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レオンが部屋に戻った。
先にヨハンが入って来てこの世の物とは思えない優美な微笑みを私に向ける。続いてやや難しい表情のレオンが入り素早く扉を閉めた。
二人と再び対峙し私は背筋を伸ばしたが、ベッドに座っていた為あまり意味を成さなかった。
「御気分は如何ですか?今、ケーキを焼いていますからね」
ヨハンが優しい一言と共に微笑みを深めながら一瞬で歩み寄り私の足元に跪く。あまり近くに来られると驚いてしまうが、今現在、ヨハンは男娼なのだから理屈は通っている。
レオンはヨハンを軽く睨んだが、意見はしなかった。
「あの」
私は口を開いた。
何よりもまず私にはしなければならないことがあったからだ。
「先程は失礼な態度を取ってごめんなさい」
ヨハンの微笑みを見下ろし、そして戸口に立つレオンの顔を見上げる。
「レオンに話を聞いてもらって冷静になれました。本当に身勝手な言動でした。どうか許してください」
「お嬢様。あなたは何も謝る必要なんてありません」
レオンの表情に私に向けた優しさが戻る。
それが男娼としての彼の務めでもあるはずだったが、私は気遣いを嬉しく思った。
真下ではヨハンが驚愕に目を見開き、やはり神話から出現した古の神を思わせる気迫を纏っている。申し訳ない気持ちを抱えたこんな時でさえ私の方でも驚愕してしまう美しさだった。
「何を仰いますか。レオンの言う通り、あなたは何も悪くありません」
ヨハンが現実味を欠いた美貌の男娼だとしても、私は理性を失いはしない。その根拠は私に触れないという彼らの契約が保証となっているからだが、油断していた私の手をヨハンは極自然に包み込んだ。
「あ」
レオンが低く声を洩らす。
私は大きくても長く細い指が印象的なヨハンの手を見下ろし、同じ人間の手であると実感を深めた。男娼であるからには数々の経験を積んでいるはずの手なのだが、温もりのあるすべらかな優しい手だ。
この館へ来てすぐ、レオンの手を払い除けてしまったことを私は後悔している。
事実あれは忌避したのだが、今の私は考えを改めていた。
肉体的な関係を持つことはあり得ないが、継続的な関係を持ち信頼を築いていくのであれば、握手など触れる機会はあるはずだ。
「……」
併し、ヨハンがなかなか手を離さないのは気になってきてしまう……
当然のように握り続けている。
「ヨハン」
「はい」
「私が買ったのはレオンだから」
男娼のヨハンに通じるよう敢えて言葉を選んだが、私の払う報酬は危険を冒すことに対してのもので密接な拘束を求めるものではない。
レオンは理解してくれている。ヨハンも協力してくれるということになれば、彼にも報酬を支払うのが筋だろう。
報酬を支払う場合、私はヨハンにここまでの関係は求めていない。
「失礼しました。いつでもお慰めしますから、いつどんな時であろうともお呼びください」
ヨハンが目を細めて微笑み、ゆっくりと私の手を離した。
「……ありがとう」
男娼としての礼儀を尽くしてくれているだけで困らせる意図はないはずなので、此方も微笑みを以て感謝を伝える。上手く笑えた自信はない。
「ヨハン。お困りだから不用意に触るな。頼むから」
レオンも数歩近寄ってヨハンを手で追い払う仕草で言った。
ヨハンは気を悪くするでもなく優雅に立ち上がると、穏やかでありながら光り輝く微笑みを私に注ぐ。
「お話は伺いました。このヨハンにお任せください、お嬢様」
「あ……」
本題に入る前にこの件も片付けなくてはいけないと気づく。
「ヨハン」
「はい」
「あなたは伯爵家の方なのだから、それを承知の上でそのように呼ばれるのは私も本望ではありません」
「いいえ、お嬢様。今の私はあなたの犬です」
「レオン」
私はレオンに助けを求めた。
レオンはヨハンの真横に立つと、ヨハンの腕を掴み体の向きを変えさせ、真正面から真剣な視線で訴えてくれる。暫く視線の応酬が続き、再び私にヨハンの微笑みが降り注いだ。
「そうですね。外を出歩く際にあなたが怪しまれるようではいけません。お任せください。かつての我が身を思い出し、あなたに相応しい友の役に徹します」
男娼として接するより伯爵令息として接する方が私には易しい。嬉しい申し出だった。
「ありがとう。名前で呼んで頂けると助かるわ」
ヨハンは微笑みで承諾した。
私はレオンにも視線を移す。
「あなたも」
「はい、ヒルデガルド様」
話がまとまったと判断し、私は二人に手振りを添えて伝える。
「お掛けになって」
すぐさま二人は私の足元に跪いた。
このように一つ一つ驚かされていくのだろうと納得し、私もその都度こちらの要望を伝えればいいのだと肝に銘じる。
「腰掛ける物に、どうぞ」
ヨハンは鏡台の椅子に、レオンは逡巡した後、渋々猫足の浴槽の縁に腰を掛けた。そもそもこの部屋は華美に整えられているというだけで小ぶりな寝室であるから仕方がないのだ。私も当然のようにベッドに座っている。
以前の私であれば考えられないような状況だが、これが今の私の現実だった。
「ヨハン。あなたが協力してくれるとのことで、とても心強いわ。私は世間知らずだから」
「あなたは神に愛された心清い人です。汚れ切った世間など知らなくていいのですよ」
「そうもいかないわ。私、今此処にいるもの」
男娼を侮蔑していると受け取られる物言いは避けようと心に決めていたが、男娼の館にいる事実までは無視しようとは思わない。私は私の現実に立ち向かわなくてはならないからだ。
「先程レオンに話したのだけれど、あれから私、考えを改めたの」
「え?」
レオンが反応した。
ヨハンは穏やかに頷きながら話の続きを促す。
「一人一人に復讐なんて、やはりよくないわ。そんな事の為にあなた方を利用するなんて、私どうかしていたの」
「いえいえ、復讐しましょう」
「え?な、なに?」
優雅ながらも畳みかける勢いのヨハンに私は一瞬、何が起きたのかわからず呆けてしまった。
その隙にヨハンはレオンに尋ねる。
「計画の詳細は?」
「僕たちがこの方を貶めた者全員をとことん誑かし堕落させて軽蔑させて破滅させる」
「なるほど。それはいけません。甘すぎる」
私の目の前で男娼二人が意見を交わしている。
確かに彼らを利用しようという気持ちで此処《ユフシェリア》に来た私だが、これほど積極的な協力は予想外だった。
「ですが、ヒルデガルド」
「あ、はい」
自然に呼び掛けられ、私も違和感なく応じてしまう。
ヨハンは貴族らしい高潔さと優雅さを身に纏いながらきっぱり次のように断言した。
「まずはあなたの潔白を証明することが先決です」
それは私が何より望んでいる結果だった。
一人一人に対しての憎しみがもう消えたとは言えないが、私自身の手で追い詰めるならまだしも、他者を、もっと正確に言えば他者の肉体を利用するというのはあまりに冒涜的だ。
私の潔白が証明されれば、クローゼル侯爵家の昼食会で率先して私を侮辱し罵倒した面々の非礼も明らかになる。そうなれば、どのような罰を下すか決めるのはもう私ではなくなる。
「ありがとう、ヨハン。よろしくお願いします」
「ええ。心変わりしたあなたが再び復讐を決意するようになるまでの間、この私が綿密な計画を練り必ずあなたの潔白を証明してみせます」
「……」
誤解が生じている。
或いは、意志の疎通が図り切れていない。
ヨハンは碧い瞳を美しく煌めかせ優雅に語る。
「心優しい清らかなあなただからこそ迷われているのです。私はそんなあなたの犬ですが、駄犬ではありません。主に害を及ぼす者どもの首を噛み千切るまで止まらない狂犬です……という友の役に徹します。そのような犬を巷では善い仔と褒めますね?そうでしょう?」
「……」
絶大な美貌の為か尊くありがたいことを言っているように目には映るが、たぶん、恐らく、ヨハンは少し変わり者なのだろう。
私はレオンに目で助けを求めた。
こればかりは仕方がないと言うように、レオンは神妙な面持ちで緩く首を振って応えた。
先にヨハンが入って来てこの世の物とは思えない優美な微笑みを私に向ける。続いてやや難しい表情のレオンが入り素早く扉を閉めた。
二人と再び対峙し私は背筋を伸ばしたが、ベッドに座っていた為あまり意味を成さなかった。
「御気分は如何ですか?今、ケーキを焼いていますからね」
ヨハンが優しい一言と共に微笑みを深めながら一瞬で歩み寄り私の足元に跪く。あまり近くに来られると驚いてしまうが、今現在、ヨハンは男娼なのだから理屈は通っている。
レオンはヨハンを軽く睨んだが、意見はしなかった。
「あの」
私は口を開いた。
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「お嬢様。あなたは何も謝る必要なんてありません」
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それが男娼としての彼の務めでもあるはずだったが、私は気遣いを嬉しく思った。
真下ではヨハンが驚愕に目を見開き、やはり神話から出現した古の神を思わせる気迫を纏っている。申し訳ない気持ちを抱えたこんな時でさえ私の方でも驚愕してしまう美しさだった。
「何を仰いますか。レオンの言う通り、あなたは何も悪くありません」
ヨハンが現実味を欠いた美貌の男娼だとしても、私は理性を失いはしない。その根拠は私に触れないという彼らの契約が保証となっているからだが、油断していた私の手をヨハンは極自然に包み込んだ。
「あ」
レオンが低く声を洩らす。
私は大きくても長く細い指が印象的なヨハンの手を見下ろし、同じ人間の手であると実感を深めた。男娼であるからには数々の経験を積んでいるはずの手なのだが、温もりのあるすべらかな優しい手だ。
この館へ来てすぐ、レオンの手を払い除けてしまったことを私は後悔している。
事実あれは忌避したのだが、今の私は考えを改めていた。
肉体的な関係を持つことはあり得ないが、継続的な関係を持ち信頼を築いていくのであれば、握手など触れる機会はあるはずだ。
「……」
併し、ヨハンがなかなか手を離さないのは気になってきてしまう……
当然のように握り続けている。
「ヨハン」
「はい」
「私が買ったのはレオンだから」
男娼のヨハンに通じるよう敢えて言葉を選んだが、私の払う報酬は危険を冒すことに対してのもので密接な拘束を求めるものではない。
レオンは理解してくれている。ヨハンも協力してくれるということになれば、彼にも報酬を支払うのが筋だろう。
報酬を支払う場合、私はヨハンにここまでの関係は求めていない。
「失礼しました。いつでもお慰めしますから、いつどんな時であろうともお呼びください」
ヨハンが目を細めて微笑み、ゆっくりと私の手を離した。
「……ありがとう」
男娼としての礼儀を尽くしてくれているだけで困らせる意図はないはずなので、此方も微笑みを以て感謝を伝える。上手く笑えた自信はない。
「ヨハン。お困りだから不用意に触るな。頼むから」
レオンも数歩近寄ってヨハンを手で追い払う仕草で言った。
ヨハンは気を悪くするでもなく優雅に立ち上がると、穏やかでありながら光り輝く微笑みを私に注ぐ。
「お話は伺いました。このヨハンにお任せください、お嬢様」
「あ……」
本題に入る前にこの件も片付けなくてはいけないと気づく。
「ヨハン」
「はい」
「あなたは伯爵家の方なのだから、それを承知の上でそのように呼ばれるのは私も本望ではありません」
「いいえ、お嬢様。今の私はあなたの犬です」
「レオン」
私はレオンに助けを求めた。
レオンはヨハンの真横に立つと、ヨハンの腕を掴み体の向きを変えさせ、真正面から真剣な視線で訴えてくれる。暫く視線の応酬が続き、再び私にヨハンの微笑みが降り注いだ。
「そうですね。外を出歩く際にあなたが怪しまれるようではいけません。お任せください。かつての我が身を思い出し、あなたに相応しい友の役に徹します」
男娼として接するより伯爵令息として接する方が私には易しい。嬉しい申し出だった。
「ありがとう。名前で呼んで頂けると助かるわ」
ヨハンは微笑みで承諾した。
私はレオンにも視線を移す。
「あなたも」
「はい、ヒルデガルド様」
話がまとまったと判断し、私は二人に手振りを添えて伝える。
「お掛けになって」
すぐさま二人は私の足元に跪いた。
このように一つ一つ驚かされていくのだろうと納得し、私もその都度こちらの要望を伝えればいいのだと肝に銘じる。
「腰掛ける物に、どうぞ」
ヨハンは鏡台の椅子に、レオンは逡巡した後、渋々猫足の浴槽の縁に腰を掛けた。そもそもこの部屋は華美に整えられているというだけで小ぶりな寝室であるから仕方がないのだ。私も当然のようにベッドに座っている。
以前の私であれば考えられないような状況だが、これが今の私の現実だった。
「ヨハン。あなたが協力してくれるとのことで、とても心強いわ。私は世間知らずだから」
「あなたは神に愛された心清い人です。汚れ切った世間など知らなくていいのですよ」
「そうもいかないわ。私、今此処にいるもの」
男娼を侮蔑していると受け取られる物言いは避けようと心に決めていたが、男娼の館にいる事実までは無視しようとは思わない。私は私の現実に立ち向かわなくてはならないからだ。
「先程レオンに話したのだけれど、あれから私、考えを改めたの」
「え?」
レオンが反応した。
ヨハンは穏やかに頷きながら話の続きを促す。
「一人一人に復讐なんて、やはりよくないわ。そんな事の為にあなた方を利用するなんて、私どうかしていたの」
「いえいえ、復讐しましょう」
「え?な、なに?」
優雅ながらも畳みかける勢いのヨハンに私は一瞬、何が起きたのかわからず呆けてしまった。
その隙にヨハンはレオンに尋ねる。
「計画の詳細は?」
「僕たちがこの方を貶めた者全員をとことん誑かし堕落させて軽蔑させて破滅させる」
「なるほど。それはいけません。甘すぎる」
私の目の前で男娼二人が意見を交わしている。
確かに彼らを利用しようという気持ちで此処《ユフシェリア》に来た私だが、これほど積極的な協力は予想外だった。
「ですが、ヒルデガルド」
「あ、はい」
自然に呼び掛けられ、私も違和感なく応じてしまう。
ヨハンは貴族らしい高潔さと優雅さを身に纏いながらきっぱり次のように断言した。
「まずはあなたの潔白を証明することが先決です」
それは私が何より望んでいる結果だった。
一人一人に対しての憎しみがもう消えたとは言えないが、私自身の手で追い詰めるならまだしも、他者を、もっと正確に言えば他者の肉体を利用するというのはあまりに冒涜的だ。
私の潔白が証明されれば、クローゼル侯爵家の昼食会で率先して私を侮辱し罵倒した面々の非礼も明らかになる。そうなれば、どのような罰を下すか決めるのはもう私ではなくなる。
「ありがとう、ヨハン。よろしくお願いします」
「ええ。心変わりしたあなたが再び復讐を決意するようになるまでの間、この私が綿密な計画を練り必ずあなたの潔白を証明してみせます」
「……」
誤解が生じている。
或いは、意志の疎通が図り切れていない。
ヨハンは碧い瞳を美しく煌めかせ優雅に語る。
「心優しい清らかなあなただからこそ迷われているのです。私はそんなあなたの犬ですが、駄犬ではありません。主に害を及ぼす者どもの首を噛み千切るまで止まらない狂犬です……という友の役に徹します。そのような犬を巷では善い仔と褒めますね?そうでしょう?」
「……」
絶大な美貌の為か尊くありがたいことを言っているように目には映るが、たぶん、恐らく、ヨハンは少し変わり者なのだろう。
私はレオンに目で助けを求めた。
こればかりは仕方がないと言うように、レオンは神妙な面持ちで緩く首を振って応えた。
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