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45(ザシャ)

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可哀想な女だとは思う。
だが、どの身分に生まれついても男に支配され不幸になりそうな女だとも思う。
贅沢な暮らしができるだけ、いいじゃないかとも思う。

情がなくても美人というだけで抱けた。
残酷な仕打ちに対する報復のつもりでも、暇つぶしでも、依存的な侯爵令嬢は抱き甲斐があった。何年だ。もう、四年?

五年弱くらいか……

愛してはいない。
愛することはできない。

だが二度と顔を合わせなくなっても、どうしているだろうか、不幸でいるのだろうか、十中八九うじうじと泣いているだろうなと、折に触れて思い出すだろう。
心配や気掛りに近いが、要は長く関り過ぎて赤の他人ではなくなってしまったというだけだ。

クローゼル侯爵令嬢ヘレネは客であり、奴隷だった。
そして貴重な情報源でもあった。

面白いくらいにヨハンの計画通りで恐くて笑える。
何故もっと早くやらなかったかと問えば、必要なかったからだと答えるだろう。四人目の男にくっついていた女がヨハンを突き動かした。

これが運命だ。
ヒルデガルドは奇跡だった。

俺はいずれ一人で海に帰ればいい。
海辺の村か街でそれなりに楽しく生きていける。

だがレオンは違う。
行方不明の父親を取り戻さなければ、たとえ自由の身になろうとその後の人生は拷問され搾取された無残な敗北に他ならない。ヨハンはレオンの父親については捜索する素振りを見せなかった。王女が裁かれれば芋蔓式に所在が割れると考えているのだろう。

生きている内に王家の内輪揉めが見物できる人生は、そこそこ楽しい人生と言える。
心残りがあるにはあるが、絶望的に不幸とは感じられない。
それが俺の本音だった。

その上で奇跡の丸顔令嬢ヒルデガルドが面白い形で俺たちの不運を引っ掻き回している。

さあ、ここからどうなる?

ヘレネを抱きながらそんなことばかり考えている。

「……」

あと喉が渇いた。
最近、嗜虐的な欲望を満たして上機嫌なヨハンは図に乗って口煩くなっている。それにいつまた純潔のヒルデガルドが舞い戻って来るかもわからない。そんなことがあるはずはないと思いながら期待してしまう俺がいる。
だから俺はガウン一枚という気分にはならず、わざわざ軽装に着替えたりする。

ヘレネが不安そうなのはいつものことだから気にしても意味がない。

俺は部屋を出て、階段を降りながら、玄関広間に思わぬ背中を見つけた。

「……」

残念ながらその人物はヒルデガルドではなかった。
女ではあったが、見知らぬ女だった。

紹介も無しにやってくる女が、また出現した。
帽子を被ったまま背中を丸め食い入るように地球儀を凝視している。

「お嬢様」

呼び掛けると、覗き込む姿勢のまま顔だけを此方に向けた。細身でどちらかと言えば長身の部類に入りそうな女は気の強さが見て取れる表情で眉を顰めている。

「旅行がお好きなんですか?」
「この島が上を向いているのは意味があるの?」

挨拶もなし。
貴族の女が俺たちを買いに来たならそれもありだが、俺が簡単に口を割るかどうかはまた別の問題だ。

「地政学に興味があるんですね」
「意味があるなら教えたいことがあるのだけど」

俺の中で一番の情報源は常にヘレネだった。
男娼を買いに来た貴族の女が大真面目に別のことを言い始めたら聞いてやった方が楽しいと最近知ったばかりだ。

「その島がどうかしましたか?」
「あなたでいいのかしら。三人の内の誰かは島絡みではないかと考えていたところなのだけど。あなた誰よ」
「……」

恐れ入った。
図々しい小娘だ。ヒルデガルドのような滲み出る可愛げは皆無。

だが俺には価値がある。

「ザシャ」
「ああ、あなたがヘレネ様の。なるほどね。島絡みで王女に弱味を握られているのは誰?」
「俺です。何かありました?」

足早に距離を詰めると新顔の貴族令嬢はすっと背筋を伸ばし帽子を取った。
背は思ったほど高くなく、強情そうな目付きで俺を見上げて早口で言う。

「ここの姫、少し前に結婚したわ」
「……」
「親族の隅々まで王位継承権がもらえる海の向こうの大国の八番目だか十三番目だかの王子に二年くらい求婚されて、去年の秋くらいに折れたのよ。海で死んだ恋人にずっと操を立てていたらしくて渋っていたのを口説き落とした愛の詩集三部作が出るという噂もある。絶対手に入れるつもり」

この話が事実だという保証はない。
だが事実だとしたら、海に浮かぶ小国は大国の同盟国になったということになる。
俺が服従しなければ襲撃すると脅した王女は今や宮殿で半幽閉、万が一ここから怒涛の逆恨みで復讐に燃えようと大国の同盟国には手が出せないはずだ。

俺は割り切ったつもりだった。
割り切れたと思っていた。

だが愛する女の無事を、絶対的な安全を、そして俺を偲ぶ思いを知り、幸福感に包まれた。更には激しい解放感が体中を駆け巡る。

結婚したのか。
幸せなんだな。

常夏の太陽にも負けない燦燦と輝く笑顔が瞼の裏に蘇る。

一人静かに噛み締めていると、沈黙で答えた俺に新顔の貴族令嬢はやや機嫌を損ねた。

「私はジェーン。男爵令嬢」
「ああ」

俺は合点がいって頷いた。
これが例のジェーンか。

「ライスト造船所の密造船で王子と王妃を拷問なんて、無理矢理だろうと関わっただけで首ちょんぱでしょ。こっちも命が懸かってるのに嘘言わないわよ」

俺が黙っているものだから、疑われたと早合点し憤慨したらしい。

「ようこそ、ジェーン」

握手を求め手を差し出すが、ジェーンは更に眉を顰める。

「私は、今は貴族なんだけど」
「これが俺流だ。お嬢様、あなたはただの女。そうだろ?満足させてや──」
「あんたじゃないわね。姫の件を伝えたいから取り次いでもらえる?」
「否、俺だ」
「そうなの?」
「婚約……というか、契りを結んでいた」
「あんたね」

ジェーンが俺の手を握った。
見かけ通りのがさつな握力に俺もなんとなく笑みが零れる。

「口調が庶民的だ」
「相手に合わせるのよ。あんた海の男でしょう。大砲をぶっ放す時が来たのよ、船長さん。仲間に入れて」
「何故《ユフシェリア》に?」
「王女は憎き宿敵でしょ?あと、ここにいる元貴族が裏で糸を引いているって教会周りから証言が取れたから」

ヒルデガルドといいジェーンといい、思い切りのいい女は可愛いものだ。
俺が近くの一人掛けソファーを勧めるとジェーンは素直に腰を下ろした。その間も俺から目を逸らさない。本気の程が窺え、つくづく気の強い女が好きだと思い知る。

ヘレネには俺みたいな男じゃなく、どっぷりと溺愛してくれるような若干病的な奴の方がお似合いだ。……ヨハンは、まあ、やめておいた方がいいと思うが。

「解き放たれたようにダーマ伯爵とイザベル、モリン伯爵家のアイリス、デシュラー伯爵の未亡人パメラを逮捕してるでしょう?シェロート伯爵家の坊ちゃんを救出したはず。私、誰よりも克明な証言ができるわ。その貴族に私を証人として推薦して。ね?姫の件を教えてあげたでしょう?お願い」

俺は快諾する気だった。
だが俺が頷く前に激しく扉が開かれてヒルデガルドが突入してきた。

嬉しい再会だが、意外すぎた。

「!?」

ジェーンが反射的に椅子の上で跳ねる。
ヒルデガルドはジェーンと俺を一瞥したが憤怒の表情で階段下まで一直線で歩いた。

「ヒルデガルド!?えっ、顔どうしたの!?」

驚愕に任せジェーンが不躾な問いを投げかける。
確かに俺たちの丸顔聖女ヒルデガルドは似合わない傷を負っていた。右の目の辺りが酷い。その怒りに任せてやってきたと言われても納得できる。

ヒルデガルドが改めてジェーンを睨んだ。
気の強い、いい表情だった。
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