造花の開く頃に

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1月25日

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[1月25日、火曜日]
 目を開けると、暗い天井が広がっていた。昨夜の件を脳内に置き、ぼんやりと見詰めてしまう。
 勢いで告げてしまったのは良いが、時間を経ると、選択が間違っているのでは無いかとの不安に駆られる。

 決心して置きながら早々に鈍るなんて、どこまで優柔不断なのだろう。
 天井との間に、譲葉の顔が現れた。平凡な顔でじっと覗き込んでいる。

「月裏さん、そろそろ起きる時間だ」
「あっ、おはよう、もうそんな時間なんだ?」
「あぁ。……大丈夫か?」
「大丈夫だよ、ありがとう起きるね」

 譲葉が上体を引っ込めたと同時に起き上がり、立ち上がるため自然と目線を上げる。
 すると、必然的に目が合った。

「ご飯食べよう」

 再び沸いた感情に従い、ふわりと微笑む。譲葉は頷き、扉へと足を踏み出した。

 譲葉と出会って、早4ヶ月強が経過した。
 半年にも満たない浅い月日ではあるが、その中で譲葉が齎した物は数知れない。様々な経験や感情を、彼に学習させてもらった。

 やはり、最終目標は譲葉が幸福になることだ。
 その譲葉が望むのなら、先の見えない道にだって果敢に踏み出してみせよう。報えるならば、償えるならば。
 溢れ出しそうなほどの不安があっても、我慢が目に見えていても、描いた幸せがそこにあると信じて歩こう。

 昨夜、譲葉を見た瞬間、深い感謝と底知れない愛情を感じた。やはり、別れは辛い。
 一緒にいたい。寄り添っていたい。支えてほしい、支えになりたい。花のように美しく咲く笑顔をもう一度、いや何度も見たい。

 譲葉のため、自分が踏み出す為、決めた。既に迷いはあるが、不思議と決意は変わらない。いや、変えない。
 変わらなければならないから、踏み出そう。

 快適な職場で仕事を始めてすぐ、寂しさが心を包んだ。折角風当たりの強い上司が転勤し、新しい場所を見つけたというのに、行くとなれば辞職が求められる。
 迷いが、一つ一つと積もってゆく。重なっては言い聞かせて、溶かして積み上げる。

 きっと、この性格は一生変わらない。環境が変化しても、状況が変化しても、どこかに影を潜めて出てゆける瞬間を待っている。
 それでも告げなければ。あとは、高槻夫婦に告げてしまえば完了なのだ。
 多少強引だが、きっとこれで――。
 月裏は、胸の中でざわつく不安を、肯定的に捉えられるよう違う捉え方を探した。

「ただいま」
「おかえり月裏さん」
「……また花描いてたの?」
「あぁ、花を描くのは好きだ」

 色鉛筆を走らせる譲葉の瞳は、優しく対象物を見詰めている。色鉛筆は、当初より明らかに短くなっている。買いたての時を思い出し、懐かしくなった。
 月裏は目線を移動した先の、思い出深い造花に哀感を重ねる。
 造花は、唯一母親の面影が残るものだ。寂しくもなり苦しくもなり、そして同じくらい心を癒してもきた。

「…………花、許してもらえるかな…………」

 譲葉は、視線を横にやって軽く頷いた。

「…………嘉代さんは綺麗だと言っていた、総真さんは作り物って事に驚いていた」
「……そっか、良かった……」

 苦痛の中で散った母親を置いて幸福に向かうのも、少しばかり躊躇いがある。しかし、もう一度あの時の幸せを感じたいとも強く願っている。
 家族の中で笑い合っていた、あの幸福を。

 切りの良い箇所まで書き終えたのか、譲葉は文房具を綺麗に片付けた。
 手の平を壁に据えて、意気込み立ち上がる。
 そのまま奥へとまっしぐらかと思いきや、月裏の目前に立った。

「……どうしたの?」
「月裏さん、本当に良いのか?」
「えっ?」
「高槻さんの所に一緒に行く話、本当に良いのか?」
「………………譲葉くんこそ良いの……?」
「……俺は、決めたから。でも月裏さんは、俺の事気にして言ってるんじゃないかって心配で……」

 大きく占めている理由を含められ、月裏は一瞬返答に迷った。今ならまだ引き返せると、悪魔の囁きまで聞こえる。

「言っといてなんだが、もし無理なら……」
「……ううん、僕が決めたんだよ。踏み出したくて、変わりたくて……」

 情けない自分を正すには、このくらい無理矢理な方が良いのかもしれない。
 踏み出した先の幸せも、留まる先の幸せも不明瞭なら、皆が望む答えに乗る方が得策だろうから。

「…………もちろん不安はあるけど……きっと大丈夫……きっと僕たちは幸せになれるよ……」

 あとは恐怖を拭うだけ。それだけなのだから。

「……そうだな、俺達はきっと幸せになれるな……」

 譲葉は少し情けなさそうに笑った。珍しくはっきり細められた目は、なんだか安らいでいる。
 微笑みが生む、愛しい気持ちが胸を満たす。

「…………きっと良い家族になれるよ……総真さんとも嘉代さんとも……付き合えば付き合うだけ好きなれる筈だ……僕等がそうしてきたみたいに……」

 互いを知るたび距離を縮めてきた事実は、場所が変わっても二人が成長しても、確りと残る。
 最初は苦しくても辛くても、今は大好きになった。その変化がここに実際あるのだから怖くない。

「…………あぁ。でもそれだったら俺達は兄弟って事になるのか……」
「……あっ、そっか……」

 籍は入れずとも、傍から見れば兄弟だ。月裏は想像し頬を染めた。

「これで、本当の家族になれる気がするな」
「………………うん、そうだね……」

 失った温かさが戻る。それは怖くもあり、フワフワとしたなんとも言えない柔らかい気持ちも生む。

「……大丈夫だ、月裏さんが辛くなったら俺が助ける」
「……僕も、譲葉くん助けるから……出来るだけ、だけど……」
「心強いな」
「……うん。じゃあ明日高槻さんに電話して、治療が落ち着いたら二人で行くって伝えよう、お世話になりますって言おう。答えをおばあちゃんにも伝えよう……」

 言いながらもまた、不安感は実をつける。しかし、屈してはならないと物事を早急に運ぶ。

「……そうだな……」

 譲葉は気持ちを悟ったのか、僅かに下から顔を覗きこんだ。

「…………本当に大丈夫か?」
「……大丈夫だよ、現実は思っているより怖くないって僕知ってるんだ」
「……そうだな……きっとそうだ……」

 譲葉の中の不安も、完全に消え去った訳では無いのだろう。けれど、きっと全てが笑い話になる日が来る。

「……遅くなっちゃったし今日はもう寝よう、ね?」

 そう信じて、踏み出すと決めた。

「あぁ…………そう言えばこれ出来た」

 譲葉からスケッチブックが渡された。美しく繊細で、どこか希望に溢れた花の絵が描かれている。

「相変わらず上手いね、ずっと見てたいなぁ」
「俺も色んな花を描きたい」
「今から楽しみだよ」
「……期待はするなよ」
「……うーん、分かった」

 自然と造花に向かった視線を戻すと、譲葉の横顔が目に入った。
 仄かに笑った口元が、まどろむように伏せられた目が、柔らかく造花の群れを映し出している。
 作られた寂しい花と、描かれた煌く花の横で、まるで作り物のようだった譲葉の笑顔が咲いている。
 月裏は嬉しくなって、つい笑っていた。
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