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初日の夕刻を待たずクローゼル侯爵家から迎えの使者が訪れ、ヘレネがサッロ伯爵の別邸を去った。
支配的な父親のもとへ連れ戻されるのを恐れたヘレネはザシャに助けを求めたが、ザシャはもう取り合わず素っ気なく別れを告げたらしい。

余りに迅速な迎えであったことから、傍聴席か宮廷裁判を窺える場所で待機していただろうと思われた。

私の証人の一人であってもヘレネはソフィア王女側に最も近く、ジェーンのように心の交流を持つのは難しかっただろう。
お互いの為にもこれでよかった。仮に咎められたとしても、クローゼル侯爵家から迎えが来たと事実を伝えるだけである。

秋の陽が沈むのは早かった。
私は中庭に足を運んだ。

夕暮れが赤く染め上げる前にほんの数分であろうと中庭の花壇を見てみたかった。
中庭には小さな噴水とそれを囲むように花壇が配置されており、壁際には絵葉書のような小さな庭園を鑑賞するのに丁度いいベンチが置かれている。

心を休める為の美しく静かな時間を求めていた。

色とりどりのダリアやマリーゴールドが愛らしく咲き誇る様は分厚い硝子戸からも伺える。

足を踏み入れて噴水まで俯いていた私は、水飛沫の向こうに先客がいたことに気づき呆然と佇んだ。私と同じように一人静かな時間の中で自身を癒そうとしていたのだろうと察し、邪魔をしてしまった後悔に苛まれる。

冷たい風が心地よく全身を撫でた。
レオンは背を向けたまま言った。

「驚いたでしょう。僕は本当に、汚れた人形だったんですよ」

聞き慣れた優しい声が酷く悲しい言葉を紡ぐ。

「それにわかったでしょう。僕はあなたを利用したんです。嫌になったでしょう。こんな男を傍に置いておくなんて、耐えられないでしょう」
「ごめんなさい」

私はレオンの悲しい背中を見つめながら、傷ついた心に届くよう祈る気持ちで思いを告げる。

「私、あなたが望む言葉を言ってあげられないの」
「いいんですよ」
「好きだから」
「……」

レオンは沈黙を返した。
私が予想とは違う言葉を口にしたからだろうか。

証言台に立つレオンを祈るように見つめるしかなかった私は、耐え難い痛みに涙を抑えられなくなった瞬間、自分の想いをはっきりと自覚した。
愛している。

「大切なあなたを突き放せない。それであなたが楽になるとわかっていても、嘘をつけないの。ごめんなさい」

レオンがふり向いた。
穏やかな秋の夕暮れはレオンに柔らかな印象を与え、彼の優しさを際立たせている。レオンは笑顔だった。

「優しいですね。だから利用されたんですよ」

突き放されたのは私の方だった。
けれど、さほど痛みは感じない。レオンの痛みとは比べ物にならない。こんなものは痛くない。

「いいのよ。本当にそうしたいなら、私の立場をもっと利用したらいいわ。あなたのお父様を探しましょう」
「駄目ですよ。あなたにはあなたの使命があるでしょう。救護院を建てるんでしょう?僕の役目は終わりました。悪い魔女をやっつけて、あなたはもう安全です。神の娘は、ちゃんと世間が守ってくれる」
「レオン」
「僕はあなたに相応しくないでしょう」

翳りを帯びているわけでもないレオンの笑顔を見る限り、どうやら本気でそう思い込んでいるらしかった。
私は数歩奥へ進み、レオンの前に立つと同時に噴水の水を手で弾いた。水飛沫が跳ね、レオンは目を瞑った。

「私のレオン。寝てるの?目を覚まして」
「……っ」

レオンは苦しそうに息を詰まらせ右手で顔を覆う。涙を見せまいとしているようにも、私を目に映すまいとしているようにも受け取れるその仕草に胸が軋んだ。

「傍に居るわ」

レオンが大きく後ずさり、逃げるように再び背を向ける。

「困ったな。あなたをそんな気にさせるつもりはなかったのに……これだから男娼なんて生き物は駄目なんだ。汚れていて、あなたに滲みをつけて……」
「そういうものでしょう。心に誰か住み着けば、人は多少変わるものよ」
「わかっていないんだ!あなたは……僕に関われば、この先、あなたも同じように汚れていると思われてしまう……!」
「人の心は操れない。誰に何を思われようと私の心も変わらない。レオン。こちらを向いて」

心の整理をしている最中に割り込んでしまったのだと理解していた。それでも私から遠ざかろうとするレオンを引き留めずにはいられなかった。
今離したら、消えてしまいそうで……恐かった。

レオンは諦めたように向き直ると力なく悲しい表情で私を見下ろした。

「愛してるわ、レオン。私が触れると、あなたは……痛いの?」
「……」

レオンは頷かなかった。無言のまま目を閉じた。痛みを堪えているように見えた。
私の胸も激しく痛み悲鳴を上げた。

「だったら触らない。あなたを想い、祈り続ける。でも忘れないで。あなたは汚れていない。人形じゃない。私ではあなたの支えになれなかったとしても、あなたは、誰にでも、愛されるべき人なのよ」
「……本当に何もわかっていないんだ、あなたは」

震える声でそう呟くと、レオンは唐突に崩れ落ちた。項垂れたというわけではなくただ迅速に跪いたのだ。レオンは私を見上げ、私は彼を見下ろした。そうして見つめあった。

レオンはいつものように優しい微笑みを浮かべて言った。

「あなたは伯爵家の御令嬢で、神の娘です。僕は自分の身一つ守れなかった犬以下の男なんですよ。あなたに祈ってもらえるような価値のある男じゃないんです。ねえ、ヒルデガルド様。あなたを引き摺り下ろしてまで触れてもらいたくないんです。こうして見上げていたいんです。わかってください。僕だって、あなたが愛しくて死にそうですよ」
「レオン……」
「痛いから触らせたくないなんて思わないでください。あなたが大切だから、僕は、あなたに触りたくないんです。あなたに触れたら、汚してしまうから」
「レオン、私……」
「忘れてしまったんですか?男娼のレオンは何人もあなた以外の女を抱いたんですよ」
「!」

私は初めてその事実を忘れていた自分に驚き、得体の知れない焦燥感に身を強張らせた。

「あなたはあなたよ」

咄嗟に言い返した言葉に嘘はなかった。それでもレオンは首を振って笑った。

「あなたは見たい僕しか見えていないんだ。駄目ですよ、ヒルデガルド様。僕がなれるのは犬までです。この忠犬は分を弁えているんです。だから心配しないで。僕はあなたのレオンのままです。不安にさせてごめんなさい」

幼子をあやすような優しい声で私を言い包めようとしているのだと思った。

単純にレオンの方が私より大人なのだ。
本当は守ってあげることも支えてあげることもできない。求められていない。レオンは自分の決断によって生き方を決める権利を持った大人の男性だった。

私の恋は幼く、我儘だ。

「ねえ、ヒルデガルド様」

ふいにそれまでと違う気配を纏いレオンが私の名を呼んだ。

「なに……?」

どこか恐ろしいような気がして、私は初めて怯えに似た感情をレオンに抱いた。
レオンは低く声を潜め囁いた。

「僕はあなたの犬ですから、ドレスの裾か靴だったらキスをしてもいいですよ」
「!」

夕暮れの闇が迫ろうとしていた。
その中で、レオンの瞳が妖しく濁る。

「たっぷり愛情を込めて舐めてあげます。どうやって舌を使えば喜ぶか、よく知っていますから」

男娼だ。
レオンは私が目を背けてきた男娼の姿に立ち返り、現実を突き付けている。

私は動揺した。
レオンが変貌したからというだけでなく、男女の肉体的接触を示唆する態度に対峙し気が動転していた。

狼狽えた私にレオンが追い打ちをかけた。
彼にとってこれは私に対する躾のようなものだと理性が叫ぶ。全身に得体の知れない熱が迸る。レオンが背を丸め私の足に顔を寄せていく。

「!」

私が後ずさる番だった。それどころか飛び退いた。よく転ばずに済んだものだと内心で一瞬自分を褒めさえした。

「また話し合いましょう。私たち、今どうかしてる」

そう言い残し、私は逃げ出した。
出会った日と違い彼の前には戻らなかった。自信がなかった。レオンに負け全てを失ってしまうような気がして恐かった。

過ごした時間、重ねた想い、何もかもを虚ろな幻にされてしまいそうで……。
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