最期に、花のような口づけを。

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 冷たさは消え、暦の上でも春真っ盛りだ。太陽光は日に日に増して、柔らかく頭上に振る。
 しかし、千秋の機嫌は最悪だった。

「杉原、また風邪かよ」
「……そうだよ」

 どうやら、気温差にやられてしまったらしい。今回のものは頭痛も付いてくる型のものらしく、身体的にも辛い物がある。
 しかし、病院にいる希の方が辛いんだ、との考えに行き着く。

 今は大丈夫だろうか、苦しんでいないだろうか、辛くないだろうか。
 希の状態ばかりに、気持ちが持っていかれる。
 兎に角、早く会いたい。会えないと分かった瞬間に、会いたい気持ちが強まるのを、いい加減どうにかしたい。

「お前さー、いつも天野の事考えてるよな、たまには別の事考えてみれば良いじゃーん」

 そう言った友人は、何やらにやけながら携帯の画面を見詰めている。少し間を置いて、慣れた手付きでタップし始めた。
 はじめて見る――明らかにペアになりそうなデザインの――ストラップが目に留まる。携帯に付けられ、ゆらゆらと揺れている。

「彼女か?」
「当たりー!いやー、良いよ女の子、可愛いよ」

 友人の表情は、キラキラと輝いている。千秋も、気持ち自体はよく理解出来るつもりだ。

「杉原も彼女作れば良いのに」
「俺は、希が良いから」
「でも将来的に、無理じゃん」

 千秋は本来の意味を理解しながらも、違う意味を含め、捉えてしまった。
 将来、その横に、希がいない景色が浮かぶ。
 考えるだけで、寒気がする。

「結婚も出来ないしー?」

 発言理由を明確に加えられ、千秋は苦笑った。しかし気持ちは、妙に冴えない。
 友人は唐突に鳴ったコールに、笑顔を弾かせ廊下へと走っていった。
 


「お疲れ千秋~久しぶり~」

 扉を開いて早々、軽快ながらもどこか力の無い挨拶が、千秋の前に落とされた。一見しただけで、顔色の悪さを知る。

「久しぶり、体調悪い感じか?」

 希はベッドに背を預けたまま、いつもの柔らかい笑顔を宿している。しかし、その腕には点滴があった。
 千秋の視線に気付いたのか、点滴を見詰めた希は、少しだけ頬を膨らませた。

「ちょっとね、これ邪魔だよ」
「もうちょっとだろ」

 事実、液は半分以下になっている。それでも希は、不服そうな顔で袋を見つめている。

「抱きつきたい」
「終わったらね」

 場景だけ見れば、明らかに悪い要素ばかりが映る。それなのに、希の語気も笑顔も変わりなくて、病院と言う場所に居ながらも穏やかになれる。

「好きだよ」
「僕も」

 希の差し出した右手に、そっと左手の平を重ねた。軽く力を込めてきゅっと握ると、希は恥ずかしげに、だが嬉しそうに笑った。
 
 消灯時間が近付いて、いつもの様に腰を上げる。

「帰るの?嫌だなぁ」

 希は一日を通して、具合を悪そうにしていた。しかしそれでも、笑顔は絶やさなかった。可愛らしくコロコロ変わる表情も、毎度ながら心を癒してくれる。

「大丈夫、多分明日も来れるよ」
「えー、風邪引かない?」
「…多分」

 今日はいつもに増して、甘えが目に見える。
 いつも愛情行為を求めてくるのは、希からであることが多い。いや、ほぼ完全に希からだろう。

 千秋は、発言や行為自体は躊躇い等一切ないのに、自分からとなると中々積極的になれなかった。
 抱きしめたり手を握ったり、してあげる事ができれば喜ぶのは目に見えているが、それはその内で。

 千秋は、にこにこと笑う希の顔を直視しながら、心からの笑顔を浮かべた。
 


 春が深まり、ついには夏の気配が近付いてきた。1シーズンを越える度に、希は景色に気配を探す。

「最近、汗ばむ位温かいよね」

 窓を全開にして入ってくる風に涼む希は、発言とは裏腹に涼しげに目を閉じている。

「…あと少しで夏だからな」
「海行きたい!」
「良いね」
「向日葵も見たいなぁ」
「どこにあるっけ」

 未来に思いを馳せる、キラキラした笑顔は、とても輝かしく愛しい。
 千秋は、広い海と向日葵の咲く場所が、近場にあったか記憶から手繰る。
 暖かくなった風を受けながら、海で向日葵を見る、希と自分の姿を想像してみる。
 きっと、それもまた楽しいだろうな。 

「あ、そうだ、新しい本、また貸してよ」

 切り替わった内容に、直ぐ対応する。
 希はあまり激しい運動が出来ない為、部屋で過ごす事が求められている。
 ここ数日も本を読んでいたのを、千秋は確りと見ていた。残りページが少なくなっているのも。

「そろそろだと思って持ってきた」

 千秋は、丸椅子の足に立てかけた鞄から、新たな本を取り出す。

「本当!さすが千秋!どんなの…」

 しかし、歓喜の声は続かなかった。一気に気配が変化し、千秋は直ぐに顔を上げる。
 目の前には、蹲り胸を押さえ、苦しげに呼吸する希が居た。
 発作だ。

「希!今ナース呼ぶ!」

 千秋は咄嗟に判断し、ナースコールを押す。
 発作を見るのは、これが初めてではない。しかしそれでも、やはり動揺はしてしまう。
 コールすると、直ぐに希に駆け寄った。その背を、必死ながら優しく撫でる。無意識に、眉を歪めてしまう。
 希は声も出ないのか、唯々涙目で吐息を漏らした。

「大丈夫、大丈夫だ希」

 医師が駆けつけるまでの短い時間が、体感的にはとても長く思えた。
 苦しむ希を、見ているのが辛かった。代わってあげたいと、どれほど強く思った事だろう。

 ――――描いていた、平凡な未来が澱んだ。
 
 しかしそれでも、時が過ぎれば、簡単に心は安堵に包まれる。

「……また、ごめんね、慣れないよね…」

 疲れた顔で、希が一笑する。淡くて、今にも消えてしまいそうな微笑だ。
 千秋も、希を安心させる思惑も込めて、柔らかく笑って見せた。

「大丈夫、頑張ったな」
「……うん、頑張った」

 希の瞳が、僅かに潤んだ。
 発作と言うのは、何度味わっても変わらない恐怖があるだろう。
 見ている方でさえ、底知れない恐怖に押し潰されそうになるのだ、本人は、辛くて仕方がないに決まっている。

「……千秋」

 希は弱弱しく、両手を僅かに持ち上げた。千秋は誘われるように右手だけを取り、額にそっと口付けを落とした。
 希は、想定外の行動だったのか目を丸くし、何度か瞬きすると、頬を赤らめてふにゃっと笑った。

「……大好き」
「俺もだよ」

 少し汗ばんだ髪に触れながら、こめかみ辺りを撫でる。

「愛してるよ」

 今日という一日の中に、千秋は懸命に好きの気持ちを刻み付けた。もう何度かめになる、失いたくないという気持ちを浄化するように。
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