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11(ガイウス)

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ヴェロニカの部屋の扉を開けてからノックをしなかったと気づいた。
お陰で、確実に扉を閉めるだけの理性は取り戻したのは幸いだった。

此方に背を向けて荷造りをしていたヴェロニカは、一度だけ驚いたように肩越しに振り向いたが、そのまま黙々と荷造りを続けた。

「ヴェロニカ、待ってくれ」
「御暇いたします」

静かな声が既に決意していることを私に告げる。

「ヴェロニカ」
「私がいることで奥様の心が乱れてしまうなら、私がいなくなればいいだけです」

冷静だった。
私よりずっと、ヴェロニカは冷静だった。

小さな背中が私の存在そのものを拒むように冷たい。
その細い首筋が、項が、初めて見る女性のように私を酷く拒絶している。

「黙っていなくなるつもりだったのか?夜に紛れて」

ヴェロニカが再び肩越しに振り向き、硬い表情で机を指差す。
見るとそこには一通の手紙が残されている。私は荒ぶる気持ちを抑えられないまま封を切り短い手紙に目を走らせた。

感謝と謝罪と惜別だけが綴られた、簡素な、極めて形式的な手紙だった。
挨拶はしますよと、ヴェロニカは伝えたのだ。

「ヴェロニカ」

三度、私はヴェロニカを呼んだ。
それでも彼女は荷造りする手を止めなかった。

手紙を机の上に元通り置いたかはわからない。
叩きつけはしなかったと思う。そうであってほしい。

傍へ駆け寄ると、私はいつもよりかなり乱暴にヴェロニカの肩に手をかけ自分の方へと向かせていた。

初めて、ヴェロニカが怒りを顕わにする。
丸く大きな瞳は怒りに燃え、私を貫いた。

「すまなかった」

私は素直に謝罪を述べたが、それでヴェロニカの怒りが収まると考えるほど烏滸がましくはなかった。ただ謝罪からしか会話は始まらず、関係も修復できないと理解していた。

「ヴェロニカ。君が出ていく必要はない。妻を説得するから」
「あの方を?あなたにできますか?」

真理をついてくる。
私は一度口籠り、自らを鼓舞する。まずはヴェロニカを説得しなくてはならないのだ。

私が言葉を紡ぐより早くヴェロニカが首を振った。

「私たちにはできなかった。あの方の決意は固く、私たちには覆せなかった」
「ヴェロニカ」
「あの方は騎士です。一度心に決めたことは、命を懸けて立てた誓いなのです」
「ヴェロニカ、話し合おう」
「お二人の幸せを祈っています」
「ヴェロニカ」

私は跪いた。
それでも小柄なヴェロニカと視線は合わず、深く覗き込まなくてはならなかった。

ヴェロニカは小さい。
だが、子どもではない。

私よりずっと強い意志で此方を見つめ返すその眼差しは、聡明で芯の強い大人の女性の怒りを顕わにしている。

「あなたは、私の後、誰にも親しみを込め接してはいけません。あなたが信頼を示した女性が奥様の標的になります」
「そうはならないと約束するから」
「お酒を召されたのですね」
「酔ってない。私の意識はこれ以上ないほどはっきりしている」

それより。

「そんな他人行儀な口を利くな。ヴェロニカ。私だよ」
「はい、旦那様。重々承知しております」
「旦那様?ガイウスだ。君は私をガイウスと呼び、慕い、追いかけ回してくれたじゃないか」
「昔のことです」
「今は違うのか?」
「違います」
「どうして?」
「二人とも大人になったからです。そしてあなたには繊細な奥様がいる。ただ優しくするだけでは足りない人と結婚されたのです。あなたは、彼女に相応しい夫に変わるべきです」

御託を並べるヴェロニカに些細な怒りが芽生えたのは否めない。
だがヴェロニカを責めたくはなかった。彼女は何も悪くない。それに概ね私より正しいことを言っている。

そう。
此方が無理ばかり押し付けているのだ。

夫婦の問題。

夫婦間の悩み。

ヴェロニカに甘え過ぎた。それが答えだ。
だから私が心を入れ替え、行いを改めるならば、一方の問題は忽ち解決するはずなのだ。

「わかった。君が正しい。私が改める」
「……」
「だから出て行かないでくれ」

本心を伝えるとヴェロニカが目を眇めた。

「しっかりしてください」
「愛しているんだ」
「わかっています。ただ愛する気持ちと、相手の性格を尊重する行動は別物です。旦那様の気持ちと、気持ちの伝え方は切り離して考えるべきです」
「どうしてそんな」
「奥様にとって必要な手順だからです。愛する奥様にはそれが必要で、私のような者こそが不要なのです」
「君を失いたくない」
「大丈夫です。私がいなくても、旦那様は奥様を──」

その時、不思議なことが起きた。

ソレーヌを愛する気持ちとヴェロニカに対する渇望が一瞬で交じり合い、一つになった。
ヴェロニカがいない人生など考えられない。

欲しい。
離したくない。

私はヴェロニカにキスをしていた。

「──」

甘く激しい熱情が爆ぜる。
時を止めたヴェロニカを抱きしめ柔らかな唇を貪った。止まらない。甘い蜜が、瑞々しい果実が、私を捉えて離さない。

翻弄される。

「!」

ヴェロニカが身を捩り、右手を振り上げた。
私はその手を封じはしなかった。ヴェロニカに打たれるならかまわなかった。寧ろ、それさえ欲しかった。ヴェロニカから与えられる全てのものが欲しかった。

ヴェロニカが欲しい。
この女は私のものだ。誰にも渡さない。

離れるなど、許さない。

「ヴェロニカ、愛している」

激しいキスの熱に浮かされたまま告白する。
驚いて見開かれた目が私を凝視したまま揺れている。

しかし、あの振り上げられた右手は行き場を失い、力無く体の脇に下ろされている。

「ずっと君を愛していた。これは私の過ちだから」
「……」

考えているのか。
何が正しいのか。

私は無垢なヴェロニカの唇を貪り、舌を絡め吐息を奪った。
愛欲を教えて導けば余計なことは頭から吹き飛ぶはずだ。そんな邪悪な考えが私を突き動かしていた。だがそれだけでもなかった。

ヴェロニカに溺れていく。

私は、自分を戒める術もなく、止められない。

どうか男を知らないでほしい。
私だけを知り、私以外を知らずに一生を終えて欲しい。

己の奥底に眠っていた身勝手な願望は、その姿を現した瞬間から私の身も心も支配して、これこそが決して抗うことのできない運命なのだと叫ぶ。

叫んでいる。
喉が破れ血が噴き出るほど激しく。

ヴェロニカの名を。

愛が欲しい、と。

「ヴェロニカ、行くな」

甘い肌が、唇が、しっとりと私に吸い付き呼応している。

「私の傍を離れないで」

懇願し、キスをする。

「愛してる」

罪であることも忘れ、私はヴェロニカの中へ溶けていく。
溺れていく。

「私を見て。私を呼んで。ヴェロニカ」

悲鳴ではない吐息が私の肌を撫でている。
憎しみも恐れもない涙が美しい瞳に揺れている。

「ガイウス……っ」

諦め、ヴェロニカが私に身を委ねた。
喜びは雷の如く私を貫き、全てを忘れさせる。

今この瞬間そこ、楽園。

ヴェロニカの腕が私の体を抱き返し、しがみつく。
細い指が背中をまさぐり、髪を掻き毟るようにしてから、そっと、確かめるように頬に触れる。

「……ガイウス。愛していたの。ごめんなさい」

二人の罪なら、それでいい。
二人で地獄に落ち、焼かれるまま業火の中で交わればいい。

だがそうはさせない。

これは私の罪。
ヴェロニカを痛みや恐怖のために泣かせはしない。

私はヴェロニカの口をキスで塞ぎ、愛欲に溺れた。優しく、激しく。ヴェロニカが疲れ果てて眠るまで。

私はヴェロニカを抱き、ソレーヌの望みを叶えた。
只一つ、ソレーヌの望みを踏みにじった。愛しあう間、一瞬たりとも妻を思い出しはしなかった。

私はヴェロニカに狂った。
ヴェロニカは私のものだ。私がヴェロニカのものであるように。

幸せだった。
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