空に、風に。

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 早朝、雨は上がった。しかし、斉藤は休みだった。その次の日も、計2日間続けての欠席だ。

 多分、体でも冷やしてしまったのだろう。気温が低くなっているにも関わらず、ずっと窓を開いて風を浴びていたから。

 恒例になりつつあった、放課後の日課が無い事に寂しく思いながらも、他の生徒に囲まれれば、やはりそれなりに楽しい一日が送れた。

 斉藤の発言について不図過ぎったが、あまり気にならなかった為、直ぐに別の案件について思い巡らせた。



 金曜日、斉藤はやってきた。
 放課後いつも通り、誰も居ない教室で一人静かに座っている。
 今日は、ここ最近では珍しく、自分の机から空を見ている。まだ、体調が優れないのかもしれない。

 今日の空は、晴れている。とは言え冬の空だ。既に、夜みたいに暗い。

「ねぇ、先生」
「なんだ?」

 珍しく、途中で止められた台詞に聞き入る。
 いつもの変わった発言を、予想は出来ないが想像しながら待っていると、不意に視線が絡んだ。

「キスして」
「へっ?」

 急な要請に、素っ頓狂な声を出してしまう。

「先生、私の事どう思ってる?」
「えっと、素敵だとは思うが、それは一生徒としてだな」

 初めての告白に、しかも生徒として見ていた少女からの告白に、動揺が隠せない。
 それに、さすがにキスは不味いだろう。それは、思考力を一切働かせなくとも分かる事だ。

 じっと凝視され視線を泳がせているのを見ていた斉藤は、不意に可笑しそうに笑い出した。

「嘘!嘘だよ…!」

 その言葉自体、本物か建前か分からず混乱は解けない。
 だが、斉藤から取り消してくれたのだ。乗っからない理由もなく、乗る。

「はは、そうか、吃驚したよ、斉藤でも冗談言うんだな」
「先生、驚くと思って」

 笑顔はささやかな物に変わり、美しさを際立たせる。告白直後な所為か、妙に美しく見える。

「驚いたよ」
「私のこと、嫌いではないんだね?」
「あぁ、それは断言できる」
「そう、良かった」

 斉藤は、既に準備の済まされていた鞄を手に持ち、窓の外の暗い空を見た。

「あー、空が綺麗だね」
「そうだな」

 まだ恥ずかしさが顔に残っていて、どうしても斉藤を直視できなかった。

「じゃあね」
「あぁ、また来週」

 しかし、小さく戸惑いを含んだ、それで居ながら軽快な声色は、恥ずかしげな笑顔を連想させた。

 斉藤の誕生日は丁度土日に重なっていたため、月曜になったら改めて祝いの言葉をかけようと決めた。
 毛嫌いしていた誕生日が、少しでも良い日だと思えるように。
 放課後誰も居ない時間、満面の笑顔で心からの祝福をしよう。



 月曜日、斉藤は学校に来なかった。
 その日は、空が大泣きをしていた。
 授業中、強まってゆく雨脚と空席を気にかけながら、黒板に白い文字を並べてゆく。

「先生、斉藤さんからお電話です」

 電話の子機を手に教室に入ってきたのは、事務員の女性だった。

「え?はい」

 私は、生徒に自習を告げると、直ぐに廊下に出て保留を解除する。

「もしもし、お電話代わりました」

「――――もしもし」

 電話越しから聞こえたのは、悄然とした母親の声だった。

「…どうかしましたか?」
「…先生、凛音が死にました…」
「………えっ?」

 ―――――言葉の意味が、分からなかった。
 いや、理解は出来た。しかし分からない、分かりたくない。

 否定したままで私は、教えられた病院へと走っていた。



 とある部屋の前に、家庭訪問の時一度だけ会った母親が立っていた。父親は居ない。
 しかし、その両脇には警察がいる。

 状況の理解が間に合わず、緊張感に背筋を張り伸ばしながらも、どうにか教師らしい毅然とした態度を貫く。

「遅くなりました」
「…先生、これを…」

 母親はとある一冊のノートを手渡すと同時に、その場で崩れた。
 警察官の人間に、宥められながら泣いている。何度も謝罪しながら泣いている。

「あの、斉藤…凛音さんは…」

 医師の姿が見当たらなかった為、警察官に問いかけてみる。すると警察官は、苦い顔をして首を横に振った。

「…凛音さんは、どうして…?」

 警察官は母親を配慮してか、耳元でそっと原因を口にした。

「…自殺、なされました」

 現実が、一気に突き刺さった。
 発言の意味は、やはりそういう事だったのだ。空になるとは、死を暗示していたのだ。

 嗚呼、気付いてあげられなかった。

「……至らず、申し訳有りませんでした…」

 深いお辞儀と共に謝罪すると、母親は私が悪かった、と言い放った。
 私は、込み上げる悲しみに支配されてしまう前に、その場を足早に去った。



 通り雨だったらしく、病院の外は晴れ間が広がっていた。風も穏やかで、気持ちに全く寄り添ってくれない。
 斉藤曰く、笑顔の空だ。

 私は少し外に出ると、先程母親から手渡されたノートのページを捲った。

『先生、聞いて』

 冒頭から自分へ向けられていて、正直私は驚きが隠せなかった。
 このノートは誰でもない、私へ向けられた一冊だったのだ。
 それにしても、なぜ私なのか。

『私、嬉しかった。先生が、話聞いてくれて嬉しかった。』

 日付は無く、それがいつ書かれた物かは分からない。
 しかし、これは遺書に似ている。

『可笑しい子って言わずに、聞いてくれて嬉しかった。』

 一行間が空いて、また新たな短めの文章が連なる。

『お母さんは、お父さんに叩かれてる、そんなお母さんは私を叩く』

 現実に引き戻された内容に、当時は気付かなかった重さを改める。

『仕方が無いと分かってるの、でもやっぱり怖いの。先生聞いて、私どうすれば良いかな?』

 ずっと悩んでいたのだろう。けれど、打ち明ける事が出来なかったのだ。
 私も気付けなかった。本気で向き合おうとしなかった。
 ごめん、ごめん斉藤。

『雨の音は音楽を刻んでいるみたい、素敵だね』

『今日の空は笑っているよ、雲も流れて遠い遠い世界へと向かってゆく、きっと楽しいね』

『先生が、私の事分かってきてくれて嬉しいの、大好きになっちゃいそうだな』

『素直になるのは皆難しいんだね、でもやっぱり悲しいな、今日の風みたい』

『今日は頬が腫れているから学校に行けないの、早く明日になってほしい』

 改行の多い文章を追うごとに、これが日記であると気付いた。
 放課後、何気なく重ねた会話についてや行動についても、記載されていたから分かった。

『先生の手のひらは、大きくて暖かくて、撫でてくれてとても嬉しかった、けれどやっぱり恥ずかしかった。』

『先生、先生あのね、やっぱり苦しい、我慢してても、意味無いかもって思っちゃうの』

 涙が止まらなかった。人が振り向くのも気にせずに、泣いてしまう。

『先生が、私の事嫌いじゃないって言ってくれた、こんな私の事嫌いじゃないって言ってくれた。』

『先生、先生、大好きだよ。』

 もっとまともに向き合わなかった後悔が、とめどなく溢れ出す。

『私はこれから、貴方を見守る空になります。巡って皆を包む、風にも雨にもなります。』

『どうか怒らないで。私はきっと幸せになれる、だから大丈夫だよ。』

『先生、時々で良いから私の事を思い出してね』

「…ごめん、ごめん、さいと…」

 泣き止めない顔面に向かって、急に強く風が吹き上げる。
 見上げた空は眩しい位に、満面の笑顔を湛えていた――――。

『ばいばい先生、大好きだよ』
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