断罪の鉤

有箱

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無力な刃

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 あの日から、僕は上の空だ。ほとんどの時間、言葉の意味ばかりを考えている。

 もちろん、危機伝達についての思案も怠ってはいない。ただ、進展がないせいで、意味の方へ思いが傾いてしまうだけだ。

 アランは何が言いたかったのだろう。曖昧な表現ではなく、もっと噛み砕いた説明が欲しい。

 彼は再び、家を訪ねてくれると言っていた。その時が来たら、尋ねようと決めた。

 人間は正直怖い。いや、バケはそれ以上に怖いが。
 だが、彼からは不思議と負の感情を感じなかった。嫌悪感も憎悪も、その他の悪感情が彼からは滲んでいなかった。

 寧ろ、彼からは親しみを――なんて思うのは、優しくされたせいかもしれない。



 扉が叩かれる。背筋が伸び、心臓が騒ぎだした。研究者か男か。扉越し、現れる人物に期待と不安を委ねる。
 机に伏せていた父親が、目を擦りながら立ち上がった。
 
 どうか、アランがいますように。
 
 期待は砕かれ、立っていたのは男だった。偽りの微笑みを湛え、父親を労っている。父の纏うオーラが柔らかくなり、語調まで変化した。

 危ないよ! その人を家に入れちゃ駄目だよ!

 必死で訴えるが、振り返ってさえくれない。それどころか、疑い無く招き入れた。

 バケの瞳が僕を見る。睨まれた訳でもないのに全身が凍り付いた。魂の放つ禍々しさが、前よりも強大に感じてしまう。
 本能だろうか。感じたことのない恐怖感が、身を包み始めた。

 叫ぶ。だが、布に押さえつけられ言葉として成り立たない。もごもごと訴えるしかない。

 黙れと父親が怒鳴った。それでも止めないのは、今日がだと確信したからだ。

「うるせぇな! 黙れって言ってんのが聞こえねぇのかよ!」

 父親が立ち上がり、僕を殴り付ける。口の中が、一気に血の味で満ちた。それでも助けたい一心で訴える。

「お前なぁ、殺されてぇのか!」

 結局、伝わることは無かったけど。

 血飛沫が舞った。倒れてくる父親越し、男が立っていた。足元しか見えず、表情は分からない。

 父親の背中がぱっくりと割れており、おびただしい量の血が溢れ出している。
 一瞬で、死んでいると分かった。

「――っ!」

 体が硬直し、起き上がれない。それどころか、息さえ苦しくなってくる。混乱で脳内真っ白だ。

「人間って本当に脆いよねぇ」

 気だるい発声と同時に、男が屈み込む。視界に映った腕は、バケの物へと変わっていた。鈍色の爪は、血肉ですっかり汚れている。

 男は、動かない父親の腕をもぐと、徐にかじりついた。
 それを皮切りに、みるみる姿が変化していく。腕から胴体へ、そして見えない頭の方へと広がって行く。鮮明になった本体は、あまりにも禍々しかった。

 音を立てながら、父親が食われて行く。落下してくる血と音が、精神を掻き回す。想像していた情景と、あまりにも違いすぎる。

 動けない。一歩も動けない。次は自分だと感じながらも、逃げ出すことすら出来ない。

 これで良いとは思えなかった。やっぱり死ぬのは怖い。

 男の手が伸び、両肩を掴む。刃のごとき爪が、肩に食い込み傷を作った。そのまま持ち上げられ、座らされる。

 いつも見ていた世界は、赤黒く染まっていた。父親の姿はどこにもなかった。

「混血の肉は、どんな味がすると思う?」

 口元の布が引き剥がされた。どうやら、僕に問っていたらしい。当然、答えられはしないが。

 男は、恍惚の笑みを浮かべている。この状況を楽しんでいるのだろう。

「そうそう。親が言ってたんだけど、お前の母親、相当美味かったらしいよ」
「えっ」
「やっぱ食いつくと思った。なんか、必死にお前のこと守ってたらしいよ。滑稽だよね、無価値なごみなんか守ってさ」

 父から聞いていた話とは、何もかもが違う。いや、僕のせいで死んだのは正しいけれど。
 でも、それじゃあ母は僕のことを。

「けど、そうやって守ったものを食うってなんか良いよね。さてさて……」

 男の腕が俊敏に伸びる。死を覚悟した瞬間、激痛が左腕に走った。人間の手の方だ。
 千切れた腕が、目の前にぶら下げられる。

「あぁああ……!」

 ーー呻く。叫ぶ。痛みと恐怖で、ただただ繰り返す。思わず被せた右腕の、包帯が赤く染まって行く。傷の断面が焼けるように熱かった。

 怖い。痛い。死にたくない。だけど、どうしようもない。

「なんだ、お前もバケじゃん。ま、腕は本物の人間だけどね。本当、気持ち悪い体だな」

 腕をかじる男の、視線が傷に向いている。つられて見ると、左腕が再生を始めていた。痛みが曖昧に轟いており気付かなかった。

 直後、吐かれた言葉の意味を悟り、胸が締め付けられた。

 なんで、僕はこんな体に生まれたんだろう。人でもバケでもない、こんな体に。
 あの研究者なら、この答えをくれていたのだろうか。

「うーん、本当中途半端だな。あ、心臓潰したらどうなるんだろ」

 男が、腕を振りかぶる。指が開かれ、鈍い色の爪が広がった。ぎゅっと目を瞑り、体を縮める。
 
 ああ、一度で良いから、世界が見たかったな。



 ドスリと、重く突き刺さる音がした。

 だが、意識はまだある。しかも、痛みは左腕だけだ。と言うことは、音は僕からじゃない。

 恐々顔をあげると、男はよろけ、バランスを崩していた。なぜか、首にナイフが刺さっている。流れる血は黒い。そして、その向こうには――。

「間に合って良かった。少年、生きているか」

 そこのいたのはアランだった。スペアがあるのか、同じ短刀を構えている。

 心に、ほんの小さな安堵が降りた。だが、ダメージにはならなかったのか、男の傷はみるみる回復してゆく。短剣も体に取り込んで。

 気分を害されたのか、眉をしかめた男は僕に背を向けた。標的を変えたのだ。

「少年、世界はまだ見たいか!」

 短刀を構えるアランの元へ、バケが近づく。
 明らかな力の差を前にしても、彼は一切逃げようとしない。それどころか、怖じ気づく気配すらなかった。

 そうだ。彼が来たら、ずっと聞きたかった。

「せ、世界には、僕を許してくれる場所はありますか……!」
「はぁ? そんな場所あるわけないだろ」

 割り込んできたバケが、尻目で僕を睨む。冷たく赤い瞳が、氷柱のごとく心に刺さった。

「それがあるんだよ……」

 だが、否定が聞こえた瞬間、それは溶けはじめる。

「少年、世界が見たければ戦え! 君の体はその為にある!」

 瞬間、血が沸いた。求めて続けていた答えをはっきり示され、身体中が熱くなる。

 そうか、僕がこの体で生まれたのは、バケと戦うためだったんだ。

 気付けば、左手は治っていた。指先の感覚だって、すっかり元通りだ。
 父親の命令だって、もう守る必要はなくなった。包帯を外したって、足枷を切ったって、もう――。
 
 ごめんね、お父さん。僕は、僕を許してくれる世界を見る為、生きるよ。
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