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「長官。ビズマーク長官、起きてください」
「ぇ……?あ、はい」

鈍い覚醒を押し切って体を起こすと、ベッドの端に大きな肩が見えた。
ザシャだった。

使節団を率いて冒険する特使となった元探検家の伯爵は、見慣れた格好より幾分畏まった装いで肩越しに私を見て笑っている。

「あぁ……おはよう、ケスティング伯爵」

新たな肩書で呼び合うのが彼なりのエスプリなのだから、私も気楽に呼んだ。父以外の成人男性が起き抜けのベッドにいようと最早驚かないが、それでも気になることもある。

「ジェーンは……?」
「張り切って出かけましたよ」
「そう」

ジェーンがいたら私を起こしたのは彼女だったはずだ。

「レオンは?」
「親父さんと出ました」
「そうよね」

胸の奥に痛みと温もりを同時に感じ、目が覚める。

「ヨハンは?」
「ああ。あれはクローゼル侯爵が勘当した娘を探しに行きました」
「……」

ザシャが軽い世間話かのように返したその言葉に少なからず驚いて考え込んでしまう。

クローゼル侯爵はヘレネを勘当した。
私が父に聞いた時はまだ予定だったはずだが、自身がレオンを探す名目で保護していたレオンの父親と、レオンと王女とヘレネの関係性を知ったクローゼル侯爵は驚くほど迅速に娘を切り捨てたのだ。

「見つけて、どうするの?」
「さあ。宮廷で裁くんでしょう」
「あなたには都合が悪いのでは……」
「どうして?」

問われて言葉に詰まる。
ザシャは私より遥かに大人であり、ヘレネを愛したわけでもなければ、酷く憎んでいたわけでもないようだった。ザシャにヘレネの勘当について同情しろというのは筋違いだと私もわかっている。

「俺は平気です。それより着替えてください、長官」
「はい」

王家はメラー親子との対面を遅らせサッロ伯爵の別邸に留めていた。

薄曇りの秋の空は陰鬱で物悲しく、間近に冬を感じさせる寒さが更に感傷的にさせる。
今日、檻の馬車でソフィア王女は追放される。王国の外の何もない荒野で一人取り残され、二度と帰ることは許されない。

飢えや渇きに加え、これから寒い冬がくる。

息絶えるか、或いは飢えた獣の糧となるか。
どこかで生き延びたとしても、望むままに生きてはいけないだろう。

「王妃様は五人の画家を立ち会わせ追放の瞬間を描かせるそうですよ」
「そう」
「《ソフィア王女の追放》とでも名がついて語り継がれるんでしょう」
「そうかもしれないわね」
「神を騙る狂った王女なんか何処も助けはしない。徹底した生き地獄を与える気だとしても不思議じゃあないですね」

扉越しにザシャと話しながら身支度を済ませた私は、軽い朝食を共にとりサッロ伯爵の別邸を後にした。

「俺たちのことは公にはなりません。王女は神を名乗り王太子と王妃の暗殺を企てた罪で追放、取り巻き連中も共謀罪で一生監獄です」

ザシャの護衛を受けながら私は群衆に紛れそれを見届ける。

「もしかすると何人かは処刑されるかもしれませんが、獄死扱いになるでしょうね」
「……」
「クレーフェにも悪人はいるでしょう。極悪人もあなたが存命中に現れるかもしれない」
「わかっています」
「じゃあ、しっかり見てください」
「ええ」

私たちの辿り着いた結末を目に焼き付ける為、私は今日、此処に居る。

神は愛し、導き、裁くのだ。

「……」

重く垂れこめる曇り空の下で群衆は檻の馬車を見送っている。
檻の中で、王家から廃されたソフィアは泣いて許しを乞うているように見えた。だが次第にそうではないとわかり始める。

涙しているようだった。
併し、通り過ぎる際に石を投げられても、罵倒されても、唾や汚物を噴き掛けられても、憤りもしなければ叫びもしない。

「あなたは婚約者を奪われる過程で巻き込まれ顕現した新たな神の娘。ただそれだけです」
「ザシャ。あれは誰なの……?」

姿形は同じであろうと私の知る忌まわしいソフィアではなかった。
隣に立つザシャは私と同じように檻の馬車の中のソフィアを眺めながら淡々と低く語る。

「神を騙る王女は王家を呪いながら民の非礼を許す慈悲深さを見せているんです」
「……」

真心を込め慈悲を現しその実、狂信的に罪を重ねている。
併しそれは公にした罪を貫く態度であり、私の知るソフィアではあり得ない礼儀正しさを備えている。もっと叫び、罵り、呪い、暴れてもいいはずだった。

「元から人気のない王女だったんで、丁度いい理由で勝手に追放されて民も内心喜んでいるでしょう」
「……あの方……」
「王妃様も民も嫌いな王女を見送って、あなたを迎えた。皆幸せだ」
「あの方、どこかで引き返すのよね?」

歴史の為の王女追放に関わる外見の酷似した女性について私はそれだけが気掛りだった。

私が袖を掴むとザシャは目だけで私を見下ろし、微かに容赦のない残忍性を垣間見せた。私に向けられた憎悪でないことは理解している。恐れはしないが、名も知らない名女優が安全にその役目を終えられるという保証が欲しい。

「私には秘密ということ?どうして?」
「汚いものを見ないことで育つ義心ってものがあるんですよ。あなたにはそうで在って欲しいんでしょう」
「神は私の目を曇らせはしない」
「……」

ザシャは逡巡する間その碧い瞳を濁らせていたが、ふと気を抜いたように微笑を浮かべた。つかず離れず私を庇護してくれたあのザシャの顔だった。

「この日の為に王妃様が仕込んだ令嬢らしいですよ」

私は安堵すると同時に固唾を呑んだ。
失脚を画策され忌まわしい汚名まで被せられようとしていた王妃だとしても、実態を把握したのは極最近のはずだ。王家の中で確執があるのは明らかだったが用意周到すぎる。

「そっくりですね」

ザシャの声は地を舐めるように低くざらついている。

「他人の空似でしょう」
「……どうなるか聞いて私が恐れると思ってらっしゃるの?伯爵」

私にはザシャを恐れる理由も、真実を恐れる理由もない。
神の名のもとに裁きを下したのは私だ。見届ける覚悟がなければ私が裁かれるべきである。

ザシャは私を覗き込むようにして保護者然とした表情を浮かべると優しい声音で真実を語った。

「もっと特別な檻で歴史に残せない罰を与えていますよ」

私はザシャを見上げたまま、それがどのような罰であるか考えてみる。私の予想が正しいか、間違いかは重要ではない。

「納得しましたか?長官」

私たちはもう以前の私たちではない。
それでも私たちは信頼と友情で結びついた。

「神は決して過ちを犯されることはありません」

私はそれだけ答えた。
充分だったはずだ。

ザシャは影で子どもの成長を喜ぶ親のような顔で笑い、私から目を逸らした。

「あの方は無事に帰るのね?」
「はい」
「そう聞いているの?」
「はい、そうですよ」
「わかったわ」

私もザシャから遠ざかる檻へと視線を移した。

レオンは父親と共に同じものを見送り、何を考えているだろうか。ジェーンは。追放に立ち会わないというヨハンは何を知っている?

「……」

神は過ちを犯されはしない。
私がその上に立たない道もザシャたちには用意されている。それだけだ。

私は私に与えられた道を歩む。
もう私の隣にレオンはいないけれど、私たちは神の御手によって確かに繋がれている。

「行きましょう、伯爵」

ザシャと歩む短い旅路の果てにあるものを、この時の私は知る由もない。
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