もしもしんだなら

有箱

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最終話:君が死んだなら

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 ベンチに浅く腰掛け、丸められた背中は何だか悲しげだ。服装こそ違う物の、あの日見た姿そのものだった。
 吸い寄せられるように、慧の元へと向かう。しかし、慧は気配に気付かなかった。

 近くまで行くと、携帯を見詰めていることが分かった。ここまで来ると、時間の巻き戻りを疑ってしまう。
 もしそうならば、慧は自殺サイトを見ているはずだ。

「違った。家族写真だ」

「うわっ!」

 振り向いた慧の瞼は、酷い腫れ方をしていた。今も角膜が濡れていて、泣いていた途中だと分かる。
 以前とは違う場面に遭遇したからか、思わず絶句してしまった。すると、唐突に慧が笑いだした。

「……相変わらず、幽霊みたいに気配ねぇな、宮園は!」
「うん」

 泣き顔を塗り潰す、無邪気な笑顔が貼りついている。維持したままで、笑い声を上げている。

 ふと、傷跡が薄くなっていることに気付いた。春休みに入り、暴力を受ける機会が減った所為だろう。
 だとすると、慧はなぜ泣いていたのだろう。家で嫌な事でもあったのだろうか。

「宮園、あのさ。俺、引っ越す事になったんだ」
「そう」
「って反応薄っ!」

 突然の告白に、心はあまり動かなかった。だが、学校での苦難を嘆いていた彼にとって、良い転機になるのだろうとは思う。

「おめでとう?」

 一般的には祝福すべき所だろう、と祝福を渡す。
 だが、慧は何の返答もしなかった。ただただ、先ほどから浮かべている笑みを続けているだけだ。

「……なぁ、もう一回見てもらっていい? これで最後」

 スッと差し出された手は、以前の物より大きく厳つくなっていた。

「うん、いいよ」

 行為は、別れの儀式を彷彿とさせた。慧が私に近づく切っ掛けも、この能力だったのだ。
 だから、きっと最後に求めてきた――。

「家族がさ、事故で死んだんだ」

 言葉は脳に突き刺さり、内側で留まった。触れた指先は冷たく、冷え切っている。

「……うん」

 目を合わせる為に仰ぐと、切なげな笑みが飛び込んできた。今にも泣きそうな瞳は、細くなり無邪気さを醸す。
 今初めて、辛さを笑顔で被せたのだと分かった。気付かなかっただけで、今までもそうだったのかもしれない。

 集中力を高める。彼の死が生み出す悲しみを探す。死にたいと言っていた彼が、家族が居るから死ねないと言っていた彼が、居なくなった後の悲しみを探す。探す。でも居ない。どこにも見えない。

 ふと、遠くに一瞬、影が見えた――気がした。

「もうさ、良いよな。楽になっても」

 集中が途切れ、意識が現実世界に戻った。慧の笑顔は崩れていた。

「宮園、教えてくれ。誰も悲しむ人間なんていないよな? もう良いよな?」

 耐え切れず落ちた雫が、頬を滑り繋がった手に落下した。外気に触れた涙は、とうに冷たくなっていた。

「なぁ、宮園……」

 たった一つ、何者かすら分からない影は見えた。けれど、それが人なのか、そもそも生きている者なのか、それさえ分からなくては伝えようがない。
 それに、そんな曖昧な影が、慧を現世に繋ぎとめられるとは思わない。

「死ぬの?」

 慧は、何も答えなかった。
 表情から、考えが手に取るように分かった。他者の思惑を見透かすのは、これが初めてかもしれない。

 彼は死ぬ。この目は死を見据えている目だ。誰かで見たイメージの中にもあった。

 いつかに祖母に問った問いが、その答えが浮き上がる。死んだら悲しいと祖母のように言えたなら、一般人のような感性を持ち合わせていたならば、私は違う答えを出しただろうか。
 繋がったままの手の平を、ぎゅっと握り締める。

「誰もいない、悲しまない。だから良いよ」

 辛いなら逃げても構わないと、思わなかったのだろうか――。

「……ありがと宮園。じゃあ俺いくわ!」

 力を抜いた瞬間、そっと手が離れる。再び湛えられた笑みは、開放感で満たされていた。

 慧は用事が済んだのか、背を向け颯爽と出口を目指した。
 途中、数秒だけ立ち止まる。

「そうそう! 俺さ、宮園のこと好きだったよ! ……そんだけ!」

 そして、言い終えると全力疾走で去っていった。

「……変なの」

 曲がり角に消えた瞬間を見たのにも関わらず、まるで世界から彼が消えてしまったような錯覚に襲われた。
 少しだけ〝寂しさ〟を知った気分になった。

 それから数日後、風の便りで慧の死を知った。

***

 桜の咲かない入学式を終えたばかりの教室は、その話題で持ちきりだった。

 事故か自殺か、それとも他殺か、と真相を探る声も、実は家庭内が崩壊していたらしい、とでっち上げる者も、多くの生徒達が噂に尾ひれをつけていた。

 もちろん小声で話してはいたが、私には死を面白がっているように聞こえた。
 あまり、良い気はしなかった。

 慧は死んだ。自ら命を絶った。聞かなくとも私には分かる。
 誰を悲しませるでもなく、彼は安楽を手に入れた。誰を悲しませるでもなく――。

 手の平に、雫が落ちた。最後に味わった、あの冷たさは無かった。
 気付けば、頬を涙が伝っていた。感情が追いつかないまま、雫だけが生まれては落ちる。
 やっと、影の正体が分かった。今になって、やっと分かった。

 影は、私だったんだ。

「み、宮園どうした!?」

 泣いていると気付いた教師が、あからさまな動揺でこちらを見ている。そこで漸く周囲の視線を察知し、一旦教室から抜ける選択をした。

「いえ、何でも。少し保健室に行きます」

 向かった先は、屋上だった。

***

 開いた扉の先には、四方を覆われた世界が広がっていた。その向こうには、広い空がある。

 きっと、慧は救われた。それなのに雫が落ちる。不思議と胸も痛い。はっきりと分かるほどに痛い。
 きっと、これが悲しみという奴なのだろう。今まで、この目で見るだけだった感情を、今味わっているのだ。

 慧はどこにも居ない。この学校にも、地上にも、広い空にも、天国にも地獄にもいない。
 声も、息も、笑顔も、背中も傷も残らない。残るのは、記憶だけだ。

 悲しいとは、こういう気持ちのことだったんだ。

 本人が救われてでも死んで欲しくない気持ちが、少しだけ分かった気がした。

*** 

「先輩、変わった能力があるんですって? ちょっと僕のも見て下さいよ」
「うん、良いよ」

 ――教室の真ん中、目立つ場所で能力を発揮するからか、噂はたちまち広がっていった。半ば本気で来る者も遊び半分でくる者もいるようだが、見分ける力はまだ得られていない。
 だが、どちらにせよ私が伝える事は一つだ。

「五人家族でいらっしゃるようですが、皆様泣いておられます。その中ではお母様が得に。死を考えるほど打ちひしがれますね。なので、絶対に死のうとなんてしないで下さい」
「……あ、はい、あざーっす……」

 男子生徒は苦笑っていた。すぐさま手を解き、早足で去ってゆく。一応礼儀はあるのか、軽く会釈を残していった。

 もう少し早く気付いて、慧に死なないで欲しいと言いたかった。

 激しい後悔とまでは行かないが、小さな蟠りとして胸に住み着いている。恐らくこの先も、ずっと残り続けるだろう。

 きっとこの能力は、彼を現世に繋ぎとめる為にあったのだ。間に合わなかったけれど。
 だからせめて、誰かは繋ぎとめられるように、声を伝えようと思う。

 今でも、〝悲しみ〟を理解しきれてはいない。救われるのなら送り出す方が優しいとも考えてしまう。
 けれど、公園の横を通る度、裏庭を通る度、幾多のポイントで慧を思い出す度に、誰かを繋ぎとめるのも優しさではないかと考えるのだ。
 短期間で、彼は私にそれを教えた。

 慧と出会った季節は、直ぐそこだ。
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