上 下
49 / 79

49(レオン)

しおりを挟む
勘違いしてはいけない。
御令嬢は僕を好きだから仇を討とうとしているのではない。

その口で言ったじゃないか。
〝あなたは特別ではない〟と。

神が僕らを見下ろしているのなら、神がこの人をこういうふうに造ってしまったのだ。無謀な善人に。強く優しい人に。

悪の強さを知らない。
正しいから強いのではない、邪悪だからこその強烈な力をヒルデガルドは知らない。碌でもない元婚約者に打ちのめされてもそれがわからない。寧ろやる気を出してしまう。
放っておけない。

汚れた僕は彼女に触れる資格はない。
だが、僕の大切なヒルデガルドに牙を剥く狼たちに噛みつくことはできる。

「お嬢様。これは僕が始めることです。終わらせるのは僕です。男娼としてあなたと出会った。でも、今この瞬間から僕はあなたの忠犬です」
「……以前、ヨハンも似たようなことを」
「一緒にしないでください」

王女に目を付けられる前まで貞淑の見本のように生きて来たであろう御令嬢は、僕との物理的な近さにまごついているようだ。
他に恐がるべきことがあるのに、神は少し、手を抜いたらしい。

「僕を見て。余所見しないで」
「……」
「僕だけを見て」

ヒルデガルドが僕を見る。
美しいペリドットの瞳が戸惑いに揺れている。

「僕はいい仔ですよ」

自分が犬だと思えば彼女をまっすぐ見つめ、求められる。
もうこれからは汚れた男娼と貞淑な御令嬢じゃない。そう考えてみると解き放たれたように心が軽くなった。

僕はヒルデガルドの膝に横向きに頭を乗せた。悪魔たちの玩具に成り下がった男娼という一人の男としてではなく、彼女の忠犬なら、これくらいやっていいだろう。

「レオン……」

だが頭を撫でさせはしない。
触れていい時、触れていい場所、その方法は僕が決める。

僕は身を起こした。
気を付けないとこの人は僕に触るから。

「お嬢様」

僕が笑いかけるとヒルデガルドは少し緊張を解いた。
優しくされて懐いた犬の僕から見れば、彼女は高貴で高潔な神の娘というより汚れを知らない可愛い女の子だ。

「お腹は空いてませんか?怒るとお腹が空くのに、食べるのは忘れてしまうでしょう?」
「……そうかもね」
「今夜はお泊りですか?」
「あ……」

何かに気づいたようにヒルデガルドが表情を変えた。
少し待っても何も言い出さないので優しく励ますつもりで問いを重ねる。

「どうしたの?」

僕は犬なので。
少しくらい不作法でも、まあ、構わない。それより親しみ易さと信頼が大切だ。

ヒルデガルドが困ったように眉を顰める。

「今日は、着替えもないわ」
「衣装室はそのままですし、新品の夜着だって何着もあります」

二度と戻ってこないはずだった人のドレスは結果的に僕が買い取っている。二度と会わないはずだったから、静かに思い出に浸る目的で衣装室は丁寧に管理してきた。
ヒルデガルドが大切だからこそ二度と歓迎したくはなかったが、来てしまったし、此方も寛がせる用意に不足はない。

「レオン……そうしたら」
「はい」
「ジェーンも、今夜は此処に泊まるのかしら」

は?

「その、あなたたちの客ではなく、単なる宿泊者として」
「……どっちでもいいですけど」
「聞いてきてもらえる?」
「……いいですけど」
「その、着替えを手伝ってほしくて」

僕は一先ず首を傾げた。
滞在中、僕は不足なく務めたはずだ。ウィリスとかいう元婚約者の悲惨な姿を見て、同じ仕打ちを受けたであろう僕には同情の余り世話をさせられないということだろうか。冗談ではない。見縊ってもらっては困る。

沈黙を終わらせる為に口を開いたのはヒルデガルドの方だった。
理由を聞いて、僕は憤慨した。

もし僕が相応しい身分だったなら、一度だけでいいからそっと抱きしめこの手で労わりたい。だがそれはできない。叶わない。
僕は憤りを堪えとりあえず玄関広間に向かった。

ザシャとヨハンが壁際の書架のテーブルでジェーンの話相手をしていた。

「男爵令嬢」

僕はジェーンを呼んだ。
三人が同時に僕を見る。併し動こうとしない。

「男爵令嬢」

再度呼ぶとジェーンは困惑も顕わに腰を上げる。

「怒ってるみたいだけど……」
「卵投げたんだから仕方ないだろ。行けよ」

ザシャが促す。
そういえば王女の腰巾着でクローゼル侯爵家の令嬢でザシャの上客であるヘレネの姿はない。
下々の人間とは服を着て交わりたくないのか、単に引き籠っているのか。余計な動きさえしなければなんでもいいので僕はジェーンを顎で呼んだ。

「何よ」

不服そうであり、やや不安そうでもあり、ジェーンは僕を無遠慮に視線で舐め回している。立場が悪いわりに厚かましい。

「あなた泊まるんですか?」

僕の口調も刺々しくなるというものだ。

「え?やめてよ、そういうんじゃないわ」
「こっちだって廃業ですよ。そうじゃなくて、ヒルデガルド様の御世話をお願いしたいんです」
「は?私、もう貴族なんだけど」
「知らないんですか?伯爵家の御婦人には子爵家の御令嬢が侍女として仕えたり、宮殿では伯爵夫人や侯爵夫人が侍女として仕えたりしているんですよ?」
「知ってるわよ!何?どうしたの?」

階段を上がりながら僕は耐え難い事実を伝えた。

「元婚約者に杖で滅多打ちにされて、痛みで一人では着替えられないようです」
「はあッ!?あいつ……!」
「お風呂も入れてあげてもらえませんか?此処には、ヘレネ様とあなたしか女性がいないので」
「いいけど、腹が立つわ!あんたたちって本当にまともね!」

ジェーンは自分がしたことを棚に上げ、更には保身の為に来たことも恐らくは忘れてヒルデガルドに対する暴力に怒り狂っている。見直すとまではいかないが、悪くはない。

「シェロートの下衆野郎、あのまま死ねばよかったのに」
「同感です。でも、証言で役に立ちますよ。あなたみたいに」
「一緒にしないでよ!こっちには船あがるのよ!?」

とはいえあまり長く話したい相手でもない。

「僕、お風呂の準備しますので。くれぐれも失礼の無いようにお願いします」
「あんた何様?」
「ヒルデガルド様の犬です。次、何かしたら僕あなたのこと咬みますよ」
「前言撤回。変な奴ばっかり……」
「あ、ヨハンには気を付けてくださいね。あの人、変態なので。じゃあこちらです」

僕はジェーンにヒルデガルドの部屋を示し、そそくさと立ち去った。
着替えには立ち会わない。僕の汚れた目にヒルデガルドの無垢な肌は決して映してはならないのだ。
しおりを挟む
感想 36

あなたにおすすめの小説

うたた寝している間に運命が変わりました。

gacchi
恋愛
優柔不断な第三王子フレディ様の婚約者として、幼いころから色々と苦労してきたけど、最近はもう呆れてしまって放置気味。そんな中、お義姉様がフレディ様の子を身ごもった?私との婚約は解消?私は学園を卒業したら修道院へ入れられることに。…だったはずなのに、カフェテリアでうたた寝していたら、私の運命は変わってしまったようです。

公爵令嬢の辿る道

ヤマナ
恋愛
公爵令嬢エリーナ・ラナ・ユースクリフは、迎えた5度目の生に絶望した。 家族にも、付き合いのあるお友達にも、慕っていた使用人にも、思い人にも、誰からも愛されなかったエリーナは罪を犯して投獄されて凍死した。 それから生を繰り返して、その度に自業自得で凄惨な末路を迎え続けたエリーナは、やがて自分を取り巻いていたもの全てからの愛を諦めた。 これは、愛されず、しかし愛を求めて果てた少女の、その先の話。 ※暇な時にちょこちょこ書いている程度なので、内容はともかく出来についてはご了承ください。 追記  六十五話以降、タイトルの頭に『※』が付いているお話は、流血表現やグロ表現がございますので、閲覧の際はお気を付けください。

母と妹が出来て婚約者が義理の家族になった伯爵令嬢は・・

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
全てを失った伯爵令嬢の再生と逆転劇の物語 母を早くに亡くした19歳の美しく、心優しい伯爵令嬢スカーレットには2歳年上の婚約者がいた。2人は間もなく結婚するはずだったが、ある日突然単身赴任中だった父から再婚の知らせが届いた。やがて屋敷にやって来たのは義理の母と2歳年下の義理の妹。肝心の父は旅の途中で不慮の死を遂げていた。そして始まるスカーレットの受難の日々。持っているものを全て奪われ、ついには婚約者と屋敷まで奪われ、住む場所を失ったスカーレットの行く末は・・・? ※ カクヨム、小説家になろうにも投稿しています

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

【本編完結】婚約者を守ろうとしたら寧ろ盾にされました。腹が立ったので記憶を失ったふりをして婚約解消を目指します。

しろねこ。
恋愛
「君との婚約を解消したい」 その言葉を聞いてエカテリーナはニコリと微笑む。 「了承しました」 ようやくこの日が来たと内心で神に感謝をする。 (わたくしを盾にし、更に記憶喪失となったのに手助けもせず、他の女性に擦り寄った婚約者なんていらないもの) そんな者との婚約が破談となって本当に良かった。 (それに欲しいものは手に入れたわ) 壁際で沈痛な面持ちでこちらを見る人物を見て、頬が赤くなる。 (愛してくれない者よりも、自分を愛してくれる人の方がいいじゃない?) エカテリーナはあっさりと自分を捨てた男に向けて頭を下げる。 「今までありがとうございました。殿下もお幸せに」 類まれなる美貌と十分な地位、そして魔法の珍しいこの世界で魔法を使えるエカテリーナ。 だからこそ、ここバークレイ国で第二王子の婚約者に選ばれたのだが……それも今日で終わりだ。 今後は自分の力で頑張ってもらおう。 ハピエン、自己満足、ご都合主義なお話です。 ちゃっかりとシリーズ化というか、他作品と繋がっています。 カクヨムさん、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさんでも連載中(*´ω`*)

記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした 

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

悪役令嬢は推し活中〜殿下。貴方には興味がございませんのでご自由に〜

みおな
恋愛
 公爵家令嬢のルーナ・フィオレンサは、輝く銀色の髪に、夜空に浮かぶ月のような金色を帯びた銀の瞳をした美しい少女だ。  当然のことながら王族との婚約が打診されるが、ルーナは首を縦に振らない。  どうやら彼女には、別に想い人がいるようで・・・

【完結】私を捨てて駆け落ちしたあなたには、こちらからさようならを言いましょう。

やまぐちこはる
恋愛
パルティア・エンダライン侯爵令嬢はある日珍しく婿入り予定の婚約者から届いた手紙を読んで、彼が駆け落ちしたことを知った。相手は同じく侯爵令嬢で、そちらにも王家の血筋の婿入りする婚約者がいたが、貴族派閥を保つ政略結婚だったためにどうやっても婚約を解消できず、愛の逃避行と洒落こんだらしい。 落ち込むパルティアは、しばらく社交から離れたい療養地としても有名な別荘地へ避暑に向かう。静かな湖畔で傷を癒やしたいと、高級ホテルでひっそり寛いでいると同じ頃から同じように、人目を避けてぼんやり湖を眺める美しい青年に気がついた。 毎日涼しい湖畔で本を読みながら、チラリチラリと彼を盗み見ることが日課となったパルティアだが。 様子がおかしい青年に気づく。 ふらりと湖に近づくと、ポチャっと小さな水音を立てて入水し始めたのだ。 ドレスの裾をたくしあげ、パルティアも湖に駆け込んで彼を引き留めた。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 最終話まで予約投稿済です。 次はどんな話を書こうかなと思ったとき、駆け落ちした知人を思い出し、そんな話を書くことに致しました。 ある日突然、紙1枚で消えるのは本当にびっくりするのでやめてくださいという思いを込めて。 楽しんで頂けましたら、きっと彼らも喜ぶことと思います。

処理中です...