造花の開く頃に

有箱

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12月18日

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[12月18日、日曜日]
 あの後、せめて直ぐ対応できるようにと部屋に戻った月裏だったが、緊張の糸が張り詰めていて眠れずに居た。
 眠気に誘われ一瞬寝落ち、また目覚めると言った行為の繰り返しだ。

 先程から、目覚めては譲葉を見ているが、変化はなく背中を向け続けているだけだ。
 緊張と不安が体に不調を齎していて、胃の辺りやら胸の辺りやらが痛くて仕方がなかった。
 その為月裏は、何度目かのトイレに立った。

 とは言え、吐くだけに居るに等しい。
 ストレスがピークを迎えているのか、吐いても吐いても胃のむかつきは収まらず、また吐き続けている状態だ。
 体に力が入らず、頭もぼんやりとしているのに、まだまだ思考は止まらないらしい。

 今の譲葉に、この不安を悟らせてはならない。
 自分の中だけで起きている問題ならまだしも、今は譲葉の件が大きく中身を占めている状態だ。
 知ってしまえば、彼は深く謝罪するだろう。そうして責任を自ら負おうとするに違いない。
 だから今は、気丈に振舞わなければ。

 長い間部屋を空けて譲葉が勘付く事を恐れ、月裏は僅かに収まったタイミングで踵を返した。
 だが部屋の扉を空けた時、また心に突き刺さる感覚を覚えた。

「……ゆ、譲葉くん…………!」

 毛布を肩まで被ったまま両手を口に強く宛てがい、酷い過呼吸を起こしている。
 何度か名を呼んだが返事はなく、自然と声は失せた。
 立ち尽くしてしまう。呆然と見る事しか出来ない。助けるべきだと強く分かっているのに、体が言う事を無視してしまう。
 駄目だ。繕うと決めたばかりなのに泣いてしまっては駄目だ。苦しいのは譲葉なのに、自分が辛くなってしまっては駄目だ。

「…………譲葉……くん……」

 死にたいなんて、駄目だ。

 触れられる距離で悶える譲葉を、また見ている事しか出来なかった。無力さを、きつく噛み締める。
 譲葉はがたがたと震えたまま、浅く呼吸している。震えが恐怖をひしひし物語る。
 今譲葉は、恐怖の中に一人ぼっちで佇んでいる。縋る者も逃げ道も見つけられずに、立ち尽くしている。

 ――ただ居るだけだった。本来なら救いの手を差し伸べなければならないものを、声の一つさえ投げ掛けられなかった。
 駄目だ、駄目だ。我慢しなくては駄目なのに。
 月裏は、ポタポタと落ちてゆく涙を止められなかった。
 弱すぎる自分が厭になる。情けなくて情けなくて、恥ずかしくて死にたくなる。
 現実から逃げたい。真っ暗な未来を遠ざけたい。

「…………譲葉くん……」

 漸く、真っ暗で潤んだ瞳が月裏を見た。それでも、呼吸も震えも恐怖の真っ只中にあるままだ。
 逃げる方法は、やっぱり一つしか思いつかない。

「………………一緒に死のう、譲葉くん……」

 譲葉は驚いた様子もなく、ただ絶句している。今にも閉じそうな瞳で、月裏の瞳を捉え続けたままだ。
 ごめん、勝手だって分かってる。けれど怖いんだ。
 継ぎ足したかった言葉が、声にならずに心の中で蟠る。

「………………分かっ……た…………」

 譲葉の囁きが、静寂の中ではっきりと聞こえた。
 月裏は、想像を覆した返答に目を見開きながらも、決意を固める工程へと己を突き動かす。
 気持ちが変わらない内にと、白くて細い首筋を見遣った。

「………………ちょっと我慢してね……」

 力なく目を開けたままの譲葉の視線を浴びながら、月裏はゆっくりと譲葉の首に手を回す。軽く触れただけで力強い脈拍が伝わってきた。
 譲葉は悟ったのか、そっと瞼を閉じる。

「…………ごめん……」

 首全体を掴むように、ゆっくりと力を込めた。

 力を強くするほど、空気の通り道を狭めるほど、譲葉の脈ばかりが手の平に触れる。
 我慢しているのか、右手はシーツをぎゅっと握り締めたままだ。
 瞳を強く閉じて、歪んでゆく表情から目を背ける。
 これは救いだ、と言い聞かせて絞め続ける。

 ――――だが、始めてからずっと動かなかった譲葉の手が月裏の左腕に強く触れた時、月裏は驚いて思わず手を離していた。
 譲葉がその場で大きく噎せ返り、ベッドの中で屈める。今にも窒息しそうなくらいの咳を繰り返す。
 月裏は急に自分が恐ろしくなり、その場で尻餅をついていた。目の前で広げた手の平が震えている。

 取り返しのつかない事をしようとしていた事実が降り注ぎ、脳内を罪悪感が満たした。
 自分は譲葉に手を掛けようとした。譲葉の人生を奪おうとした。
 自分の為に、自分が逃げたいが為に。

 脳内がパンク寸前になった月裏は、逃げるように部屋を飛び出した。
 苦しくて苦しくて苦しくて、今にも倒れそうだ。口を塞いでも尚、嗚咽が溢れそうになる。
 廊下を通り抜け勢い良くリビングに入った月裏は、一目散に包丁を手に取っていた。
 迷う事無く、首にぴったりとくっ付ける。

 だが、直ぐには引けなかった。
 譲葉の言葉がリミッターになったのだ。
 いつかに言った¨死ぬ時は一緒だから、勝手に死ぬな¨との言葉。それが脳裏から飛び出してきて抑制した。
 同じ時間の中で誓った約束が、月裏を激しく揺らす。
 自己嫌悪と罪悪感が死を引き寄せ、譲葉の言葉が死を遠ざける。
 譲葉を殺そうとしたのに。自分の勝手な都合で命を奪おうとしたのに。

「…………月裏さん…待って……」

 はっと振り向くと、壁に寄りかかった状態で譲葉がこちらを見ていた。その頬はずぶ濡れになっていた。
 開け放たれた扉から、譲葉が歩んでくる。
 しかし途中で、全身が大きく前に傾く―――。
 月裏は無我で支えに回っていた。包丁はキッチンの流し台に放り投げ、譲葉の体を全身で受け止める。

「…………月裏さん……」

 黒髪の隙間から覗く白い首筋が、いやに目立って見える。数瞬前の感触を思い出し、また体が震えだした。
 逃げ出したい心理を読み取ったのか、譲葉の両手が月裏の腕を力強く掴む。
 軽く俯き顔の見えないまま、声だけが聞こえて来た。

「…………死なないでくれ……」

 後半にかけて声が震えてゆく。その変化は、直ぐに涙を連想させた。

「…………生きてくれ……俺は一人じゃ駄目だ……でもやっぱり、死ぬのも怖い……」

 強く強く力を込める手の平は、まだ震えていた。やはり怖かったのだ。はっきりした涙が悟らせた。
 譲葉の姿が霞んでゆく。ぼんやりと景色が形を曖昧にして行く。

「…………だから二人で生きよう……苦しくても……辛くても……お願いだ、死なないでくれ……」
「……譲葉……く……ん、ごめ……」

 謝罪は途切れ、変わりに涙が溢れ出した。堪えようとして働く力と悲しみが押し合って、咽び泣いてしまう。

「……ごめん……譲葉くん……」

 早まる嗚咽の合間を、言葉で埋める。

「……さっきのはもう良い……だからお願いだ、もう……」
「ごめん……! ごめん……! ごめん……! ごめん、譲葉くん……ごめんね……!」

 月裏は叫んだ。同時に決めた。
 これから、譲葉の為に生きてゆこうと。罪を償う為に生きてゆこうと。
 その後も暫く、声をあげて泣いた。

 買い物に行く気力の残されていなかった二人は、冷凍庫に残る数少ない料理を食べてから向き合っていた。
 激しく体力を消耗させてしまった譲葉をベッドに寝かせ、念のため薬も飲ませてから唯々見合う。
 カーペット越しの床の冷たさなど、全く気にならない。

「…………月裏さん」

 譲葉の、敢えての切り出しに身構える。だが、優しい微笑みを湛え自然体を演じてみせた。

「……何?」
「…………驚かないで聞いてくれ……」
「…うん……」

 本心では相当緊張しているが、演技の持続に全力を注ぐ。

「…………実はずっと寝れてなかったんだ……本当に風邪もあったかもしれないが、頭が痛くなるのが怖くて、眠るのが怖くて寝れていなかった……」

 ここ一週間の生活について、言及しているのだろう。弱っている姿を見て少しは可能性を案じていたが、やはり本当だったのだ。

「……ごめん、心配させるのが嫌で言えなかった……」

 珍しく腫れた瞼の譲葉は、どこか哀愁が漂っている。心からの申し訳なさが表情の上からも見え、逆に心苦しくなる。

「……ううん、僕も気付けなくてごめん……」
「……違う、そう言う事じゃない……」
「……ご、ごめん……」

 俯きかけた視線が、譲葉の鋭い瞳に掬われる。吸い込まれるような眼差しが、視線を奪ったまま離さない。

「……月裏さん、俺、この症状どうにかしたい。どうやるのか分からないけど、どうにかしたい」
「…………うん、そうだね……」

 真剣な眼差しに圧され気味になりながらも、月裏は深々頷いた。これは本心だ。ただ、方法が見えず不安なだけで。

「……また、迷惑かけてしまうな……」
「……ううん全然、寧ろ話してくれて嬉しいよ」

 罪悪感は一向に抜けない。今はただ、譲葉への贖いの気持ちでいっぱいだ。

「…………あとで病院行ってみようか……?」
「………そう、だな……」

 どうか譲葉との日々が、幸せに恵まれますように。
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