事。
生き延びる事。
安全を確保してから、あらゆる努力をすればいい。
あの夜、できなかったけれど。
今夜こそは私が消えてしまえばそれで済むから。
「……はぁっ、はぁッ」
一先ず裏庭に出た。
雲ひとつない白く澄み渡る月夜では、私の姿を隠すのは難しい。
私は厩舎に走った。
ソレーヌは今、どこまで数えた?
数え終わった時、彼女は歩くのだろうか。
走るのだろうか。
もしソレーヌが全力で走ったら、私は追いつかれてしまうだろうか。
ソレーヌが殺したいのは、私だろうか。それとも、オリヴァー……?
「……っ」
嗚咽混じりの涙が込み上げる。
でも泣いている場合じゃない。
馬を盗んで逃げるつもりで厩舎に忍び込んだ私は、奥に突き進みながら盛大に躓いた。
「きゃあっ!」
「!」
叫んだのは、私ではない。
オリヴァーをお腹側に括りつけていた私は本能的に転倒を避け、女性の悲鳴が上がった足元を凝視する。
「……」
「いったぁ……踏んだわね、何よ」
声は、ロージーに違いなかった。
「ごめん」
一言詫びて、特に深刻な怪我もさせていないようだったので馬の方へ向かう。
「ちょっと。何?どうしたの?」
「……」
「ねえ、待ってよ。ヴェロニカ!」
理由はわからないにしろ、真夜中の厩舎で転がっていたロージーは私に追いついて勢いよく肩を掴んだ。私は構わず柵を開けた。
「ヴェロニカ」
悪いけど、邪魔しないでほしい。
ソレーヌが数え終えるまで、もう一分もない。
一刻も早くここから立ち去らなくてはいけない。
「奥様が何かした?出て行くの?」
ロージーの声が気づかわしげなものになる。
私がガイウスと一夜を共にして、部屋を移ってから、ほとんど会話らしい会話もなくなったロージーだったけれど、産後に少しずつ打ち解けてきてはいた。
私はふと気づいた。
一人くらい、ガイウスに真実を伝えられる人間がいた方がいい。
オリヴァーの父親なのだから。
「奥様、妊娠したの」
「ええっ!?」
驚きの叫びをあげた直後、ロージーは自分で自分の口を塞いだ。遅いけど。
「急に目が覚めて、そうしたらベッドに剣を持った奥様が座ってた。それで言ったの。妊娠したって」
「嘘……なんで……!?」
「嘘でも妄想でも、そう断言して剣を持っていたの。消えろって意味でしょ」
馬がそわそわし始めると、オリヴァーも少しぐずり始めた。
「でも、いくら旦那様でも許さないでしょう」
「ガイウスが言い聞かせる前に殺されたら元も子もない」
「……そりゃそうだわ」
ロージーが胸元のボダンを閉めて呟いた。
そういえば、少し肌寒い夜にしては薄着で、随分とはだけている。
「デート?」
横目で尋ねるとロージーは素直に頷いた。
「邪魔してごめんね」
「ねえ、ヴェロニカ。赤ん坊抱いて一人で馬を走らせるなんて危ないよ。お金はどうするの?」
「どうにでもする。ソレーヌが三百数え終わるまでに消えないといけないの。悪いけど構わないで」
「ザック!」
ロージーがデートの相手を大声で呼んだ。
ザックと呼ばれた青年はすぐに現れた。私は見たことがない顔だった。でも、厩舎で衣服を乱してかくれんぼするくらいだから馬の世話をしているのだろう。
「奥様が来たら、みんな病気で走れないって言って」
「そんなこと言ったら殺されちまうだろ」
「種付け中って言ったら?」
協力してくれる雰囲気を察し、私は恋人たちの会話に口を挟んだ。
二人して納得したように頷く。
ザックが迅速に、仕事の備えなのか手押し車から麻袋一つを掴むと私に渡した。
「金と酒とビスケットとジャーキーが入ってる」
ロージーが一番小さな馬車を手際よく整えた。
やはり、恋人だから相手の仕事にも精通しているのだろうか。彼女はミルクメイドだから、もしかすると動物のいる環境で育ったのかもしれない。
「乗って!」
ロージーはもう手綱を握っている。
時間はない。
ロージーを説得する時間もない。
それに、自ら協力を申し出てくれるだけの行動力があれば、万が一のことがあってもソレーヌから逃げてくれるだろう。今はそう信じるしかない。
私は彼女の隣に座りオリヴァーを抱きしめた。
馬車は走り出した。
馬はとにかく駆けてくれたし、ロージーの手捌きはかなり慣れたものだった。
そしてソレーヌが追ってくる気配もない。
オリヴァーも、激しい揺れが逆に心地よいのか、すやすやと眠っている。
「……」
美しい月夜だった。
私は、正しい選択をしたのだろうか。
そんな迷いが生じた時だった。ロージーが手綱を緩め、前方を見据えたまま、やや声を張る。
「ごめんね」
「?」
謝るなら私の方なのに。
まだ、お礼も言っていない……。
「これで罪滅ぼしさせて」
「なんの話?」
どうもロージーの話の真意がわからず、此方のお礼も謝罪もすっ飛ばして私は尋ねた。
ロージーは気まずそうな表情のまま、思い切った様子で言った。
「あんたに冷たくしようって言ったの、私なの」
ああ、なるほど。
ソレーヌに命を狙われた身となっては、ロージーにされたことなど、正直どうでもいい。
「あの時から、気づいてた。奥様ちょっと頭おかしいって」
「……?」
メイドのくせに当主の子どもを身籠って特別待遇を受けた私に対する、使用人たちの冷遇の謝罪にしては、話題の矛先が腑に落ちない。
私は口を噤んだ。ロージーの話は、まだ続きそうだから。
ロージーは後悔と、ある種の決意のような強さを含んで私に告白する。
「あんたが旦那様の子どもを身籠ったかもしれないってことで部屋を移った時、私たち喜んだんだ」
「え?」
「だって、あんな恐い奥様より、あんたの方がいいもん」
「……」
「これで離婚ってことになって、旦那様があんたと結婚したらいいのにって、みんな言ってた。でもさ」
そうか。
みんなソレーヌが私に跡継ぎを産むよう望んだ事実は知らないのだから、ガイウスの心変わりに見えてもおかしくはない。
「あの辺から、奥様、急に酒に狂ったのよ」
「……」
知らなかった。
「常に酩酊していたよ。暴れはしないんだけど、歌ったり笑ったり所かまわず踊ったり……あぁーついに狂っちゃったかぁーって。だから、変にあんたを持ち上げると、その、やっちゃうかなって」
不妊に思い悩んで私に跡継ぎを産んでほしいと固執し、ついにそれが叶った時のソレーヌの心情。
複雑で、深刻で、とても軽々しく想像することさえできない。
ソレーヌが私の妊娠をきっかけに精神的に不安定になって酒に溺れてしまったのだとしたら、それは、ガイウスも気を遣っただろう。細心の注意を払う必要があったはずだ。
私の安全について言っていたのは、こういう事情があったのか。
「だからとにかく奥様を刺激しないように、あんたの世話は粛々とやろうってことにしたの」
「そうだったの」
思いがけない理由で気遣われていたのだと知ると、仲間たちに苦労をかけたのが申し訳なくなってしまった。でも先に謝ったのはロージーだった。
「辛かったでしょ。ごめん」
「ううん。そうでもなかった。いい部屋で優雅に暮らしたわ」
私が笑顔を向けると、ロージーもこちらを一瞥し唇に笑みを刻んだ。
「ありがとう」
私はやっとお礼を伝えた。
今夜だけではなく、あの頃から黙って私を守ろうとしてくれていたなんて。
ロージーは苦々しく表情を歪めて首を振った。
「なんだかんだうまくいくのかと思ったよ。あんた、好かれてるように見えたし。でもさ……奥様が妊娠したんじゃ、もうね」
「よかったのよ。彼女、苦しんでいたもの」
私は本心を言ったのだけれど、ロージーは信じられないという顔で私を見た。
「あんたが納得するから、旦那様が図に乗るんでしょ」
「……」
耳が痛い。
「ああ、もう、本当に信じられない!」
ロージーが怒りを爆発させる。
それでも馬は穏やかに走り続けた。
「ヴェロニカに手を付けて跡継ぎ産ませて、それで奥様ともよろしくやって、今は呑気に寝てるんでしょう!?優しいのは結構だけど、どれだけ自分に甘いの!?」
「……」
ガイウスの性格については、私も、異論はなかった。
正直、ここまでの事態になってしまった後では、ガイウスに今のソレーヌを制御できるかどうかは本気で疑わしい。
だから、過度な期待はしていない。
もう、平穏にオリヴァーを育てていけたら、それ以外は何もいらない。
「奥様が産んだ子が跡継ぎになるのは当然のことよ」
「わかってる。でもさ、奥様が狂ったから旦那様は無責任にあんたを見棄てるってわけ?死ねばいいのに」
私は微笑ましい気持ちを抑えきれずにロージーを見つめてしまった。
勿論、彼女は私の為に親身になって怒っているというわけではないのだと思う。まず大前提として、ガイウスという一人の男性の態度に対して、女性として怒り狂っているのだ。
でも、これだけ口汚く罵れるのは、ガイウスが優しい当主で使用人たちにいい意味で軽く見られているからだろう。親しみやすく信頼できる当主でなければ、陰口でもこうは言えない。
少し扱いに困る伯爵夫人という問題を抱えてはいるものの、本来のフェラレーゼ伯爵家はあたたかく風通しのいい環境なのだ。
私はロージーに伝えようとした。
ソレーヌの懐妊を祝福し身を引いただけ。
いつまでも家族で幸せに。
オリヴァーはきちんと育てます。
そうガイウスに伝えて欲しいと。
しかし私はロージーの横顔の遥か向こうから此方に向かって疾走する一頭の馬を見た。
「……」
視線に気づき、ロージーが見遣る。
「くそっ」
ロージーが悪態をつき手綱を振るった。
馬がこれ以上ないほど疾走し、私は振り落とされないよう片手でしっかりとオリヴァーを抱き、もう片方の手で必死に囲いにしがみ付いた。
明るい月夜。
見通しのいい草原。
追跡の馬は恐ろしいほど確実に距離を縮めてくる。
ロージーがどうにもならない状況に罵詈雑言を吐きながら手綱を振るい続ける。馬が走り続ける。
「……っ」
捕まる。
殺される。
逃がすだけ逃がして、追い詰めて、そしてこの世から葬り去るつもりだったのか。
私は絶望に支配され、気づくと泣き叫んでいた。
私だけならいい。
でも、オリヴァーを傷つけられるのは耐えられない。
それにロージーは……親切なロージーはどうされてしまうだろう。
私のせいだ。
「……いや……っ、神様……!」
助けて。
そう、心から叫んだ瞬間。
「ヴェロニカ!ヴェロニカはいるのか!?」
低い男性の声が微かに届いた。
それはガイウスの声ではなかった。聞いた事がない声だった。
そして、随分と必死な、悲愴に満ちた声だった。
「報せを受け帰って来たんだ!エイダ……!エイダ!」
「……」
私は、その名前で全てを理解した。
ロージーの手を掴んだ。
「止めて」
声が震えた。
だから、ロージーの耳には入らなかったかもしれない。
でも、続く叫びは届いたはずだ。
その男性は涙声で叫んだ。
お前の父だ、と。
あまりにも突然、はっきりと目が覚めた。
「……」
足元の違和感に半身を起こして目を凝らすと、人影があった。
恐怖で体が強張る。
無意識に息も止めていた。
ただ、揺り籠で眠る小さな息子の心配をしなかったのは、相手が誰かわかっていたからだ。
月灯りが彼女の姿を映し出していた。
「……」
声が出ない。
呼び掛けることも、できない。
ソレーヌは此方に背を向けて、私が寝ているベッドの端に座っていた。
彼女が、肩越しに振り向いた時。
それは月灯りを受けて鋭く光った。
「!」
かつて女騎士であったフェラレーゼ伯爵夫人ソレーヌ。
その生きた証を、剣を、彼女は抜き身のまま私の寝室に持ち込み、床に突き立て、座っていたのだ。
そして初めて、女騎士ソレーヌが私を見た。
その横顔には優しさや愛情など一欠けらもなく、殺意のみがあった。
「妊娠した」
ソレーヌが低く囁いた。
続く囁きはこんなものだった。
「三百」
「……!」
私はベッドから飛び出し、眠っているオリヴァーをブランケットに包み、更にシーツを結んでオリヴァーを体に括りつけ、外套を掴み走り出した。
フェラレーゼ伯爵夫人は妊娠した。
全てが覆った。
私は、夫が抱いた他所の女。
息子は、彼女の産む子どもからあらゆる権利を奪いかねない邪魔な存在。
ソレーヌが剣を持って現れたのは「今、目の前から消えなければ殺す」という意思表示だ。そして私に与えられた猶予は、彼女が三百から零までを数えるほんの短い時間だけ。
ガイウスに助けを求める余裕はない。
声を出すことはできるだろう。助けを求めることはできるだろう。
でも、ソレーヌは歴戦の元女騎士で、剣を携えている。
叫んだ私が、助けを求めた相手が、助けようと駆けつけてくれた誰かが、その剣で刺し貫かれない保証など何処にもない。
まずは姿を消す事。
生き延びる事。
安全を確保してから、あらゆる努力をすればいい。
あの夜、できなかったけれど。
今夜こそは私が消えてしまえばそれで済むから。
「……はぁっ、はぁッ」
一先ず裏庭に出た。
雲ひとつない白く澄み渡る月夜では、私の姿を隠すのは難しい。
私は厩舎に走った。
ソレーヌは今、どこまで数えた?
数え終わった時、彼女は歩くのだろうか。
走るのだろうか。
もしソレーヌが全力で走ったら、私は追いつかれてしまうだろうか。
ソレーヌが殺したいのは、私だろうか。それとも、オリヴァー……?
「……っ」
嗚咽混じりの涙が込み上げる。
でも泣いている場合じゃない。
馬を盗んで逃げるつもりで厩舎に忍び込んだ私は、奥に突き進みながら盛大に躓いた。
「きゃあっ!」
「!」
叫んだのは、私ではない。
オリヴァーをお腹側に括りつけていた私は本能的に転倒を避け、女性の悲鳴が上がった足元を凝視する。
「……」
「いったぁ……踏んだわね、何よ」
声は、ロージーに違いなかった。
「ごめん」
一言詫びて、特に深刻な怪我もさせていないようだったので馬の方へ向かう。
「ちょっと。何?どうしたの?」
「……」
「ねえ、待ってよ。ヴェロニカ!」
理由はわからないにしろ、真夜中の厩舎で転がっていたロージーは私に追いついて勢いよく肩を掴んだ。私は構わず柵を開けた。
「ヴェロニカ」
悪いけど、邪魔しないでほしい。
ソレーヌが数え終えるまで、もう一分もない。
一刻も早くここから立ち去らなくてはいけない。
「奥様が何かした?出て行くの?」
ロージーの声が気づかわしげなものになる。
私がガイウスと一夜を共にして、部屋を移ってから、ほとんど会話らしい会話もなくなったロージーだったけれど、産後に少しずつ打ち解けてきてはいた。
私はふと気づいた。
一人くらい、ガイウスに真実を伝えられる人間がいた方がいい。
オリヴァーの父親なのだから。
「奥様、妊娠したの」
「ええっ!?」
驚きの叫びをあげた直後、ロージーは自分で自分の口を塞いだ。遅いけど。
「急に目が覚めて、そうしたらベッドに剣を持った奥様が座ってた。それで言ったの。妊娠したって」
「嘘……なんで……!?」
「嘘でも妄想でも、そう断言して剣を持っていたの。消えろって意味でしょ」
馬がそわそわし始めると、オリヴァーも少しぐずり始めた。
「でも、いくら旦那様でも許さないでしょう」
「ガイウスが言い聞かせる前に殺されたら元も子もない」
「……そりゃそうだわ」
ロージーが胸元のボダンを閉めて呟いた。
そういえば、少し肌寒い夜にしては薄着で、随分とはだけている。
「デート?」
横目で尋ねるとロージーは素直に頷いた。
「邪魔してごめんね」
「ねえ、ヴェロニカ。赤ん坊抱いて一人で馬を走らせるなんて危ないよ。お金はどうするの?」
「どうにでもする。ソレーヌが三百数え終わるまでに消えないといけないの。悪いけど構わないで」
「ザック!」
ロージーがデートの相手を大声で呼んだ。
ザックと呼ばれた青年はすぐに現れた。私は見たことがない顔だった。でも、厩舎で衣服を乱してかくれんぼするくらいだから馬の世話をしているのだろう。
「奥様が来たら、みんな病気で走れないって言って」
「そんなこと言ったら殺されちまうだろ」
「種付け中って言ったら?」
協力してくれる雰囲気を察し、私は恋人たちの会話に口を挟んだ。
二人して納得したように頷く。
ザックが迅速に、仕事の備えなのか手押し車から麻袋一つを掴むと私に渡した。
「金と酒とビスケットとジャーキーが入ってる」
ロージーが一番小さな馬車を手際よく整えた。
やはり、恋人だから相手の仕事にも精通しているのだろうか。彼女はミルクメイドだから、もしかすると動物のいる環境で育ったのかもしれない。
「乗って!」
ロージーはもう手綱を握っている。
時間はない。
ロージーを説得する時間もない。
それに、自ら協力を申し出てくれるだけの行動力があれば、万が一のことがあってもソレーヌから逃げてくれるだろう。今はそう信じるしかない。
私は彼女の隣に座りオリヴァーを抱きしめた。
馬車は走り出した。
馬はとにかく駆けてくれたし、ロージーの手捌きはかなり慣れたものだった。
そしてソレーヌが追ってくる気配もない。
オリヴァーも、激しい揺れが逆に心地よいのか、すやすやと眠っている。
「……」
美しい月夜だった。
私は、正しい選択をしたのだろうか。
そんな迷いが生じた時だった。ロージーが手綱を緩め、前方を見据えたまま、やや声を張る。
「ごめんね」
「?」
謝るなら私の方なのに。
まだ、お礼も言っていない……。
「これで罪滅ぼしさせて」
「なんの話?」
どうもロージーの話の真意がわからず、此方のお礼も謝罪もすっ飛ばして私は尋ねた。
ロージーは気まずそうな表情のまま、思い切った様子で言った。
「あんたに冷たくしようって言ったの、私なの」
ああ、なるほど。
ソレーヌに命を狙われた身となっては、ロージーにされたことなど、正直どうでもいい。
「あの時から、気づいてた。奥様ちょっと頭おかしいって」
「……?」
メイドのくせに当主の子どもを身籠って特別待遇を受けた私に対する、使用人たちの冷遇の謝罪にしては、話題の矛先が腑に落ちない。
私は口を噤んだ。ロージーの話は、まだ続きそうだから。
ロージーは後悔と、ある種の決意のような強さを含んで私に告白する。
「あんたが旦那様の子どもを身籠ったかもしれないってことで部屋を移った時、私たち喜んだんだ」
「え?」
「だって、あんな恐い奥様より、あんたの方がいいもん」
「……」
「これで離婚ってことになって、旦那様があんたと結婚したらいいのにって、みんな言ってた。でもさ」
そうか。
みんなソレーヌが私に跡継ぎを産むよう望んだ事実は知らないのだから、ガイウスの心変わりに見えてもおかしくはない。
「あの辺から、奥様、急に酒に狂ったのよ」
「……」
知らなかった。
「常に酩酊していたよ。暴れはしないんだけど、歌ったり笑ったり所かまわず踊ったり……あぁーついに狂っちゃったかぁーって。だから、変にあんたを持ち上げると、その、やっちゃうかなって」
不妊に思い悩んで私に跡継ぎを産んでほしいと固執し、ついにそれが叶った時のソレーヌの心情。
複雑で、深刻で、とても軽々しく想像することさえできない。
ソレーヌが私の妊娠をきっかけに精神的に不安定になって酒に溺れてしまったのだとしたら、それは、ガイウスも気を遣っただろう。細心の注意を払う必要があったはずだ。
私の安全について言っていたのは、こういう事情があったのか。
「だからとにかく奥様を刺激しないように、あんたの世話は粛々とやろうってことにしたの」
「そうだったの」
思いがけない理由で気遣われていたのだと知ると、仲間たちに苦労をかけたのが申し訳なくなってしまった。でも先に謝ったのはロージーだった。
「辛かったでしょ。ごめん」
「ううん。そうでもなかった。いい部屋で優雅に暮らしたわ」
私が笑顔を向けると、ロージーもこちらを一瞥し唇に笑みを刻んだ。
「ありがとう」
私はやっとお礼を伝えた。
今夜だけではなく、あの頃から黙って私を守ろうとしてくれていたなんて。
ロージーは苦々しく表情を歪めて首を振った。
「なんだかんだうまくいくのかと思ったよ。あんた、好かれてるように見えたし。でもさ……奥様が妊娠したんじゃ、もうね」
「よかったのよ。彼女、苦しんでいたもの」
私は本心を言ったのだけれど、ロージーは信じられないという顔で私を見た。
「あんたが納得するから、旦那様が図に乗るんでしょ」
「……」
耳が痛い。
「ああ、もう、本当に信じられない!」
ロージーが怒りを爆発させる。
それでも馬は穏やかに走り続けた。
「ヴェロニカに手を付けて跡継ぎ産ませて、それで奥様ともよろしくやって、今は呑気に寝てるんでしょう!?優しいのは結構だけど、どれだけ自分に甘いの!?」
「……」
ガイウスの性格については、私も、異論はなかった。
正直、ここまでの事態になってしまった後では、ガイウスに今のソレーヌを制御できるかどうかは本気で疑わしい。
だから、過度な期待はしていない。
もう、平穏にオリヴァーを育てていけたら、それ以外は何もいらない。
「奥様が産んだ子が跡継ぎになるのは当然のことよ」
「わかってる。でもさ、奥様が狂ったから旦那様は無責任にあんたを見棄てるってわけ?死ねばいいのに」
私は微笑ましい気持ちを抑えきれずにロージーを見つめてしまった。
勿論、彼女は私の為に親身になって怒っているというわけではないのだと思う。まず大前提として、ガイウスという一人の男性の態度に対して、女性として怒り狂っているのだ。
でも、これだけ口汚く罵れるのは、ガイウスが優しい当主で使用人たちにいい意味で軽く見られているからだろう。親しみやすく信頼できる当主でなければ、陰口でもこうは言えない。
少し扱いに困る伯爵夫人という問題を抱えてはいるものの、本来のフェラレーゼ伯爵家はあたたかく風通しのいい環境なのだ。
私はロージーに伝えようとした。
ソレーヌの懐妊を祝福し身を引いただけ。
いつまでも家族で幸せに。
オリヴァーはきちんと育てます。
そうガイウスに伝えて欲しいと。
しかし私はロージーの横顔の遥か向こうから此方に向かって疾走する一頭の馬を見た。
「……」
視線に気づき、ロージーが見遣る。
「くそっ」
ロージーが悪態をつき手綱を振るった。
馬がこれ以上ないほど疾走し、私は振り落とされないよう片手でしっかりとオリヴァーを抱き、もう片方の手で必死に囲いにしがみ付いた。
明るい月夜。
見通しのいい草原。
追跡の馬は恐ろしいほど確実に距離を縮めてくる。
ロージーがどうにもならない状況に罵詈雑言を吐きながら手綱を振るい続ける。馬が走り続ける。
「……っ」
捕まる。
殺される。
逃がすだけ逃がして、追い詰めて、そしてこの世から葬り去るつもりだったのか。
私は絶望に支配され、気づくと泣き叫んでいた。
私だけならいい。
でも、オリヴァーを傷つけられるのは耐えられない。
それにロージーは……親切なロージーはどうされてしまうだろう。
私のせいだ。
「……いや……っ、神様……!」
助けて。
そう、心から叫んだ瞬間。
「ヴェロニカ!ヴェロニカはいるのか!?」
低い男性の声が微かに届いた。
それはガイウスの声ではなかった。聞いた事がない声だった。
そして、随分と必死な、悲愴に満ちた声だった。
「報せを受け帰って来たんだ!エイダ……!エイダ!」
「……」
私は、その名前で全てを理解した。
ロージーの手を掴んだ。
「止めて」
声が震えた。
だから、ロージーの耳には入らなかったかもしれない。
でも、続く叫びは届いたはずだ。
その男性は涙声で叫んだ。
お前の父だ、と。
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