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29(ヨハン)※

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ヒルデガルドとレオンを朝の散歩に送り出し、私は軽い入浴を済ませた。

今日はニコラス王太子との約束がある。
本格的な宮廷裁判に臨む前段階として、今回の参謀たる私と個人的意見を交換する場を設けたいそうだ。

王女に悟られないようお忍びで劇場傍の食堂で落ち合うことになっていた。

私はその二時間前にダーマ伯爵を呼び出していた。予想通りダーマ伯爵は私を一時間待たせた。

「ふん、変わらないな」
「見えないところは瘡蓋だらけですよ」

ダーマ伯爵と私は酒を飲み交わしつつ世間話のふりをする。そうして時間を微調整されているとは思いもよらないだろう。何しろ王女やその取り巻きたちにとって私は絶対服従の性奴隷なのだから。

「お前は何をしても喜ぶから楽しくない。まさか私に掻き毟れとでも言う気じゃないだろうな」
「いえいえ、ご安心ください」

無論、ダーマ伯爵のグラスには薬を盛ってある。

本人はいつも通り心地よく酔った気になるだろう。併しその目は血走り、苛立ち、抗いがたい衝動に屈するはずだ。この薬は神経に働きかけ狂暴化させる。
勝ち目のない戦場へ赴く兵士の士気を高める為の麻薬に手を加えたものだった。

元探検家のザシャは今でも様々な土地から持ち帰った種で特殊な薬草をひっそりと栽培しているが、こっそり拝借した。これこそ有効活用である。

「仰る通り、私では伯爵を楽しませることはできませんからね。どうもあなたとは相性が悪い」
「用件は何だ。暇なのか?」
「暇ではありますね。さすがに膿を掻き毟ることで快楽を得る変態マダムは私の知る限り誰もいませんでした。でも、猛烈な痒さは人を変えます」
「仲間に加わりたいのか?馬鹿な。お前は男娼に成り下がったマゾだろう」

私は勿体ぶって笑って見せ、小瓶を卓上に置く。
ダーマ伯爵のどろりと濁る卑しい双眸が小瓶に吸い寄せられるのを見て、私は内心、目的も忘れ高揚した。

「虫から抽出した液体を薬草と煎じて軟膏と媚薬を混ぜたものです」
「何を……気色悪い。お前、やはり正気じゃないな」
「あなたに教えて差し上げたくなったのですよ。いつも痛めつける側でしょう?される側の快楽を覚えていただくのにいきなり痛いのでは泣いてしまうかもしれないから、まずは痛痒いところから始めてみては如何かと思いまして」
「くだらん!」

ダーマ伯爵が乱暴にグラスを置いた。酒が零れ、注目を浴びる。

「そうとも限りませんよ。あなたもなかなか狂った人だから案外気に入るかもしれません。だってそうでしょう?あなたが私のような若く美しい男を拷問するのは、醜い自分をよくご存じで、本来こうありたいと願うもの全てを与えられた私のような男に嫉妬しているからです」
「貴様……!」
「おっと。私は誰のものですか?あの方の許可なく私に手を出すことは禁じられていますが、忘れてしまいましたか?呆けるには早すぎますよ。少し酒を減らした方が──」
「ふざけるな!」

酒で薬が回りまともな状況判断もできなくなったダーマ伯爵の手の甲に、私は素早く軟膏を塗りつけた。

「な……!」

無論、大嘘である。
只の唇用軟膏に過ぎない。

併し既にダーマ伯爵の精神は私が支配している。

「あ、あ……ぁ……っ」
「ほら、じきに効いてきますよ。痒くて誰かに血が出るまで掻き毟ってもらいたくてたまらなくなるはずです。あなたは私に懇願するんだ。私があなたにそうしたように。殴って。もっと。酷くして……そうして奇異な視線を浴びながら果てる。股を濡らすんです」
「くそっ、どうにかしろ!」
「いいえ。私はそんな無様なあなたを皆に交じって観察しますよ。そして気持ちよくなるまで恥ずかしいあなたを笑ってやります」
「殺してやる……!」
「およしなさい。私はあなたのものではない。ソフィア王女の人形です」

ダーマ伯爵は目を血走らせわなわなと震えている。

そこへ丁度良くニコラス王太子が現れた。
平民の若者に扮した王太子は私を見つけると連れがいる空気に意外そうな表情を見せはしたが、特に気にせず席の間を縫うように素早い身のこなしで近づいてくる。

「ほら、来ましたよ。あなた好みの若く美しい金髪碧眼の男です。今日はあなたが痛めつけられる番ですよ」
「ぐぉおおッ!」

見事に獣のような雄叫びを上げたかと思うと、ダーマ伯爵は席を立ちニコラス王太子へと突進し勢いよく殴りつけた。

「!」

一瞬の出来事でまさか自分が危害を加えられるとも思わない王太子は拳の直撃を受け横転し、暫し呆然とした後、口から一本の歯と唾液まじりの血を吐き出した。

「貴様!何様のつもりだ!この私が貴様などに屈してやるものか!薄汚い野良犬め!」
「……?」

敵の出現を悟った険しい表情で王太子はじっくり相手を見定めようと顔を上げたが、それが気に食わないらしいダーマ伯爵は次の一撃を加える。
相手が王太子とは知らず、今度は顎を蹴り上げたのだ。

見るからに貴族であるダーマ伯爵が平民風の男を暴行している為、止める者はなかった。お忍びで来ている王太子も騒ぎ立てはせず、次こそやり返そうという気概を見せ体勢を立て直している。

併し、狂暴化し自らがマゾヒズムに目覚めるかもしれないという恐怖に慄いているダーマ伯爵は、次なる攻撃は加えず、猛然と椅子やテーブルを蹴散らしながら退場した。

私はニコラス王太子に駆け寄り跪くと、その高貴でありながら猛々しい表情に見惚れつつ丁寧に抱き起こした。

「大丈夫ですか」
「ああ。あの男……見覚えがあるぞ」

王太子は静かに憤激している。
それから私の手を借り立ち上がると、優雅に口を拭き、先程までダーマ伯爵が座っていた席に腰を下ろした。

こうして挨拶もなく始まった王太子と私の協力関係は、王太子の歯という多大な犠牲を払い美しく完成した。

翌日、ダーマ伯爵は極秘に緊急逮捕され、監獄へと収監された。
これはほんの始まりに過ぎない。
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