職業病

有箱

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仕事

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 目覚めると、いつもの景色があった。真っ白な天井だ。数年前から、何も変わっていない。

 そうか、昨日の診断は夢か――そう安堵したのも束の間、現実に戻された。起き上がって見えた景色が、昨日のままだったのだ。
 普段と変わらず見えたのは、天井が元々白かったからだろう。

 無意識に、深い溜め息が出る。癖のようにメールを確認したが、これまた現実を突き付けられただけとなった。

 昨夜、私は全てを裁ち切った。いや、そうせざるを得なかった。
 半端な仕事の仕上げさえ出来ないまま、会社との契約を切った。贔屓してくれていたクライアントにも連絡をいれ、事情を話した。

 皆が、それじゃあ仕方ない。お大事に。の二言を別れの挨拶とした。誰一人、留めてくれなかった。
 いや、仕事が出来ないんじゃ当然ではあるけれど。
 治っても、君の戻る場所はないよ。そう言われた気がした。

 なぜ、努力していた私が、病にかからなくてはいけないんだ。考えると悔しくなり、目の奥が熱くなる。

 色のない景色は心を慰めず、結局は泣いてしまった。



 しかし、後ろばかり見ていても先に進まないのが現実だ。生活を続けるには、何らかの行動が求められる。
 実家に帰るにせよ、生活保護を受けるにせよ、まずは自分の足で動かねばならない。

 本心では引き篭りたかったが、それこそ惨めだと己を奮い立たせた。

 そうして、最終的に辿り着いたのはアルバイトだ。元々視野に入れていたし、何より気晴らしになりそうなのが最大の理由である。

 選んだのは、未経験の事務仕事だ。文字さえ判別出来れば、色がなくとも支障がないからと選択した。

 ただ、内心は繋ぎの仕事としか見れなかったけれど。



「河上さんも大変だね。白黒でしか見えないんだっけ?」

 問いかけて来たのは、社長の斎藤さんだ。温厚で周囲からの信頼も厚い、優秀な若社長である。と言っても、三十代後半らしいけど。
 私もよく世話になっているが、かなりの良い人だと思う。こんな私でも、心許しそうになるほどには。

 この会社は職業病に理解があるらしく、面接は意外と簡単に通った。そうして、この小会社で勤務を始め、早半年が経とうとしている。

 因みに、症状はあまり変わっていない。変化と言えば、寝起きに驚かなくなった程度だろうか。当初は夢に色が残るせいで、夢現の区別に迷った。

「そんな感じです。全然回復しなくて、どうしたらいいものか」

 未だに、感情は全て過去に向いている。
 完全辞職の決心をつけた矢先、それをなかったことにしたり。いつか見返してやると、別れた人々を逆恨みしたり。そんな憂鬱な日々の繰り返しだ。

「僕もね、かかったことあるよ。職業病。僕の場合、道に名前が出てきちゃうって奴だったな」

 何かを見兼ねてか、斎藤さんは語り出す。職業病の話を聞くのは、実はこれが初めてだ。
 上位を争う発症率ながら、理解しにくい病としても有名な職業病である。ゆえに話題にする人自体あまりいなかった。

「不思議な症状ですね。そういう関係の仕事だったんですか?」
「配送業者をしていたよ。けど、標識とかが上手く見れなくなって退職さ」
「なるほど。それで今は治ったんですか?」
「大体はね。でも、それ以来運転には出ていないなぁ。好きだったんだけどね」

 確かに、社長は自ら運転をしない。乗っても公共交通機関か、助手席だ。
 いや、そんなことはどうでも良いとして。

 ほとんど完治している状態で、元の生活に戻ろうとしない真意がよく分からなかった。

「もう戻らないんですか?」

 キーボードを叩けばペンの感触が恋しくなり、時計を見れば色を入れたくなる。
 このような感覚が、彼にはないのだろうか。どうしようもなく、気持ちが疼く瞬間が。

「そうだね。今の仕事、結構気に入ってるから」
「そうですか……」

 あの日から、私は絵を描いていない。絵の世界に触れてさえいない。ペンを持つとしても、それは文字を描く為だけだ。
 描いてしまえば、きっと心が荒むから。

「そうそう。この会社には、他にも何人か職業病の人がいるよ。皆、少しずつだけど改善してるみたいだから、焦らなくても大丈夫さ」

 恐らく、これが本題だったのだろう。面映ゆそうにはにかみ、社長は語る。

「なんて言うのは建前で。河上さん手際いいからさ、治っても仕事続けてよ」

 ――いや、本題はこっちだったか。

 言葉が胸の中に詰まる。評価は素直に嬉しい。だが、答えはノーだ。無論、はっきりとは言わないが。

 いつか、彼のように今の生活を好きになれれば良いのに。

「また、考えておきますね」

 軽く流す振りをしつつも、笑顔の裏に言葉を仕舞った。



 作りかけの動画でも見ているかのようだ。電車に揺られながら、見える景色は物足りない。
 景色だけではない。周りを見ても、生きているはずの人間を見ても、全てが下描きにしか見えなかった。

 色と戦っていた頃の記憶が、順々に上書きされてゆく。白黒だけの世界になってゆく。

『治っても仕事続けてよ』

 そう言った、斎藤さんの言葉が蘇った。白黒の笑顔と景色付きで。

 元々こっちの方が向いていたのかもしれない。そう思うほど、今の仕事は気に入っている。だが、直ぐに肯定出来なかったのは、やっぱり戻りたい気持ちが捨てられないからだ。

 私は一体、どうするべきなのだろう。
 まず、治らないことには何も始まらないけれど。
 
 しかし、葛藤とは裏腹に、回復の兆しは見えなかった。
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