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1月21日
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[1月21日、土曜日]
ゆっくりと瞼を開け天井を見た時、頬に雫が伝っている事に気付いた。むくりと起き上がり茫然とする。
夢の内容すら覚えていないのに、感情の形だけは曖昧ながら残っているという奇妙な状態だ。
放心していると急に吐き気が上ってきて、その場で両手を宛がった。
譲葉が気付く前に立ち去ろうと考えたが、無性に気持ちが悪くて立ち上がる事もままならない。
「…………大丈夫か?」
耳に届いた瞬間ベッドを見ると、譲葉が上体を起こしている様子が見えた。
不快感を持ったままで、両手をそっと下げる。
「…………大丈夫だよ譲葉くん。ごめん起こしたね…………」
「気持ち悪いのか?」
「……ちょっとね、風邪でも貰ったかな……」
近付いてきた譲葉は、左手の平を肘起き部分に付いて、右手で背中を摩った。
優しさが、弱さを膨張させてゆく。
「…………ごめん、不安にさせる姿ばっかり見せちゃうね……」
「辛い時はある、無理しなくていい」
「…………ごめん……」
「茶でも呑むか?」
「……大丈夫だよ、ちょっとトイレ行ってくるね」
自然な流れで腕をすり抜け、月裏は便所へと向かった。
本物の風邪か、感情の表れか、便所に着くなり実際に嘔吐してしまった。一回でどうにか落ち着いたが、体内の水分が枯渇しているように感じられて力が出ない。
譲葉が待っているから、早めに戻らなくてはならないのに――。
思えば思うほど、涙が溢れた。
数十分後、ようやく戻ると、ベッドに座っていた譲葉が焦った様子で近付いてきた。
「大丈夫か?」
「うん、大分と落ち着いたよー。ごめん心配かけたね、僕もう一回寝るから譲葉くんも寝なよ」
「……そうか、良かった」
月裏がソファに横たわるのと同じタイミングで、譲葉も横になり背を向けた。
目を閉じたまでは良いが眠れない。頭がぼんやりとしているのに、目を閉じて眠りに落ちるだけの行為に恐怖が溢れてきて、脳を支配して離さない。
結局、居ても立っても居られずに、忍び足で部屋を出た。
得体の知れない感情に押し潰されそうになる感覚を、久しぶりに噛み締める。怖くて苦しくて、死にたくなる感覚だ。
戸棚を一瞥して目を逸らし、手首をぎゅっと握り締める。それでも落ち着かず、少しだけ腕を捲くって爪先で傷をなぞった。
元々の皮膚の色が変色してしまい、くっきりと線を残す傷跡は汚らわしく目に映る。
突然、譲葉の背中の傷跡が過ぎった。自分の持つものよりも遥かに痛々しい傷だ。
譲葉のため、真っ直ぐ前を向かなければ。譲葉のため、真っ当な大人にならなければ。
月裏は意志を自分の心内に置き、無理矢理飲み込んだ。
朝の決まった遣り取りにも、霧がかかっているような錯覚があった。言葉も顔もぼんやりとしていて、明らかに自分がまともではないと分かる。
しかし欠勤を恐れる癖は治らず、そのまま職場に出た。
上司は生憎他部門に出張中だった。同僚曰く、他部門でも頼られるほど人望を厚くしているらしい。
月裏は強引に仕事に努めていたが、不調は収まらず夕方頃早退を決めた。
足が、いや体が鉛のように重い。自分が何か薄い膜の中に居るかのように、世界と隔離されている感覚もある。
風邪ではあるだろうが、明らかに悪化している。このまま病院に行って、薬の処方を頼んだ方がいいかもしれない。
ぼんやりと考えていると、手首の傷跡がふっと脳内に降って来た。それは重い重い枷になり、月裏を縛る。
月裏は立ち止まりそうになる足を引き摺って、自宅を目指した。
幾度と経験している事だが、今日は特に力が必要だ。階段を上がるのも扉を開くのも、気力が必要で中々進まない。おまけに意識まではっきりとしない。
漸く扉を開き、急いで廊下に足を乗せた時、限界値を超えていた月裏の体は大きく転倒した。
廊下の冷たさが仄かにしか感じられないほど、体が冷えていて寒気がする。
「月裏さん……!?」
遠く遠くから、譲葉の驚く声が聞こえた。不器用に駆け寄ろうと努める足音も。
「大丈夫か! 月裏さん!」
「…………大丈夫……」
「熱がある……今病院に連絡するから待ってろ」
立ち上がろうとする譲葉の手首を、無意識に握り行動を阻止する。
「えっ……」
「…………だめ」
「……でも、俺の携帯あっちなんだ、直ぐ戻ってくるから」
「……病院はだめ……」
心のコントロールがちぐはぐになっているのか、他人に腕を捲くられる恐怖が過剰に湧いてきて、戸惑う譲葉の手を離せなかった。
「でも、お医者さんに」
「だめ!」
声を張り上げた所為で吐き気に襲われ、もう片方の手で強く口を塞ぐ。譲葉は硬直しているのか、触れる感触も声もなかった。
意志表示を終えた月裏は、激しい眠気に襲われて、譲葉の表情を見ないまま意識を失った。
ゆっくりと瞼を開け天井を見た時、頬に雫が伝っている事に気付いた。むくりと起き上がり茫然とする。
夢の内容すら覚えていないのに、感情の形だけは曖昧ながら残っているという奇妙な状態だ。
放心していると急に吐き気が上ってきて、その場で両手を宛がった。
譲葉が気付く前に立ち去ろうと考えたが、無性に気持ちが悪くて立ち上がる事もままならない。
「…………大丈夫か?」
耳に届いた瞬間ベッドを見ると、譲葉が上体を起こしている様子が見えた。
不快感を持ったままで、両手をそっと下げる。
「…………大丈夫だよ譲葉くん。ごめん起こしたね…………」
「気持ち悪いのか?」
「……ちょっとね、風邪でも貰ったかな……」
近付いてきた譲葉は、左手の平を肘起き部分に付いて、右手で背中を摩った。
優しさが、弱さを膨張させてゆく。
「…………ごめん、不安にさせる姿ばっかり見せちゃうね……」
「辛い時はある、無理しなくていい」
「…………ごめん……」
「茶でも呑むか?」
「……大丈夫だよ、ちょっとトイレ行ってくるね」
自然な流れで腕をすり抜け、月裏は便所へと向かった。
本物の風邪か、感情の表れか、便所に着くなり実際に嘔吐してしまった。一回でどうにか落ち着いたが、体内の水分が枯渇しているように感じられて力が出ない。
譲葉が待っているから、早めに戻らなくてはならないのに――。
思えば思うほど、涙が溢れた。
数十分後、ようやく戻ると、ベッドに座っていた譲葉が焦った様子で近付いてきた。
「大丈夫か?」
「うん、大分と落ち着いたよー。ごめん心配かけたね、僕もう一回寝るから譲葉くんも寝なよ」
「……そうか、良かった」
月裏がソファに横たわるのと同じタイミングで、譲葉も横になり背を向けた。
目を閉じたまでは良いが眠れない。頭がぼんやりとしているのに、目を閉じて眠りに落ちるだけの行為に恐怖が溢れてきて、脳を支配して離さない。
結局、居ても立っても居られずに、忍び足で部屋を出た。
得体の知れない感情に押し潰されそうになる感覚を、久しぶりに噛み締める。怖くて苦しくて、死にたくなる感覚だ。
戸棚を一瞥して目を逸らし、手首をぎゅっと握り締める。それでも落ち着かず、少しだけ腕を捲くって爪先で傷をなぞった。
元々の皮膚の色が変色してしまい、くっきりと線を残す傷跡は汚らわしく目に映る。
突然、譲葉の背中の傷跡が過ぎった。自分の持つものよりも遥かに痛々しい傷だ。
譲葉のため、真っ直ぐ前を向かなければ。譲葉のため、真っ当な大人にならなければ。
月裏は意志を自分の心内に置き、無理矢理飲み込んだ。
朝の決まった遣り取りにも、霧がかかっているような錯覚があった。言葉も顔もぼんやりとしていて、明らかに自分がまともではないと分かる。
しかし欠勤を恐れる癖は治らず、そのまま職場に出た。
上司は生憎他部門に出張中だった。同僚曰く、他部門でも頼られるほど人望を厚くしているらしい。
月裏は強引に仕事に努めていたが、不調は収まらず夕方頃早退を決めた。
足が、いや体が鉛のように重い。自分が何か薄い膜の中に居るかのように、世界と隔離されている感覚もある。
風邪ではあるだろうが、明らかに悪化している。このまま病院に行って、薬の処方を頼んだ方がいいかもしれない。
ぼんやりと考えていると、手首の傷跡がふっと脳内に降って来た。それは重い重い枷になり、月裏を縛る。
月裏は立ち止まりそうになる足を引き摺って、自宅を目指した。
幾度と経験している事だが、今日は特に力が必要だ。階段を上がるのも扉を開くのも、気力が必要で中々進まない。おまけに意識まではっきりとしない。
漸く扉を開き、急いで廊下に足を乗せた時、限界値を超えていた月裏の体は大きく転倒した。
廊下の冷たさが仄かにしか感じられないほど、体が冷えていて寒気がする。
「月裏さん……!?」
遠く遠くから、譲葉の驚く声が聞こえた。不器用に駆け寄ろうと努める足音も。
「大丈夫か! 月裏さん!」
「…………大丈夫……」
「熱がある……今病院に連絡するから待ってろ」
立ち上がろうとする譲葉の手首を、無意識に握り行動を阻止する。
「えっ……」
「…………だめ」
「……でも、俺の携帯あっちなんだ、直ぐ戻ってくるから」
「……病院はだめ……」
心のコントロールがちぐはぐになっているのか、他人に腕を捲くられる恐怖が過剰に湧いてきて、戸惑う譲葉の手を離せなかった。
「でも、お医者さんに」
「だめ!」
声を張り上げた所為で吐き気に襲われ、もう片方の手で強く口を塞ぐ。譲葉は硬直しているのか、触れる感触も声もなかった。
意志表示を終えた月裏は、激しい眠気に襲われて、譲葉の表情を見ないまま意識を失った。
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